「馬の耳に念仏」ということわざがある。
これは馬などにありがたい念仏を聞かせてあげたところで理解できないよ、ということだったかと思う。
けど、とらえようによっては「馬は念仏のありがたさを充分知っているから、聞かせなくていいよ」という感じでもいけそうだ。
「釈迦に説法」だって、わかりきっているが説法やることに意義ある!という使われ方でもいいと思うのだが。
けっこう、ことわざはとらえかたで深くなる。
「馬の耳に吐息ふきかけて 1987」
今のは関係ないが、「鬼に金棒」は「あまりに定石な、ルーチンなこと」とでも解釈できそう。
「おや、鬼に金棒ですか」
そう理解した死者が地獄に行ったとき、鬼は血相を変えて金棒を手放すかもしれない。
「猫に小判」
猫に小判を与えられるほどの長者。
たまたま猫のとなりに小判があった、そのさま。
猫は人間にとってかけがえのない生き物であるから、いとまを与えるなら小判レベルの餞別を与えること。
「たなからぼたもち」
田中たちにはぼたもちを与えろという意味。
たなにあったぼたもちをとりだす、そのさま。
「たなからぼたもち、ひきだしから大福、テーブルクロスの下からハートの6」という、手品の仕込みのこと。
こんな具合。
一方、他の意味を持たせにくいことわざもある。
「二兎追うものは一兎をも得ず」系のやつだ。
ああそうですね、としか言えないじゃないか。
でも、なんか考えてみる。
タクティクスオウガが終わったら。
次回。
投稿者: nimbus7942
口頭記述
今回は「老後すくすくガイドライン」への寄稿、どうもありがとうございます。
いえいえ
ちょっといただいた原稿で字の見づらいところがあったので、ちょっとお聞かせ願えませんか。
ええ、いいですよ
まず最初の方「老人たちのコミュニケーション」のところで、何かおじいさん同士のふれあいみたいなところがありますでしょ。
はい
そこがよくわからないんですけど。
ああ、「おじいさんニッチ」のところですね
「おじいさんニッチ」?
先日電車に乗っていますと、普通のときは温厚そうなおじいさんなんですけど、他のおじいさんが近づいてきたりするとき、すごく相手を威圧するような怖い顔になるんですよ
僕は最初、その優先席をうばわれまいとする心が現れたなどと思っていたのですが、違いました。
もう少し広かったです
この世界では常におじいさんは一定数なのです。
多少の増減はあると思いますが、それもある数で平衡となります。
そのため、あらたなおじいさんは既存のおじいさん枠を圧迫する訳で、その不安と「この枠は渡さんぞ」という意思がそういう顔になって現れていたんです
なるほど。
原稿のほうはどうしましょう?。
削除しましょう
すいません、あともうひとつだけ。
最後の方にある「幸せな最後を迎えるには」の欄。
はい
そこにランキングがあるじゃないですか。
はい
1の「老衰」とか並んでいるんですが、7位のところが読めなくて。
ちょっと待ってくださいね。えっと、7位・・・
6位の「自宅であっというまに」は読めるんですが。
ああわかりました、コラーゲンボールで窒息、ですね
「コラーゲンボールで窒息」ですか。
ええコラーゲンボールで窒息、確かにそうでした
なるほど。
原稿のほうはどうしましょう?。
削除しましょう
米本来輝
さゆ、とまではいかないような、そこそこ熱いお湯が売られていないのは少し疑問だ。
今「白湯」で調べてみると「白湯ダイエット」なるものもあるらしく、その質素なおいしさも加えて結構売れると思うのだが。
よく僕はお湯を飲む。
なんだか落ち着くし、お菓子で疲れた舌を休ませてあげているようにも感じる。
しかし、ある人にとっては、それはもう精進的な何かだ。
夕ご飯のあと、茶碗にそそいだお湯のなかで白米が2?3粒ただよっているのをみて、それを輝く宝石のように感じる。
