適切な使用を。

「拳銃」が「がちょーん」という名前だったら。
<警官発砲、犯人3週間の怪我>
昨夜23時ごろ、民家に強盗が入ったとの通報を受けた松木署は、直ちに警官を派遣した。
現場に到着した警官は立てこもっていた強盗を説得しようと玄関に接近。
そのとき強盗が激しく抵抗したため、警官は空に向けて、威嚇射撃を1回行った。
しかし、強盗はなおも抵抗を示し、包丁を手にしたため、警官は強盗へ2発発砲。
そのうち1発が、強盗の右大腿部に命中した。
その後、強盗は取り押さえられ、民家の住人も無事であることが確認された。
松木署では警官による発砲という事態を受け、「がちょーん使用は適切だった」とコメントしている。
しかし、近隣の住人からは「日本も、これからは「がちょーん」が氾濫していくのではないか」との不安の声も聞かれており、安易に「がちょーん」に頼る警察の姿勢を疑問視する動きも起こっている。

予告

今日もポケットの中で、携帯電話の横ボタンを押してバイブレーションをおこしての「着信が来たよ遊び」をしていると、ボタンを押していないのに、それが震え出した。
このタイミングは、僕と一番メールのやり取りをしているツタヤか。
ところが意に反して、それはアキからのメールだった。
ずいぶん会っていないが。
なんだろうか。
「あまり、よく見えない。フジテレビ。」
何だ、この内容は。
どういう意図なのだろうか。
気味悪いので、ほっておいた。
数日後、またアキからのメールが。
「あけて、しめる。白鵬。」
どういった事だ。
白鵬が、言ったのだろうか。
どうであれ、それを古い友人に送ってくるヤツも、どうかしている。
数日後、またまたアキからのメール。
「白イルカじゃ、ないんだから。花小金井駅。」
なんなんだ、その言い回しは。
というか、なんなんだ、この一連のは!!。
しかし、実はこのメールを待ち望んでいる僕にも、気が付いた。
一見意味不明だが、なんとなく何か奥深いものを感じる、というのは考えすぎだろうか。
アキが一体何の目的で、僕にメールを送ってくるのか。
そもそも、僕に送ろうとしているのだろうか。
それはわからないが、僕としては、これからもメールが来たら見ていきたいと思えるようになっていた。
*?*?*?*?*
2009年カレンダー 予告
【コピー・9月】
*?*?*?*?*

表現

昨日から。
【あらすじ】
ファッファいうやつがあらわれた。
=====
「ファッファッファッファッ!!。何を無理やり締めようと思っているのか。」
「やや。そのバルタン的な笑い声は!!」
「どうも。バルタン星人です。」
「こんにちは。」
「いや、特に何もないんですが、前回の露出話があまり面白くならなかったので。」
「助かります。」
「じゃあ、地球に来て驚いたこととか、言えばいいですか?」
「オー!!。スペースニンジャ!!」
「一番驚いたのは、地球人はみんなかっこいい、というところですかね。」
「オー!!。イタリアへ卒業旅行した女子みたい!!。」
「あ、わたし、中2です。」
「でかいね」
「地球人、みなかっこいいです。みんな、歩いている人に足をひっかけて転ばせたりしないです。」
「かっこいいの定義、揺らいでね!?」
「次に驚いたのは、納豆ですね。」
「国、名指しですね。」
「あれ、私たちの卵にそっくりです。」
「・・・あなたたち、卵胎生だったんですか。」
「私たちの卵も、糸がね。こう…。」
そういうと、カツジはヒンズースクワットを、極めてゆっくりとやり始めた。
宇宙には、そんな風に糸が伸びることを表現する方法もあるのかと、俺はひどく感心した。

