リンケージ、財布。

ポケットから長財布が出ているのを見ると心配になる。
どう考えても、出てない場合よりも財布を落とす可能性が高い気がする。
となると、もし財布が落ちたらどうしよう。
そして相手がそれに気づかず行ってしまったらどうしよう。
財布を拾って声をかけたときの「誰お前?」的な顔、どうしよう。
あるいはちょうど財布を拾ってあげたときに相手が振り向いたらどうしよう。
そして財布から少しだけ秘密結社の秘密カードみたいなものが見えていたらどうしよう。
「知ってはいけないことを知ってしまったね」と相手が近づいてきたらどうしよう。
黒い革手袋をはめながら近づいてきたらどうしよう。
と、そこまでではないにしても心配だし、そうなったら面倒くさいな、とも感じる。
ということで、僕は基本的には小銭入れのような財布を持ち歩いている。
お札は四つ折りにするか、はだかでカバンに入れておくか、そもそも持たない。
ただ、これにも問題はあって、まずお札を四つ折りにするのはなんか窮屈というか、かわいそうな気分になる。
また、はだかでカバンに入れておくのは、なんだか粗暴。
それぞれよくない。
もちろん、持っていないと困る事もあるので、そのへん、僕にはいつも葛藤があるわけだ。
これはもう、どうしようもないのではないかと考えていたが今、カードというものを思い出した。
考えてみれば、Suicaカードでよく買い物をする。
携帯電話も確か、電子マネーが使えるんじゃなかったっけか。
素晴らしい。
おし、この調子でクレジットカードも使いまくるか!!。
・・・誰かが黒い革手袋をはめながら近づいてきたらどうしよう。
というのは、多少偏見がありましょうや?。

リンケージ 、デザート。

お酒を飲む人は甘い者が苦手というが、僕はその限りではなく、両方楽しんでしまうため、結果肥える。
馬は隠語で、それは僕を指しているんじゃないかというくらい秋は肥えたため、これはよくない。
なら周りを肥えさせて、相対的に肥えてない状況にでもしようかと、おごってみせるが肥えるのは領収書の束ばかり。
皮肉にも財布は痩せこけていく。
ということで、今日も絶好調!!。

リンケージ、どんぐり。

住んでいる場所がどんぐり豊富ということもあってか。
いつでもどんぐりに飢えた事はないが、それでもあの宝石のような大きさとフォルム、光沢。
何となく拾っては帽子つきのやつ、穴があいていないやつを選別して遊んだりしたものである。
さて、このどんぐり。
上記のような遊び以外に僕が彼について何かを語れるとすれば、それは「ムッ」のことだろう。
確か昔、どこぞの料理番組でやっていた。
どこかの国ではどんぐりのデンプンを抽出したものを「ムッ」と呼ぶことを。
番組ではその「ムッ」をくずもちのようにしてデザートかなにかにしていたと思う。
ただ、普通この話の中で人の注目を集めるのはどんぐりでもそのデンプンを利用したデザートではなく、「ムッ」という発音だ。
日本ではこういった促音で終わる言葉は珍しい。
我が家では結構長い間、「ムッ」が流行った。
「ほら、どんぐり」
「あ、ほんとだ」
「ムッ」
「ムッ」
実は、今でも流行り続けている。
「懐かしくない?。緑色のどんぐり」
「あ、でもちょっと傷ついてるね」
「ムッ」
「ムッ」

リンケージ、トトロ。

わざわざ書く事もないがトトロは良く、それについて書く事は、どうせまとめると「良い」で終わってしまうため、ただ良い良い言っていれば良いことになる。
だから「良くない」とはいかないまでも「良いかどうか分からない」ことを書かないとまとめられてしまうため、では何を書こうかというと「トトロがあくびをしたとき、歯が見えた」ことくらいしか今は思いつかない。
最近見てないのだが、何となく覚えている「トトロの歯」。
すごくどんぐりをすりつぶしやすそうな大臼歯がとにかく目を引く。
子供ながらに「すごくどんぐりをすりつぶしやすそうな大臼歯」であることに納得したものだった。
もちろん、そのころは「大臼歯」という言葉を知らなかったから、その納得を表現するときも、上記のような発言はしなかっただろう。
「すごくどんぐりをすりつぶしやすそうな歯だよ」
この程度だ。
しかし、この曖昧な表現に僕の方が納得していたとは言いがたい。
僕には前にも奥にも歯があるが、トトロのそれはどうも奥歯の方の形に似ている。
「すごくどんぐりをすりつぶしやすそうな奥歯だよ」
いや、もしかしたらトトロの前歯は、僕の奥歯のような形ではなくて、むしろ僕の前歯と同じかも知れない。
そうなると、トトロの歯は前歯、奥歯ともに人間と同じになるから、結局はこうの方がいいのではないか。
「すごくどんぐりをすりつぶしやすそうな歯だよ」
どちらがいいんだ。
そんなことを、幼少の僕は歯がゆい思いをしながら考えていたに違いない。
もう一度言おうか?
歯がゆい思いをしながら考えていたに違いない。