そんな何かだ。
ストイックだと、複数の人に言われたら気にもなる。
僕としてはいつもよだれをだらだら流しているつもりなのだが、そうは見えない事もあるのだろう。
口癖は「げへへおんなおんなかね」なのだが、そうは見えない事もあるのだろう。
書き初めでは毎年「スーパー衣食住」と書くのだが、そうは見えない事もあるのだろう。
もういいか。
以前、何かの本で「ある外国の人と一緒に炊きたてのご飯を食べたら、彼らは手をつけなかった。あとで聞いてみたら、ご飯粒をうじと思ったらしい」というのがあった。
この話で重要なのは食文化の違いや、ご飯を初めて見たらそうも感じるだろうということではなく、「ご飯よりもうじのほうが知名度高い」だ。
ご飯とうじで思い出されてくるのは、はちのこだ。
どこかでは「へぼ」とか言われているはず。
すごくおいしいらしいが、ちょっと僕は食べられなさそうだ。
人間も生き物であるから、本来なら食べられる物なら食べてきたはず。
でもどこかで「虫だめ」になってしまったのだろう。
まあどちらにせよ、へぼ玄人なら、お湯のなかでただよっている白米を宝石のように感じる確率が、僕らよりも少し高いだろう。
そうなら、敬意とおしんこをあげる。
誰も知らない。2
昨日からのつづき。
【あらすじ】
①「鈴木さん。なぜあなたは犯人が男であることをご存知なんですか?」
②「鈴木さん。なぜあなたは犯人がパラグライダーで脱出したことをご存じなんですか?」
②のほうが、より言い逃れできない。
=====
①では、鈴木さん(犯人)は「いや犯人が男だか女だか知らないですけど」とでも言えば、逃れることができる。
そうとうの前段階から、犯人が女性であるふうな事を取り調べで触れていたのなら話は別だが、それでも「ああ勘違いしました」となればそれ以上追求するのは難しそうだ。
一方、②は言い逃れ難しい。
パラグライダーによる逃避は一般的とは言いがたいため、些細な勘違いであらわれる事がないと思われるから。
「だって刑事さん。あなたビルの密室で金庫が盗まれていたって言ったじゃないですか。そこからどう逃げるかとなれば、パラグライダーしかないじゃないですか」
②は言い逃れ難しい。
他にも言い逃れの難しそうなものはないだろうか。
「鈴木さん。なぜあなたが被害者宅の砂糖の貯蔵場所が洗面台の下であることをご存じなんですか?」
なんとなく言い逃れしにくそうだ。
一般的にはキッチン付近なのに、たまたま被害者はせっけんと同じところにスプーン印を置いていたのだ。
鈴木は被害者と同棲していたのだろう。
鈴木はまだ愛し合っていた頃のことを思い出しながら、なぜあのとき砂糖はキッチンの方にしまったほうがいいよと言わなかったのかと後悔し、同時に犯行の動機はそれが引き金だったことを思い出したりするのかもしれない。
「鈴木さん。なぜあなたは犯人が幼少期のころ「デフォルメ」というあだ名だったことをご存じなんですか?」
言い逃れできなさそうなこともさることながら、これがどのように事件に関係したのだろうか。気になる。
また、取り調べにてこの話題にまで持っていった刑事に手腕には驚嘆すべきものがある。
「徳永さん。なぜあなたは犯行現場にあったラジオが壊れかけていたことをご存じなんですか?」
これは悪のり。
今回の件で一番キーとなるのは、言い逃れできないような非日常的なことを実際にやってしまった犯人あるいは被害者、そしてその証拠を見つけた警察。
この2つではないだろうか。
例えば、犯人はパラグライダーを犯行に使ってしまったし、警察はパラグライダーであると確定できる証拠を見つけてしまう。
密室からこつ然と姿を消していたが、パラグライダーがナイター中継の夜空にすごくよく映っている。
警察も複雑であろう。
ということで、これらの点がクリアされて初めて「言い逃れどうこうの攻防」を拝める事ができるわけだ。