素肌

くそ寒い昨今。
男にとって、女の子の肌露出や薄着は、想像を絶している。
もはや脂肪がどうこう、という域を凌駕していると感じている。
何か決定的な組織、器官の差異があるに違いない。
いや、メンタル面で寒さをカバーできる能力があるに違いない。
生足を見る度、チーム男性は、そのことで話題沸騰である。
ズボン下なんて本当ははきたくないおやじは、どうにかしてその秘訣を知りたがっている。
「あんなカッコしやがって。見てる方は寒いんだよ。」
そういう男は、確実にうらやましがっている。
寒さに強いことを。
女性の肌に興味を持つ男性が多いのは、単にその美しさによるものだけではないのだ。
「ファッファッファッファッ!!。何を無理やり締めようと思っているのか。」
「やや。そのバルタン的な笑い声は!!」
明日に。

明日も見てくれるかな。

さっき、神託が下った。
急だった。
「今日、13時00分に新宿アルタ前の広場で願い事を叫べば、叶う。」
これが神託なのか分からないけど、僕はそう感じた。
今、12時50分。
場所、所沢。
間に合わない。
間に合わないのが神託たるゆえんかもしれない。
でも、とりあえず僕は新宿方面に向かって歩き出した。
12時52分。
近くを歩いていた人に、新宿方面がこちらの方向でよいのか、訪ねてみた。
知らないと言われた。
間に合わないながらも焦ってきた。
12時54分。
分からない方向に走りながら、願い事を考える。
お金か。
才能か。
異性か。
どれも捨てがたく、その時になったら自然と口にするものを願い事にしようと思うが、その考えも弾む息とともにかき消えた。
12時57分。
走り疲れ、足がもつれ。
それでも分からない方向へ、歩き続ける。
見知らぬ公園を横目に、12時59分。
疲れはててもう動けないはずだったが、なぜか僕は公園の中心に向かって走り出した。
時間を確認しなくても、今、13時00分であることがわかる。
名も知らない公園で僕は、このとき自然と口にするべきものを、口にした。
「俺を、アルタに連れていってくれ!!」

クリスマスケーキ

クリスマスケーキは、クリスマスが過ぎるとただのケーキになると思われがちだが、そうではない。
ケーキ以下になるのだ。
ではなぜ「以下」なのかというと、飾りのせいである。
「merry christmas」的な飾りが、12月25日を境に、負に働きだす。
このときの、飾りの「クリスマスっぽさ」は、どうにも「祭りのあと」の悲しい感じが出てしまっていたり、その華やかさが辛かったり、じゃあ来年のクリスマスを指しているものと思い込もうとしても、そのときケーキは土になっていることは想像に難くなかったりし、頑張っても価値はゼロ以下になってしまうのだ。
みんな、そのことをよく知っている。
店頭の売り子さんは、24日から全力のはずだ。

ダミー欲

欲がありすぎるってのも困るけど、無欲っていうのも、困る。
何が困るかって、そんな人に何かをあげなくてはならないとき。
何をあげればいいのか、わからないのだ。
無欲であることは、ほぼ無趣味であることと、言い換えることができる。
趣味くらいあれば、それに関連したプレゼントができるものを!!。
あいつめ!!。
ぎりぎり延長コードが届かなくなれ!!。
と、こういうとき、人はたいてい「王様のアイディア」的なものに走る。
よって、無欲な人には、そういったアイテムが集まりやすい。
無欲な人。
それでいいのか。
そもそも、何をあげればいいかなんてことで、相手を困らすんじゃない。
ということで、大人のたしなみ。
ダミー欲の登場である。
「いやじゃないけど、そんな興味もない」
そんな欲を、日ごろからちょくちょく出していくのだ。
「かえるを集めている」
非常に有用なダミー欲であると思う。
友人は、よろこんでかえるの形をした鉛筆削りをくれるだろう。
かえるはダミー欲である以上、それほど興味はないわけだが、かえるのおかげで友人の手を必要以上に煩わせることもなく、自分も鉛筆削りに困ることがなくなった点で、それは素敵なことである。
もちろんダミー欲は、無欲な方だけでなく、欲欲な方にもオススメしたい。
安価に達成できるダミー欲を利用することで、相手に無理をさせない。
そんなこともできる。
大人である。
ただ、あまりにこのダミー欲に頼りすぎると、それはダミーでなくなる可能性もあり、その時は注意したい。
ダミー時代が長ければ長いほど、度が過ぎる欲になりがちだからだ。

