たびたびブログにも書くが、私は水生昆虫に対して、そこそこの興味を持っている。
田んぼに行き、水面をのぞく。
人工池があれば、水面をのぞく。
ちょっと大きな「かめ」に水がたまっていれば、水面をのぞく。
高速道路。
一面、田んぼの風景に、ぽつんとため池が認められたりしたら。
そこに行きたい気持ちと、どうやっても行けないという事実。
池や沼に、日々一喜一憂している。
私がぼそっと「いい池してるなぁ・・・。」などと口にしたら、そのときは浪漫飛行中である。
ところで「水生昆虫」に興味を持っていることは、「いとみみず」に興味を持っていることに置き換えることができる。
なぜならば「いとみみず」は水生昆虫のえさとして取り上げられることが非常に多いためである。
例えば、水生昆虫の写真を見るということは、1/3くらいは「いとみみず」の写真を見ているようなものなのだ。
また「いとみみず」は水生昆虫と同じように、あまり見かけることができない生物でもある。
私は今まで、トカゲの死骸やよく分からない生物を捕まえた子供を見たことがあるが、「おかあさーん!!。いとみみずがこんなに取れたよ!!。」という子供には、出会ったことがない。
いや、実は捕まえた子供もいたかもしれないが、それは詳細に書くと「捕まえていた」だろうし、「付着していた」となるだろう。
要は、小さいのである。
私もよくは知らないのだが、なんとなく田んぼですごく細い、小さいものがピラピラしていたら、それは「いとみみず」であることにしている。
そして「こんなにエサがあるんだから、何かいるんじゃないか」と心ときめかせるのだ。
このように「いとみみず」は、ある人種にとってはターゲットとなっているが、それでも「えさ」としてであり、少なくとも主役となるような人格を持たされてはいない生物だ。
がんばっても「えさ界」の主役である。
私は中学生の頃、「いとみみず」が主役の写真に出会った。
保健体育の教科書である。
「たばこの害」と銘打たれたその写真は、正常な水にいる「いとみみず」と、ニコチンを添加した水にいる「いとみみず」である。
その差は歴然。
正常な方は、ちゃんとみみずしており、どこか「これから飲みにいこうか」という雰囲気すら出している。
しかしニコチン側は、ちゃんとみみずしていない。とうに死んでしまっている。
この写真を見たとき、私はたばこの害について、水生昆虫について、いとみみずについてで脳内大騒ぎだった。
そこそこのたばこなら、だいたい一本の誤食で、幼児の命を奪うという。
そして、たばこによる事故の多くは、誤食であり、誤飲だそうだ。
誤飲。
死んでしまったほうの「いとみみず」が経験したシチュエーションは「飲みかけのジュースに吸殻を入れました」というものなのだ。
私は「口に吸殻のかけらが付いている空き缶」を見ると、保健体育の教科書を思い出す。
「あぁ、水生昆虫のえさが・・・。」
ということで、吸殻はちゃんと灰皿へ。
そうしないと、こればかりは、いとみみずに申し訳ない。
投稿者: nimbus7942
紫煙八景・自失の念
絶叫マシーンに乗りたがったり、お酒などで酩酊感を味わったりしたがるのは、少なからず誰しも「自らを失う願望」のようなものがあるからだ。
ある作家は、この願望が何を意味するのか、を書きたかった。
もちろん彼は次のことを知っているだろう。
「みんな、おぼろげかもしれないけど、そういうものがあるというのは知っているだろうなぁ。」
生きるということは、同時に死というものへ向かっていくことである。
したがって、我々は既に「ゆるやかな自失」を実行していると言える。
この法を背負っていても、人間というものは、時として故意に自失を求めるのだった。
これは、なんなんだ。
「近代社会における生活水準の向上が、死というものの重みを軽減した。その代償である。」とかいうんじゃ、もったいないぞ、話として。
よし、実学主義だ。
酒もってこい、酒!!。
などと思ったかは全然知らないけど、話はもうすぐ終わります。
簡単に言いますと、僕はたばこの煙を吸うのが、大好きなのです。
おそらく、小さい頃に、父親がたばこを吸っているときに、すっごくたくさんアメ玉をもらったとか、そんなんだと思うのですが、とにかくあの香ばしさが好きだ。
ただ、吸っている人による。
こういうだけでだいたいのことは読み手の脳内で補完されていると思うので言及はしません。
また、においの強度ね。
あんまり煙たすぎると、だめだ。
健康のことも考えちゃうしね。
一生懸命ボールペンに付いた値札シールをはがしているときに、ふと煙が香る。
そんなんがいい。
もちろん、そんなときの僕に「自失」どうこうは、全くない。
だが、今回の話の後半部分は、僕以外の人にとっては副流煙話であり、僕は自失まっしぐら、ということになる。
無害な煙で、吸ってる人もおいしい。
そんなたばこは、早く作れ!!。人!!。
紫煙八景・律儀な男
こんなクイズがあった。
「5個のたばこの吸殻から、1本のたばこを作り出せる男がいます。」
「今日は25個の吸殻を手に入れることができました。」
「その日、彼は何本のたばこを作り出せるでしょうか。」
