力と変換

たいがいのドラマでは、愛や友情が何らかの「ちから」に変換され、うまいこといく。
この、現代版錬金術とも言うべき構図は、もっと他のところでも起きているのではないだろうか。
例えば、もうすぐ見たいドラマがやるのに買い物が終わらないことは、どんくさいおばちゃんが並んでいるレジには並ぶまいという洞察力に変換される。
釣れないと夕食がないことは、魚を盗んでも捕まらない瞬発力を、あるいはいつ釣ったのかわからないような腐りかけの魚を食べても腹を壊さない消化力に変換される。
一人の青少年が病気をなおすための手術を怖がることは、野球のホームラン一本を打つための力に変換される。
これらは一見、当たり前のような変換である。
しかし実際の錬金術が失敗ばかりであったことを考えると、気づかないだけで実は誤った変換が起きていることもあるやもしれない。
一人の青少年が病気をなおすための手術を怖がることが、知らない人の、女装癖があることを公言する勇気に変換。
本のページをめくることが、あるボクサーの腕のリーチを伸ばす力に変換。
泣きじゃくる赤ん坊をあやすことが、核使用の抑止力に変換。
そう。
誤った変換であったとしても、それはそれで必要。
それはCOP10の意義のひとつみたいなものであり、誤っているかどうかもわからないところが、みそであるが。

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