そう考えると、この手のドラマはひどくぜいたくである。
誰も知らない。1
「鈴木さん。なぜあなたは犯人がバタフライナイフを凶器として使った事をご存知なんですか?」
刑事ドラマなどで見られる手口、「犯人しか知り得ない事を言わせてみよう法」だ。
実際には知らないが、少なくともドラマでは数々の犯人がこの手口にかかっている。
そしてああバタフライナイフじゃなくてナイフって言えばよかった。
何を詳細に供述しとるのだわたしは、と涙を取調室の机に落とすのである。
この手法はドラマ的にも刑事の冴えが光り、かっこいくなる。
ただし、これは刑事のぎりぎりの攻防が見受けられるべきものだ。
犯人に「あ、こいつバタフライナイフって言わそうとしてる」がばれては失敗、それどころか今後の調査方法も見直さなければならないからである。
刑事「えーとなんだっけ、なんとかフライナイフを使って脅したんじゃないのか!?」
これではだめである。
バタフライナイフと口にした犯人は、そのことを指摘された後、当たり前のように「なんとかフライナイフじゃ、バタフライしかないじゃないか」と。
刑事「サバイバルナイフを使って脅したんじゃないのか!?」
これなら、犯人が「バタフライナイフなんて持ってませんよ」とでも言ってしまった時点で刑事の勝ちっぽい。
あーたあたいはサバイバルいいましたけどね。
刑事にんまりである。
しかしこれはどうだろう。
刑事 蝶の絵を描きながら「サバイバルナイフを使って脅したんじゃないのか!?」
さきほども言ったように、刑事もかなりなプレッシャーなのである。
意識せずにバタフライを書いてしまった。
これはむずかしいところだ。
犯人が「刑事さんがバタフライ書いていたからだろ!!」と切り返してきたら、もう刑事としては蝶のことを普通バタフライって言わないだろと決め手に欠ける主張を通さざるを得ない。
裁判では犯人の蝶に対する認識が争点となりそうである。
と、書こうと思っていた事を思い出した。
今回の「犯人しか知り得ない事を言わせてみよう法」。
その「知り得ない事」がユニークであればあるほど、犯人は言い逃れできないものである。
「鈴木さん。なぜあなたは犯人が男であることをご存知なんですか?」
「鈴木さん。なぜあなたは犯人がパラグライダーで脱出したことをご存じなんですか?」
こういうこと。
夢広がる感じ。
とりあえずタクティクスオウガのことを鑑みて、そのへんは次回。
発声
神社へと続く土手道を自転車で進んでいく。
その先には、昨日ずいぶんきれいに見えたイチョウの木があるのだ。
河原とこの道の間は広場になっていて、少年野球が行われていたり、犬散歩の人が集まったりしている。
通ったときは少年野球がやっていたが、実は広場が見える前から、野球をやっていることは分かっていた。
ずっと不思議なのだが、なんだか少年野球では、外野の選手が「ウェー」だか「ウォー」だが声をあげるのだ。
それを守っている間、ずっと発しているのだが、あれが分からない。
実は僕も少年野球に入っていた。
そしてその当時でも「声出せ」というコーチの答えとして、確かに「ウェー」とか言っていた。
すごく嫌だった記憶がある。
意味がよくわからないから。
バッターを威圧する意味があるのだろうか。
また「試合中に発生する声(オーライなど)を、大きな声で出せるようにするための練習」?。
ならば「意味がよくわからない」というのは僕に足らないところがあったわけで、今なら「今はわかんないかもしれないけど、声出しておくとあとあといいかもよ」と当時の僕に自ら言うかもしれない。
ただ、意味がわからないというのは未知であることであって、それが子供に与える不信感、恐怖は思いのほか大きいと思う。
誰かが教えてくれていればよかったのに。