クイズというものの持つ性として、5本ではないな、と思われてしまうのはしょうがない。
そして「25個の吸殻から新たに作った5本を吸い、生じた5個の吸殻でもう1本できるから、計6本作ることが出来る。」という解答に到達するのは、さほど困難ではないと思われる。
だが、そんなことよりも「問題の男」が気にかかる。
彼は「5個の吸殻から、1本のたばこを作り出せる」技術を、自分がたばこを吸うためのみに費やしているようだ。
また、解答として「新たに作った5本を吸い、生じた5個の吸殻でもう1本」とあることから、彼の生み出す「吸殻たばこ」はほぼ新品である様子。
「たばこの吸殻から、1本のたばこを作る」という点が、なんとも男の悲哀を感じさせる。
新品同様のたばこで、何かできないだろうか。
何で新たな吸殻を生み出すために、吸っちゃうんだ、男!!。
どんだけ好きなんだ、たばこ。
だが、彼は律儀なだけなのだった。
クイズに意外性を持たせるためだけに、彼はたばこを吸い続ける。
土地開発
本日、3次元の友達とラーメンを食べた。
ここのラーメン屋は、どうしたことだろう。
食べる席ひとつひとつにモニタが設置されており、そこでなにやら流行りの歌のプロモなどが流れる。
よって、若者は食欲だけでなく、いやおうなしにCD購買意欲も刺激されるような仕様なのだ。
人間で欲と言えば3つほど思い出されるが、それを複数、同時に満たすことは難しいとされていた気がする。
そのような人間の気質のおかげか、食欲を満たしても「いますぐCD買いに行かな!!。」とはならなかった。
さて、目の前のモニタでは、どこかで聞いたことあるような人のプロモがやっている。
だが、僕は最近の音楽事情に極めて疎い。
「最近の歌とかには、ついていけなくてねぇ・・・。」
えんがわのひなたぼっこの様相である。
と、モニタに「柴田淳」なる人物が現れた。
申し訳ないのだが、全く知らない人物だ。
彼女がなにやら曲を出すのだろう。
「シバジュン、待望の・・・」みたいな字幕が出る。
そこでなんとなく「田くらい、略さなくてもいいのにね。」とかいうことを言い、ラーメンとプリンを食べ、ゲーセンに行って帰った。
しかし帰り道、僕は深い後悔を味わうこととなる。
「さっきのシバジュンの田のくだり、「日本の食料自給率低下の一因が、こんなところにも。」と付け加えるべきだった・・・!!。」
この後悔は、みんなが思っているよりも深いが、直りも早い。
カノン?
よくわからないのだが、こういうことはできるのだろうか。
1.何かの楽器で、録音をしながら曲を弾く。
2.別の楽器で、再生した1の曲と合わせつつ、曲を録音しながら弾く。
3.「1と2」を繰り返す。
4.すごい大演奏になる。
僕が見たいのは、この過程を全てリアルタイムでやっているもの。
1を行ったら、録音したものを再生しつつ2の準備をする。
そしてもう一度1を再生するときに、2をかぶせるのだ。
これを繰り返せば、ひとりオーケストラとも言うべき、ちょっとさびしいニュアンスを持つ行為も可能なんじゃないか、と。
歌のうまい人がやれば、全て自分で演奏した曲に、歌をのせることができ、かっこよさげだ。
そして、これを舞台で一人でやると、すごくいい気がする。
色々な楽器を一人でこなさなくてはならないので、大変そうだが。
ただ、誰かすでにやっていそうな気がする。
DVDとか出ているんじゃないだろうか。
出てたら、み、見たい・・・。
今「ひとりオーケストラ」で検索してみたら、なんだか正月のかくし芸での青木さやかの見世物がひっかかる。
残念だ!!。
近頃のかくし芸は、全然視聴していないので、「青木さやかのひとりオーケストラ」がどんなんだったのか、わからんのだ!!。
そういうのは、もっと押していこうよ、さやか!!。
かくさなくても、いいじゃないか!!。
と、そういう感じのことができたら、結構迫力があって面白いと思った次第で。
フレンチ・キス
先ほど、リップクリームにスティックのりを仕込むという、いたずらを思いついた。
もちろんスティックのりにリップクリームを仕込むほうでも、いいことはいい。
しかし、何気にリップクリームは、封筒の口を塞ぐくらいの粘着力はあるかもしれないし、それを送られた日には、むしろ相手は開封時に「まぁ、さわやかな香り。」と感じるため、ちょっといたずらとは言えなくなりそうだ。
また、それほどの粘着力がなかったとしても、単に封筒にちょっといい気分をさせるだけだ。
人畜無害。
よって、リップクリームにスティックのりを仕込むほうが針千本飲まされる確率が高いと言える。
では、実際に仕込んだあとのことを考えてみよう。
誰かのカバンの中に入れておく。
誰かが、おもむろにそれを取り出し、唇に塗る。
なにこれ。
少し舐めたあと、ティッシュで拭く。
ある程度、労力を払ったのだ。
やはりもっといいものが見たい。
このいたずらにおいて、万人に浮かぶのは「んまっ!!」だろう。
「んまっ!!」について、少々補足させていただくと、
1.塗る
2.のりであることに気付かない
3.口は閉じたまま
4.のりが固まりそう
5.固まる寸前に口を開こうとする
6.口が開かず、苦しい
7.んまっ!!
