人生は、責任と人間関係のオンラインRPGであるとも言えそうだが、まあそれは置いておいて、今日も楽する方針で何か書こうと思う。
部屋にあるコンセントから、変な汁が出ているのだが、どうすればいいのだろう。
これは嘘だが、せっかくなので考えてみようと思う。
実際汁が出てきてしまったときの練習にもなるし。
まず、汁がどのような感じで出ているのか、よく観察してみる必要がありそうだ。
・コンセントの穴、両方から垂れている。
・片方からしか、垂れていない。
・勢いよく汁を噴射している。
・いったん汁を拭い取ったあとがある。
・今は出ていないが、下に垂れた形跡がある。
・片方から汁が垂れているが、もう片方は汁を吸っている。
コンセントの穴、両方から汁が垂れている場合、これは電気屋さんに相談しなければならないことを示している。
汁に興味を持つ前に、電話するべきだ。
片方からしか汁が垂れていない場合もあるだろう。
一見両方から垂れているよりも安心感が生じるかもしれないが、これも両側から垂れているときと同様、電気屋さんに相談するべきだ。
「こないだ両方の汁漏れを直してもらったんですけど、今度は片方から垂れてきました」
このとき「ほら、前よりもましになったでしょ?」と電気屋さんが言ったら、その電気屋さんはかなりのやり手である。
勢いよく汁を噴射している場合。
それは例えば、そこにアダプタを差し込むと、そのアダプタがぽーんと飛ぶ。
そのくらいの噴射だ。
こんなことになるとすぐにでも電気屋さんを呼びたいところであるが、それよりも有効なことがある。
それは犯人を見つけることだ。
一般的に、コンセントの穴から汁が噴出することはあまりなく、それは明らかに人為的ないたずら、いやがらせ、殺意である。
「あいつだったら、これくらいのことはやりかねない」
そんな人はいないだろうか。
そいつが犯人である。
思いのほか長いので、次回。
投稿者: nimbus7942
人魚2割増し
ブログの更新も滞り中であるため、楽していこうと思う。
「えっ、ひとりで目薬をさせない人急増!?」
全然関係ないけど、「人急増」のところ、「人魚増」って読めるね。
で、目薬のさし方どうこうは、もはや新規介入が難しいほどいろいろあるけど、そんな中で冒頭のようなタイトルがyahooニュースのトピックストップを飾っていたら、どうだろう。
おもしろいだろうか。
それとももっとすごいことでなくては一面を飾ってはいけないと思うだろうか。
「えっ、日々の健康管理で、目薬いらず!?」
全然関係ないけど、「!?」ってめちゃくちゃ便利だよね。
で、健康管理さえどうにかすれば、目薬がいらなくなるってどうだろう。
できればそれよりもすごいことが「いらず」になってもらいたいところだよね。
もちろん眼圧を下げる目薬をちょこちょこ行わなくてはならなかったりすると、その煩わしさが健康管理で解消されることはいいと思うけど。
正直目薬いらずの人って、案外いそうだしね。
万年水道水って人もいるかもしれないし、例のを使用するために、小学校のプールに忍び込む人だっているかもしれないし。
「えっ、今年は人魚増で、ますます不老不死が流行のきざし!?」
今年は老若男女の定義を考えなくちゃいけなさそうですな。
20100808現在。
余生
余生を送る。
どうにも惰性で終わります、という感じがしないでもない。
しかし考えてもみると、人間次の1秒あとからすでに余生が始まっているとも言える。
「じゃあ俺、余生はオムライスで過ごすか」
こうすると「お前ずっとオムライス食べるんだからな!!」とツッコまれそうだが、安心してほしい。
次の日は「余生はカレーでいくか」と言い直せばいいのだ。
余生とはいえ、その生き方を変えてはいけないという法はどこにもない。
「失意の斉藤さん。今後は余生は静かに過ごすつもりである」
こう方針づけたからといって、飲み屋で騒いではいけないことはない。
少しくらいはいい。
「うそそれめっちゃ俺と趣味合ってんじゃーん!!」
「いいのそれ俺話すとすげー長くなるけど!!」
「うわそれ超いい感じに持ってってるよー!!」
斉藤さんは余生を満喫中である。
毒薬の味2
昨日からのつづき。
【あらすじ】
毒薬について。
=====
相手に何らかの健康的危害を与えるための毒薬。
テレビドラマかなにかで、それは遠隔的な犯行を可能にするために使用されることがある。
例えば酔い止め。
酔い止めの薬として毒薬を持たせるのである。
飲んだら犯行が成立するし、飲まなかったら次回試せばよい。
しかしである。
もし被害者が隣で酔った人のために、その毒薬を渡してしまったりしたら、どうだ。
それに、たまたまその毒薬を落としてしまったときに、たまたま地べたで寝ていた人があくびをしたら、どうだ。
毒殺をもくろんだ策略家であるらしかった加害者は、彼的にはかんべんしてほしい無差別殺人犯になってしまうだろう。