「あれは外野たちの共鳴反応により、近くの人の新陳代謝がよくなるのだ」
とにかく、声をなぜ出すのかがわからない。
例えばプロ野球で、外野がウェーと大声を出しているところを見た事がない。
たまたま出していなかったのだろうか。
それとも聴衆の歓声でかき消されてしまったのだろうか。
言わなくても済むのは何歳からなのだろうか。
世界で初めて誕生した少年野球コーチとしては、外野は暇なことが多いから、声でも出させて集中力の途切れないようにさせたかったのかもしれない。
要は、声の内容は問わないのだ。
そのとき、初めての少年たちは、本能の赴くままにホーミー(全然違うけど)してしまったのだろうか。
それが今日では「ウェー」と発する事、のようにルールづけられてしまったのだろうか。
そうだとしても、原始の少年たちに罪はない。
我々がウェーでよしとして引き継いでしまっているのが悪いのだ。
ベンチではお母さんたちだろうか。
なぜか何組かのグループに分かれて雑談を交わしている。
まさかお母さんが「声出せと言われたらウェーですよ」とでも教えているのだろうか。
そして反社会的な持論を持つお母さんなんかは「声出せと言われたら、高音でナーと言いなさい」とかみんなと違うようになる事を教えているのだろうか。
そしてそのことがお父さんにばれて、子供が「ナーとウェーでけんかをしてほしくありません」と書いた自分の短冊を、夕方の河原にて、バットで打ちのめしたりするのだろうか。
家族というのは、僕の知らないところですごいことになってんのな!!。
な!!。
2回目
結婚式に持っていくための祝儀袋の結び方を調べていたとき、その結び方にはこんな意味があることがわかった。
「この結び方には、二度と繰り返す事がないようにという願いが込められています」
一度結んだらほどけないかららしい。
病気していた人に対しての退院祝いか何かだったら、二度と繰り返さないように。
いい。
だが、結婚式の場合は、なんとなく「余計なお世話なんじゃないだろうか」という気がする。
「いやーおめでたいですね。でもこういうのは1回かぎりにしてくださいよね」
幸せそうな新郎新婦に向かって言う内容じゃない。
「ね、これ一度結んだらほどけないの。ね。わかるよ、ね」
うーん、もうたたく。
どうも2回目ないよねとかってのは、ちょっと踏み込みすぎるのだ。
「つらいときもあるかもしれませんが、二人で乗り越えていってください。陰ながら応援しています」という意味の結び方があればよかったのに。
つらいときもあるかもしれません
→袋がしわしわ。
二人で乗り越える
→紅白2本のひもで袋をしばる。
陰ながら応援しています
→すこしだけお金見えてる
この状態の祝儀袋が表すのは、どう考えたって「おれ、おまえらの結婚祝ってない」であり、よろしくない。
そして「袋がしわしわ」で「ひもで袋をしばる」が表すのは、なんとなく粗暴な猫の去勢方法だ。
ほんとひどい話。
で、今回はこんな終わりというんだから、僕も驚きです。
勘違いローテーション
僕はずっとAKB48の「ヘビーローテーション」という曲を「ヘビーローテーション」だとは思っていなかった。
ぷっちょの曲だと思っていた。
正直、「ぷっちょ」という曲名だとすら思っていた。
一方、iTunes Storeの上位にある「ヘビーローテーション」という曲があるのも知っていた。
だが聴く機会がなく、同じものだとは知らないままだったのである。
書くまでもないが「ヘビーローテーション」を聴いた日は、僕がそれまでの人生で一番「ぷっちょ」と口にした日になった。
僕は「ぷっちょ」の商品コンセプトがあまり好きではない。
おそらく白地の部分は乳性の味が、なかに果物味のグミが入っているものと推測しているが、個人的にフレッシュな果物となめらかな乳性のものが混ざってはお互いのいいところを殺してしまうのではないかと考えているから。