このように「んまっ!!」への道は険しい。
ハードルと思われる部分は人によって違うだろうが、だいたい順番2?5であると考えられ、そして、やたら高いのだった。
可能性を考えると、いたずら被害者に「寝てる人」を当てるのが一番と思われるが、それでは「リップクリームにスティックのりを仕込む」という前提に、意味がなくなってしまう。
寝てる人には、そのままスティックのりを塗ればいいのだ。
このように、私たちが期待するような形で、順番7まで見ることは難しい。
「んまっ!!」まで到達できるいたずら被害者が複数いたら、それはもういたずら加害者としては夢がいくらでも広がりそうだが、残念ながら夢のまま、と言えよう。
だめな日
今日は、だめだ。
なんか、書いとくから。
使っていいよ。
「人にやさしくできる人は、人にやさしくされたい人だ。」
※ちょっといいことしたら、思いっきり恩着せがましく言おう!!。
「ワタシノ ツマハ モノヲ ツカムコトガ トクイデス」
※なにやら似たのを聞いた気がするけど、気にするな!!。
「ねり消しをねり続けると、だんだん垢と入れ替わってきます。」
※手っ取り早く純粋な垢を手に入れる方法だ!!。
「ロミオ(の庭師)とジュリエット(の庭師)」
※物語は、ヒーロー、ヒロインだけのものじゃない!!。
「ぱ、パーマとやらが、僕のあたまに!?」
※実際に言ってみたことがあります。
追記
なんだこれ。
洗手 3
昨日からの続きです。
【あらすじ】
黒い油で手が汚れているのだが、洗う場所がない。
下北沢という町は、雑貨と寺山修司氏が大好きな人々の集まる町、と言っても過言ではないが、もちろんそれ以外の人が来ても、うろうろできる。
しかし、手の汚れている人は、来てはならない。
まず、何も手に取れない。
ところせましと店が並び、魅力的な、なんだか用途のわからないものが売られているが、それを手に取ってしまうと黒い油で汚れるので、触れない。
じっくり選別することが許されないのである。
確か、気になっていためがね屋があった。
でも、ざんねんなことに、手が汚れているのだった。
めがねのふちを汚してしまう。
財布がほしいと思ってから、かれこれ3ヶ月くらいたつ。
でも、ざんねんなことに、手が汚れているのだった。
新品の財布が使用感たっぷりになってしまう。
なんだかお腹がすいてきた。
でも、ざんねんなことに、手が汚れているのだった。
ナイフや箸の美しい光沢を損ねてしまう。
ずいぶん前から、一辺50cmくらいの、木でできた正方形に近い、足が角ばった、学校の木工室にありそうな机を探していた。
でも、ざんねんなことに、そんなものはなかった。
ここで買えたとしても、どう持って帰るかで途方にくれてしまう。
このように、手が汚れていると下北沢のウリのひとつ「雑貨」が楽しめなくなってしまう。
あ、あそこに、寺山修司氏が歩いている!!。
・・・なんだ、ポスターか。
無意識のうちに、歩いている人とポスターを融合させてしまったようだ。
彼はずいぶん前、けっこう若いときに亡くなっている。
もし彼が生きていて、なぜか下北沢を歩いていて、なぜか僕と互いに「寺」「7」と呼びあう仲だとしても。
今の僕は手が汚れているので握手とかできないし、そもそもやっぱり近寄れないだろう。
このように、手が汚れていると下北沢のウリのひとつ「寺山修司氏関連」が楽しめなくなってしまう。
このように、下北沢で楽しめなくなった僕。
それを助けてくれたのは駅前のスーパー「ピーコック」だった。
そこのトイレには洗浄液とアルコールが置いてあったのだ。
そこで、無我夢中で手を洗った。
手を洗うときに、後ろの人を長く待たせることなんて、そうはない。
すばらしい爽快感と、洗浄液の芳香。
ありがとう、ピーコック!!。
ありがとう、洗浄液!!。
こうして僕の中では、下北沢は「雑貨とピーコックと寺山修司氏の町」となったのです。
「ピーコック2位で、寺山修司が3位かよ!!」と思われる方がいらっしゃるかもしれない。
だが僕は、本が読めない状態で、この町に出て来た。
ほんの。
ほんの少し、彼の言葉を踏襲した気もするのである。
洗手 2
昨日からの続きです。
【あらすじ】
オトナは、手が汚れてちゃ、ダメだ。
以前、土を掘ることとかを、を書いた。