あるいは料理にいれての毒キャリーオーバーを狙った犯行。
これだって、どうだ。
毒を入れた料理が案外おいしくなってしまって、好評を博してしまったりして、売り出してしまったりして。
成分表示のところに「その他」とか書くはめになったら、どうだ。
お皿を洗ったときに、流しから毒薬が流されてしまい、川で子供たちが遊んでいたら、どうだ。
自分の親が水浴びをしていたら、どうだ。
その2km下流で恋人が水浴びをしていたら、どうだ。
さらに2km下流で潜水をしていた人が、あくびをしたら、どうだ。
そんなことを考えると、毒でどうこうはパフォーマンスが悪そうだし、何よりいけない。
昔、どこぞのヨーロッパなどで動物が行った犯罪を裁く裁判が行われていたらしい。
数ある疑問もあれど、何よりも「ぬれぎぬを着せやすい」彼らにとってはあんまりな話である。
それは毒薬だって同じだ。
物質だって悪者にしちゃあいけない。
毒薬の味
「毒を盛る」こともあるかと思う。
そのとき、その薬効もさることながら重要なのが味だ。
味で気づかれてしまったら、吐き出されてしまうかもしれないから。
「なんか腐ってる」で勘違いで済んだならいいのだが、「お前これ、いつもより毒多いぞ」なんてことになると、その願い叶わないばかりか、盛ってることがばれているのである。
(ただ、ある意味度量の広い被害者であるとも言えそうで、心温まるエピソードである)
こういうことを考えたとき、例えばある薬品。
もちろん料理なんかでは使用しない、毒に属するような薬品の詳細に「ごまの風味がする」と記載されていたら面白い。
その情報、どうしろというのか。
あとおしだろうか。
「かおり」なら、まだなんとなくわかる。
その薬品の存在に気づくためには、かおりは重要だろうからだ。
ある毒薬で「磯のかおりがする」。
磯のかおりが確認できたら、対応をとることができるわけだ。
ある毒薬で「醤油をかけるとウニの味がします」。
ウニの味が確認できたら、後日プリンに醤油のかかったものの前で息を引き取った何者かが発見されるわけだ。
しかしそれも、微量で死に至るような薬品の場合は「かおりを嗅ぐ」のも危険。
いわゆる「マスタードガス」というのは、遅効性らしいことも手伝って、思ったよりもなかなかにブラックなネーミングである。
なんとなく思ったのだが、かおりに毒をしのばせて、相手を蝕むことはできるのだろうか。
「毒を盛る」なんてのはばれる。
これからは「毒の含まれた香水」で毒をあたえるぜあたえるわ。
これはやめた方がいい。
自分が一番危ない。
遠くにいる相手に香り袋として送ったらどうか。
次回。
廃墟
唐突ではあるのだが、こんなことを思いついた。
「廃墟となった家の玄関に、どんな内容の張り紙があったらいいか」
唐突にお題を思いついてしまった。
暑いというのに、つらい。
しかしすぐに、なかなかの解答が出た。
「すぐもどります」
かなり怖いのではないだろうか。
ただ、これだけではあんまりなので、今考えてみる。
「何やらサンスクリット語のようなもの」
「セコム」
「そっとしておいてください」
これだけは言っておきたいのだが、廃墟の家に張り紙があっただけで、既に少しおもしろいのである。
だから、何が書かれていても多少はおもしろい。
そして各個勝手に深みを見いだせたなら、なおおもしろい。
「ディズニー」
「アッパー系」
「神秘」
「フォッサマグナ」
直球なのも、いい。
「隠れ家」
「入り口」
「破格」
「別荘」
心にじんとくるものだってある。
「パイオニア」
「二度と」
「宇宙」
「コラボ」
なんだか美しいものだってある。
「細野」
「坂本」
「高橋」
「YMO」
なんか最近暑いな。
終わりにすます。
カラオケバージョン
カラオケバージョンのものを1曲と数えるのか。
それが問題だ。
どうなんだ。
音楽プレーヤーに好きな歌を入れて外出、さて聴こうかというときに、カラオケだ。
周囲に誰もいないならまだしも、まず歌うなんてできないじゃないか。
カラオケバージョンは以上のような間違いばかりを生み、一方で恩恵はそれほどない、いらないものなんじゃないだろうか。
いや、いるのか。
いる人もいるのか。
ということは、ちゃんとカラオケバージョンの可能性も考えて、パソコン上の選曲を行わなければならないのか。
そこを、まちがったのがいけないのか。
そんなに おれが 悪いのか。
ここでもう「ララバイからの、おやすみなさい」を宣言したいところだが、問題は解決していない。
???カラオケバージョンの弊害???
なんとなく損した気分。
「あ、好きな曲が始まった」とだまされる。
試しに歌ってみて「自分は歌がうまくない」ことが、如実に。
カラオケボックスで流れる感じでもないため、いまいち練習にならない。
instrumentalって何かわからん。
???カラオケバージョンの恩恵???