すき焼き

今ちょうど、テレビですき焼きのことを言っていた。
ぶっちゃけ中井正広のブラックバラエティで12月21日の放送。
ここで僕が、タイムトラベラーであることが判明してしまったわけだが、それよりも重要なのが「すき焼きの卵の件」についてだ。
みんな、すき焼きを食べるときのあの、生卵が好きらしい。
うちの家族も、みんなそれだ。
しかしどうしてか。
僕はあの、生卵習慣がない。
なぜ、生卵ですき焼きをコーティングする必要があるのか、それもわからない。
きついのか。
割り下がきついのか。
なら、割り下の改善を目指すべきではないか。
肉か。
肉が、ダイレクトすぎるのか。
なら、肉を網戸で包んでみてはどうか。
生卵か。
逆に、生卵がどうしても必要なのか。
なら、付けるがいいさ。
俺は、認めないがな!!。
と、こう考えると、生卵の意義は、生卵が貴重だったころの、ぜいたくっぷりをあらわしたもの、くらいにしか見出せないのである。

ゆるす

「許しているんだから、許される」
こう思っている人は多いのではないか。
例えば、電車内で迷惑行為を働く人は、この考え方を持っているに違いない。
無意識かもしれないが「俺は許しているんだから、俺の迷惑行為は許されるはずだ」と。
ということで、ここで彼が何を許しているかということについて、考えてみる。
僕が1番に思いつくのが「特急電車がホームをすれすれに通過する」ことだ。
慣れていたり、気にならないという人もいるだろうが、そんな人でも、実はあの通過。「許している」。
あの質量のものがあの速度で走っているのは、結構すごいことだ。
危険。
でも、特急は急いで目的地に行かなくてはならない。
仕方がないから、人はその危険を「許した」のだ。
次に思いつくのが「キャベツの葉、すぐ腐る」ことだ。
人はそう聞いて、こう言う。
「それって、自然の摂理じゃない」
でも、内心は腐らないでほしいと思っている。
だから、無意識に「許している」のだ。
最後に、思いつくのが「もち、金網に付く」ことだ。
あれも、しょうがないことであると、人々は口にする。
しかし、本当は付いてほしくない。
後がめんどくさい。
そう思っている。
その兼ね合いの結果、とりあえず「許している」のだ。
以上のように、人は生きていく中で、許さなければならないものを多く持っている。
一方、許される行為はそれよりも数少ない。
数が合わないため、どうしても許される行為のレベルが低くなるのも、仕方ないだろう。
思うに、上に挙げた3つの事柄を「許す」と、もれなく「ホッチキスの置き場所を間違える」くらいのことが「許される」。
このくらいだ。

おなじみ哀歌

テレビで、どこかの高校の、ある部活動が紹介されていた場合、その内容を「どうせ、部員が足りないんだろ」と考えるのは、軽率である。
単純な部活紹介であったり、いいキャラの部員紹介であったりすることの方が多いのだ。
しかし私は「部員足らないの件」の方を考えてしまう傾向にある。
「部員が足りていませんが、部長ともども、頑張っています。」
部活動の紹介をしている番組を見ると、最終的には部員不足で締めくくるのではないかと考えてしまうのだ。
これは、古い小学校を紹介する番組についても、同様である。
廃校だ。
「いつも子供たちを守り続けてきたこの学校も、今年限りで廃校となります。」
古い小学校の話題と言えば、これなのだ。
確かに悲しいことで、そのことをどうこう言うつもりはないのだが、私が気にするのは「古い小学校の特集=廃校」の関係ができてしまっていることだ。
たまには「古い小学校ですが、校舎を一新。まだまだ続きまーす。」というのはないのだろうか。
それじゃ、特集にならんのか・・・。