この話でミソとなる部分のひとつは「おとなの手が汚れていたら、変だ」という点であると思っている。
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このあいだ、髪を切断するため、駅に向かっていたとき。
自転車のペダルがやたら軽いことに気づいた僕は、すぐにチェーンが外れていることに気づき、いやだなぁと思った。
それは、自転車のギア部分にチェーンをつけなくてはならないということであり、イコール自転車のギア部分についている黒い油をニベアニベアすることを意味している。
そして、この油は洗ってもなかなか取れず、石鹸に対しても、子猿を奪われた母猿のように強いのだ。
しかたないので、手を汚しながらもチェーンをはめていく。
黒い油は、ハンバーグを作るときのひき肉油のように、半端なく手につくのだった。
でも、このとき僕は油断していた。
駅で手を洗えばいいや、と思っていた。
それまでの辛抱だ、と。
ところが、期待は裏切られた。
皆さんも覚えておかれたほうがよいと思うのだが、近頃の駅には石鹸がない。
固形の石鹸はもちろん、液状の、なにやら緑色のやつもないのだった。
美容室の、予約した時間が迫る。
そのまま電車に乗ることにした。
電車の中で手が使えないのは、なんとつらいものか。
つり革が、つかめない。
本が、読めない。
ケータイの意味が、ない。
頭も、かけない。
シートにべとーって塗りたくる、勇気もない。
ヘリから垂れるはしごにも、届かない。
理想の自分にあとちょっとで、届かない。
お金も、ない。
ここぞというときに、ふでばこに消しゴムがない。
入れたはずの水着が、ない。
希望もない。
水筒に、一滴の水もない。
そして・・・
★最後のオチ的なヤツは、下の5つから、自由にひとつだけ選ぼう!!。
1.もう、どうにも止まらない。
2.ラララ人生、アン、ドゥ、トロワ。
3.このあいだ「幹てつや」って言葉をテレビで聞いたときは、うれしかったな。
4.最近23時過ぎからの10chのゆるさが、なんだか楽しみでね。
5.あの山の方から、光が、びゅーっと、ね。びゅーっと、来たんですよ。
これまたしかたがないので、手のにおいをかいだり「自転車の油で、どれほど指紋が残るか」で遊ぶしかなかった。
結局、行く駅の全てのトイレには奇跡の水グリーンウォーターは存在せず、美容室の時間も過ぎてしまった。
よって、時間を2時間ずらしてもらうことになり、その分、さらに僕は彷徨しなくてはならなくなったのだ。
手は汚れたまま。
犯罪者の気分であるが、このように手が真っ黒に汚れる犯罪というのは、せいぜい「銭湯の煙突にチン入者あらわる!!」のようなものくらいだろう。
続かなかった、俺の書きたい気持ち!!。
続く。
洗手
人間には、やってはいけない事がある。
「人殺し」
いけないね。
何がいけないって「殺し」だ。
これがなければ「人」となり、なんかこうして一文字で見ると堂々としてていいな、とかなり、いけなくない事となる。
やってはいけない。
同様にオトナ限定で、やってはいけないコトがある。
例えば「ソフトクリームを鼻につける」というのは、ある程度の属性を持っているオトナでない限り、やってはいけないことである。
「大勢で同じ言葉を大声でゆっくり言う。」という項目も、常連。
オトナたちを呼んできて「林間学校」と言ってもらえば、よく分かるはずだ。
また、少々意外かもしれないが「バナナの皮でスベる」というのも、かなり上位をキープし続ける要素である。
だが「オトナが、やってはいけないコト」で、そのやってはいけないぶりから永久欠番となっているものあることをご存知だろうか。
「手が汚れていること」である。
そんなに重要じゃないじゃん、と思われるかもしれないが、そんなことはない。
絶対、オトナはやっちゃだめ。
もしやっちゃってたら、いち早く洗うべきだ。
また「俺の手は、呪われた血でべったりだ・・・。」とかいうのの比喩ではなく、本当に汚れていることである。
考えてもらいたい。
「電車の中で、黒く汚れた手を嗅ぐオトナ男性。」
助手が来ないので、近くにいたおじいちゃんに胴体切断のマジックを手伝ってもらうくらいの危険度である。
これは、やってはいけない。
明日に続け、俺の書きたい気持ち!!。
続く。