曲は好きだが、人の話す声が苦手。
催し物で活躍。
自分の歌声を入れて録音、個人的に楽しめる。
「好きな曲だと思わせておいて、実はカラオケなんだろ?」と多少の優越感。
instrumentalって何かかっこいい。
???カラオケバージョンに替わるいろいろ???
狂言バージョン
音階バージョン
廉価バージョン
パチンコ店バージョン
まだ本気を出していないバージョン
音量を抑えたバージョン
始めて二日目のバージョン
朗読バージョン
ダメ出しが出たときのバージョン
新曲っぽくしたバージョン
カラオケバジョーン
谷啓「バジョーン!!」
カラオケバー「ジョンソン」
ごめんなさいおやすみなさい。
名場面集
今日はこれまでずいぶん続いてきたこのブログの、名場面をお送りいたします。
・今宵は脱腸最前線(11月2日)
この回はすごかったですね。
軽度で何よりだったんですが、それよりも最前線って、どこから見て最前線というべきか、そこがホットトピックになっていました。
・保護した野鳥をキュッ!!(10月16日)
この回もかなりスリリングでした。
題名で誤解を招いたのが、いけなかったですね。
甘酢がどうこう書いたのも、いけなかったですね。
・ヒョウモンダコで一杯(2月9日)
ちまたで話題のヒョウモンダコにいち早く吸い付いた回。
確かこいつは噛まれるとマズイらしいが、食べるにしても毒がフグ毒であるため、だったらまだフグ食うよ、といった内容でお酒を飲んだりしました。
・夢を信じて詰め放題(7月20日)
夢を定量化する難題に挑戦しました。
ビニール袋をどのくらい伸ばし広げるかが、焦点でしたね。
・四国八十八箇所=8(4国+箇所)
そんなときもあったよね、と感慨深くなる企画でした。
お遍路さんからは「大変なんだけど、これを見たらなんとなくイケる気がしてきました」と好評でした。
以上、名場面でした。
追記
列挙した内容は、本ブログにはありません。
ごみん。
らくがきエクステンション
らくがきを拡張してみよう。
その、なんとなくな悪っぽさに着目すると、こうなる。
らくがき
↓
ネクロノミコン
一方、無邪気な感じに着目すると、こうなる。
らくがき
↓
かくれんぼの隠れ場に土管をチョイス
ちなみにらくがきがネクロノミコンにまで拡張するには、以下の経緯がある。
らくがき
↓
ぬりつぶし
↓
らくがお
↓
かおぬりつぶし
↓
四肢を押さえてのらくがお
↓
文書偽造
↓
筆圧による傷
↓
聖痕っぽい傷あと
↓
とくに聖痕でないことを説明するときに生じる、何らかのストレス
↓
不満や憎悪
↓
「俺流のネクロノミコン、作ってみるか」
↓
ネクロノミコン
以上をまとめて。
らくがきを拡張してみると、
「いじめられっこに追われて土管に隠れたら、そこにあった俺流ネクロノミコン」となり、なんかの導入部になりました。
わかりましたか?。
締まらない別れ
中島みゆきの「わかれうた」を聞いてみたところ、気になる歌詞があった。
というか、いきなり冒頭付近なのだが、なにやら「みちに倒れて誰かの名前を、呼び続けたことがありますか」という旨の歌詞。
悲哀である。
しかし、歌というものが持つ風情やおもむきを無視して、考えてみる。
「みちに倒れて誰かの名前を、呼び続けたことがありますか」
恋しい人が去ってしまったのだろうか。
ただ、気になるのがこの場合「去った人、戻りにくい」である。
もし去った人の気持ちが変わり、「もう一度やりなおすか」と心機一転戻ろうとしたとき、「そんなこと」になっていたら。
ミュージカルである。
素通りするしかないような気がする。
そこで「みちに倒れて誰かの名前を、呼び続ける人」にかまってしまったら、周囲に名前がばれてしまうし。
いや、名前がばれるくらいならいい。
相手は倒れているのである。
どうしても「相手を傷つけまくった○○」という構図が、名前を呼び続けられることで生じてしまう。
そこに満を持しての登場と、あいなってしまうのである。
どうしても周囲の目というものを意識せずにはいられないじゃあないですか。
一方、「そんなこと」になっている側にも問題がありそうだ。
「みちに倒れて誰かの名前を、呼び続けてしまう」ことが、愛想を尽かされる要因のひとつであることを認識すべきである。
「みちに倒れて」もだめだし、「呼び続ける」のもだめだ。
ミュージカルすぎる。
さらに、去った人が戻ってきちゃったときのことを考えると、おちおち「みちに倒れて誰かの名前を、呼び続けてしまう」ことなんてできないとも言える。
呼び続けていたら戻ってきた。
「おいおい戻ってきたよ・・・」
内心そう思うことうけあいである。
今回はずいぶんひどい内容。
しかし大丈夫。
「みちに倒れて誰かの名前を、呼び続けてしまう」ことなんてそうそうないから。
そしてこれを頭の中でやる分には一向にかまわないことだってのは、多少心得ているから。