リンケージ、力自慢。

力自慢というとなんとなく接頭語に「村一番の」と付けたくなるが、隣の隣人の事も知らないこのご時世。
村を町にしても、市にしても、都道府県にしても分からず、国にしてやっとテレビが「誰某が何kgも持ち上げた」など、様々な「力」のことを知らせてくれる。
最小単位やそれに続くレベル内の状況のほうが分からないのである。
ただ、運が良ければ町の小冊子や珍百景で知る事もできる。
それにしても「隣の隣人」という、この手のいい間違いとつっこみはいたるところで聞く事ができる。
そもそもいい間違いという感じでもないが、やはり使ってしまうとちょいはずい。
一方、隣にいるやつと言えばトトロなのだが、そうなると、トトロで「隣の隣人」的な言い方ができないかと、気になってしょうがなくなってきた。
これの難しいのは、とにかくトトロのことを含有した「隣人」的な言葉がない、という点に尽きる。
「隣トトロ(りんととろあるいは、となととろ)」という言葉があればすぐに解決する。
「となりの隣トトロ」
なんだよー「となり」がくどいよー、と隣人間でのコミュニケーションも弾む。
しかし「隣トトロ」という言葉はない。
そもそも「となりのトトロ」を略した感じにすらなってしまっている。
どうするか。
トトロが近くにいるのだから「近トトロ」はどうだろうか。
「憑トトロ」は?。
「憑トトロのせいで夜眠れない」
あー全然違う用法しちゃった。
「となりの隣梟人」
漢字で表現しようとしたら、なんか京極夏彦っぽくなった。
「梟人のトトロ」
隣のことをかぶせるのではなく、トトロのことをかぶせようとしてみたら、「犬のわんた」みたいになった。
「村一番の梟人」
このへんな生きものは まだ日本にいるのです。たぶん!!。

リンケージ、適量。

僕の中では、僕が適量を知らないというのは結構有名な話で、それは、大盛りを頼んで大盛られた分の量を残すという、居酒屋で面白い事を一生懸命喋ろうとしている人の口からよく聞かれる性質のことである。
もちろん当初から残すつもりではなく、完食できる自信があるから注文する訳だが、失速が早い。
満腹というのはすごくて、一度それを味わったら最後、もう最初の頃には戻れない。
各駅停車である。
マリオカートにもそれに近いキャラクタがいるのではないだろうか、「スタートダッシュは早いんだけど・・・」
僕は、結構マリオカートが嫌いで、それは「一発逆転が強すぎる」らしいから。
そもそもあまりやった事がないのだが、その少ない経験を紐といていくと、僕にとってマリオカートは足の引っぱり合いいやタイヤの引っぱり合いである。
通常、タイヤの引っぱり合いと言うと、「力自慢がギネスに挑戦」的なものだろうが、こちらはただ、先をゆく者の邪魔をして勝つという、もうそれは実社会のほうだけでお腹いっぱいの現実路線。
それをわざわざゲームでやる事に違和感を覚える。
まあ、この手の「罠の張り合い」というのが対人ゲームですごく面白いのは認める。
ただ、マリオカートだと戦略や試行錯誤の末のやりとりの楽しさというものがなく、なんか理不尽な気がしてならない。
「ゴール直前で赤い甲羅が飛んできて、びり」
何なんだよ赤い甲羅。
大人だったらまあゲームだし、とかなるが、変な小学生だったらこの赤い甲羅で2週間絶交くらいの事象は起きているに違いない。
となると、最近の卒業文集や同窓会って「あのときの赤い甲羅、ごめんな」っていう話題ばかりだったりするのだろうか。

リンケージ、スープ。

食卓にスープがあると少しうれしい。
ただし、おしゃれじみて、ちびちび飲むのはいやで、もうごくごく飲みたい。
適温(ほんの少しだけ熱め)のコーンスープは、ごくごく飲みたい。
これは僕によく見られる「好きな物で口の中を満たし続けたい」という特性で、チョコレートとかもそうしたい。
ラムネもそうしたい。
しかしたいがい、食卓に出てくるスープは適量で、当たり前のように片脇にスプーンが鎮座して御座い。
スプーンで一杯一杯すくって飲んでたら、次のターンのやつが来る前に、前のは儚くだ液に希釈され、好きな物の継続はそこで途切れてしまう。
ということで僕に出されたスープは食事の最後に一気になくなり、スプーンはシンクを経由する事なくまたしまわれるのである。