したがって、僕はそれまで「ぷっちょ」を口にしていなかったし、そういった意味でも口にしていなかった。
そんな僕が一番「ぷっちょ」と口にした日。
それが「ヘビーローテーション」を聴いた日だったのだ。
このような勘違いは往々にしてあるものである。
僕はずっと「ふくろはぎ」だと思っていた。
自分に備わっているあれは、ふくろはぎである、と。
けど、本当は「ふくらはぎ」だそうじゃないですか。
以前に書いたが、「キンカジュウ」というほ乳類を「機関銃」と思っていたりもした。
最初。
最初だ、重要なのは。
誰かが悪意を持って幼少の僕に「ふくろはぎ」を教えたか、あるいはその人も勘違いしていたか。
勘違いの原因たりえるものが最初にきてしまうと、もはや防ぎようがない。
その勘違いはあるタイミングまで確固たる知識として存在し続けるだろう。
しかしある段階で「それ、ふくろじゃなくてふくらだよ」が判明してしまうわけで、それはすこぶる恥ずかしい。
勘違いの原因。
もちろんさきほど挙げたものに加え、より有力な候補なのは、聞き間違えだ。
以前、ある曲を聴いていて、要所要所に「ポメラニアン」という歌詞が出てきたことに疑問を覚えた事がある。
何の事かともやもやしつつも日々をポメラニアン事情以外のことに費やしていた。
そしてあるとき、ぱっと理解できた。
あれは「ほめられた」と言っているのだ、と。
どう転がっても、この手のことは誰しも経験していることだ。
回避はできない。
回避するとなると、AKB48は「あれはぷっちょという曲でした」と会見し、人体に関する学術書では、記述があるとすれば「ふくろはぎ(ふくらではない)」と修正、ほ乳類の項のもくじに「機関銃」と書かねばならない。
そして歌手は「歌詞の前後を無視してポメラニアンと叫びたくなったのだ」と虚偽の吐露を行うのである。
こんな回避の方法を模索するなら、真摯に恥を受け入れよう。
さもないと。
例えば空耳アワーで「ちんこすごい」と聞こえるジャングルブックの曲があった。
この歌手に「日本語でちんこすごいって聞こえるんだって?。残念だな、実は本当にそう歌っているのさ」と言わせる事になる。
もうしわけなさすぎる。
考える。
「考える」だか「考えろ」だか。
そんなことが書かれた帯が付いている文庫本があった。
正直なところ、本を読むのは何も考えたくないから読むこともあり、なかなか難しいところだ。
しかしもっと複雑なのは、この帯が付いていないものだ。
たまたまその帯のついた本が「これ売り出してます」みたいなコーナーにあったのだが、そのなかでただひとつ、なぜか向田邦子の文庫本だけが、同等に陳列されているにもかかわらず「考えなくていい」ことになっていた。
確かに「考える」という帯がついたものは重厚な面持ちだ。
そんななかでその帯が付けられていない本は、その分余計に考えなくてよさそうに見えるのである。
その本が一番売れている。
この本屋は、わかってる客が多い。
入力
もう、さっきから「由美かおるの入浴シーン」というのを「由美かおるの入力シーン」と打ち間違えている。
そもそも「由美かおるの入浴シーン」というのは、あまりに(なにかの)定石すぎて、使うのはためらいたくなる。
しかしまあいいかということで、先日「由美かおるの入浴シーン」というのを使うことにしたのである。
そんななかでの「由美かおるの入力シーン」。
ちょっと色気が程度を超えている感じもする「由美かおるの入力シーン」。
また、「由美かおるの入、力シーン」とすると、なんかもうすごい。
それにしても今日は由美かおるが多い。
3人の由美かおるが入浴し、3人の由美かおるが事務員の役でパソコンを打っている。
そして1人のロボ由美かおるのスイッチが、入れられた。
当方、健全な方を選びました。