リンケージ、ラーメン。

ラーメンと言うと、様々な都市でいろいろなラーメンが店舗、屋台、インスタントなどとして販売されており、その嗜好はもう「ラーメン辞書」を作ったらちゃんと「あ」から「ん」までのページ。
全て埋まるのではないかと思う。
例えばガンダムの世界で、「を」で始まる何かを、僕は知らない。
同様に妖怪の世界でも、生物における5界でも。
いや、モネラ界には何かいそうか。
「を」で始まる何か。
ともかく、「を」はレアだが、ラーメン界にはいそうだ。
「をろく」
しょうゆラーメンのスープを啜っていき、うっすらと皿底の模様が見えるか見えないかの状態。
その透明度の表現が「をろく明度」とか言うんじゃなかっただろうか。
で、実はラーメンで書こうと思っていたのが「サッポロ一番のみそ味は、卵をといただけのが一番うまい」ということで、これは結構納得を得られるような気がする。
僕はこれで、少しだけ水分が足らず、しかも少し煮すぎた感じのが好きだ。
どうせなら、サッポロ一番はこの「少しだけ水分が足らず、しかも少し煮すぎた感じ」をデフォルトにしてもらいたいくらいだが、たぶんそうなると僕の好きなのは現在のサッポロ一番でいうところの「水分が足らず、煮すぎ」になってしまい、それは「煮すぎ」だ。
おそらくサッポロ一番を煮すぎると佃煮を目指している事になり、それはベビースターだろう。
かわいそうなベビースター。
しかし、それに水分をもたらしてくれるもんじゃ汁!!。
ああそうか。
もんじゃはサッポロ一番だからおいしいのか。

リンケージ、曇る。

僕は、メガネが曇る事はそれほど嫌いではなく、それは「曇ったとき、見えるものがぼんやりするから、なんか夢の感じになる」という一昔前のドラマのような演出。
ただあれがそれほど苦にならず、むしろ楽しいといった面持ちであるからなのである。
しかし残念な事に、現実にその「なんか夢の感じになる」のは、ほぼ「ラーメンの夢を見ている」ことしか起こりえず、僕はそんなにラーメンを欲しているのか。
淡く視界に現れるラーメンを見て、これは夢の感じではなく単にラーメンの湯気で曇っているのだなと、せっかくの演出を楽しむ事はできない。
となると、「何から湯気が出ていたら、夢の感じとしてとらえる価値があるのか」という命題が発生する。
例えば、夢の感じで「初恋の人」が出てくるのはいい気がしないだろうか。
しかし上記の考え方だと「同窓会で久しぶりに会った初恋の人から、湯気が出ている」必要がある。
そうなれば、あの「夢の感じの、ふわふわした中に初恋の人の像」が楽しめる訳だが、一方で心配せざるを得ない。
初恋の人から出る湯気の事を。
この場合、初恋の人は武井壮か何かなのだろうか。

リンケージ、ゴーグル。

夏休みはよく、九州の田舎へ一人で送り込まれた。
そこは、目の前はゴンズイ玉がうごめく海、後ろは野犬が闊歩する山。
せっかくの田舎なのだが、郵送でファミコンを取り寄せ家にこもる要素満載の環境だった。
それでも生来、自然が好きなのだろうか。
生き物を求めて海へ潜ったりしていた。
海の中はテレビで見る、どこぞの海とは違って透明度はそれほど高くない。
しかし生き物はたくさんいて、見ていて飽きない。
ただ、それを邪魔するのが「ゴーグルの曇り」。
祖母から与えられたものは相眼のものではなく、ちょうど「あまちゃん」がしていたようなもの。
ごめん「あまちゃん」見てなかったからどういうのか分からないが、ともかく大きな、両目と鼻を覆う事のできるガラスタイプの物。
これがよく曇るのだ。
適度に海水を入れて洗うのだが、またすぐ曇る。
そのことを祖母に話すと、その対応策を教えてくれた。
「そこらの海藻でガラス内側をこする」
どのような効果があるのかは不明だが、僕はそれを実行した。
潜っている最中、目の前をちぎれた海藻が漂う度に潜行を一時中断。
内側をこすった。
これ何がすごいかというと、祖母が自信ありげに話してくれたこのことは、それほど効果がなかったことだ。
こする海藻を間違えたのだろうか。
それとも、祖母が海藻だと思っていたのは、どこかの会社が提供する「クモリトレール」的なやつの試供品がたまたま海藻の中に埋もれてしまったものだったのだろうか。
ともかく、僕はいつか効果があると海藻でこすり続けた。
結果、肌はつるつるになったりはしなかったが、何となく海に潜る時、海藻が視野にないと潜った気にならない性質になった。