来年も、よい年でありますように(2013年05月12日現在)。
月: 2012年12月
リンケージ、空腹。
恐ろしい事に、最近は夜ご飯しか食べない。
一日一食で済む計算になり、これは一種の病気か。
あるいは悟りがひらけたのか。
確か宗教法人法の何条かになかったか。
「食べ過ぎないこと」
「食べ過ぎない」を突き詰めると「無食」ということにでもなるのかも知れないが、それは光合成だとか、体内で他の生産能を持つ生物と共生関係にない我々ホモにとっては難しい事だ。
なんとなく意味ありげにホモサピエンスを表現してみたが、ともかく難しい。
そのうえ何か誰かに怒られそうな感じで恐れおののいているのだが、ともかく食わない。
しかも、あったらあったで食べてしまうので、悟りってるわけでもなさそうで、こうブログにでも書いて終わり、という小食さである。
ただ、これは意図している訳ではないが、自分の体に「空腹」というものを経験させたい、という妙な願望がある。
トマトは与える水を少なくすると甘みが増すというじゃないか。
甘みが増す、かどうかはともかく、一種の飢餓状態を経験すると何か体にいいことあるんじゃないか。
と、ここにきて「ほとんど食べてない」と話している最中で何なのだが、この「食べてない」という状態にはラムネのことは入っていない。
今、大量のラムネが僕のところにあり、それを毎日浴びるように食べていることを思い出した。
ラムネを食っている分には飢餓状態、じゃないよね・・・?。
リンケージ、よだれ。
幸か不幸か、僕はおいしいものを見たときや結構空腹であったとき、よだれを垂らす事はない。
もしかしたらよく漫画などで見る「おいしいものを見たときや空腹のとき、口から垂れているもの」はよだれではないあるいは「おいしいものを見たときや空腹のときのシンボル」なのではないか。
そんなことは気にする事なく、こう生きてきた訳です。
ただ、よだれを垂らした事は何度もある。
それはたいがいぐっすり寝ていたときで、あるときは寝室で。
あるときは電車の中で。
電車のなかでの「ぐっすり寝」はなかなか危険で、詳細を知る者の話だと僕は大口を開けて眠りこけていたらしい。
そしてそこから一筋のシンボルが流れ出ていたのを座席の前で立っていたおばさん達に見られ「あらあら」「疲れたのね」みたいに評されていたというのだ。
恐ろしい。
できれば「詳細を知る者」にそうなるまえに起こしてもらいたかった。
「詳細を知る者」には「詳細を知る者」になってほしくなかった。
ただ、やはり眠っているときのよだれはちょっと防ぎようが思い当たらない。
僕は鼻がよく詰まっているため、寝ているときはよく口を開けて呼吸するのだが、そうなると余計によだれチャンスは増えてしまう。
どちらかというと、睡眠時のよだれを防ぐのではなく、睡眠時に流れ出たよだれを以下にさりげなく処理するか。
こちらのほうに興味がある。
やってしまうのだ。
寝起きなものだからティッシュを用いるということを忘れてしまい、手で拭うというブラキディオスみたいなことを。
または啜ろうとしたりと、誠にさりげなくない。
さりげないよだれの処理方法を今考えてみたら「出ていたよだれを厳かに小ビンに取り分ける」で、周りから見たら「あ、この人はよだれの成分を研究している人なんだ」とか思わせれれば、まあさりげなくはないですね。
リンケージ、さつまいも。
さつまいもが昔から好きで、特に熊本県の天草地方の名産「こっぱもち」は非常にうまい。
これはさつまいもをうまい事もちっぽくしたもので、上手に焼かないと「レンジの受け皿をこっぱもちでコーティングしたの?」という感じになるが、まあともかくうまい。
近所の八百屋で売られている焼き芋が「あまいよっ」とか流れている割には恐ろしく甘くなく、何となくだまされた気になる。
さつまいもで嫌な思い出といったらこのことくらいしかない。
僕の祖母はこっぱもちと同じところ出身なのだが、さつまいものことを「アメリカいも」と言うときがあったことを思い出した。
確か、さつまいも全般の事を指す言葉なのではなく、いもの中身が鮮やかなオレンジ色のもののことをそう言っていた。
「アメリカいも」は普通のよりも甘く、彼女が幼いころなどは珍重されたのだろう。
「アメリカいも」と口にするたび、よだれがほとばしっていた。
ごめん、ほとばしるのはうそだが、「アメリカいも」という芋カテゴリが彼女にあったのは事実。
そして、僕もそのオレンジ色のものや、もっと大変な濃い紫みたいなさつまいもを見た事がある。
これらはおそらく細胞内の色素がそうさせているのだろうが、それはさておき「土に埋まっている部分なのに、何をそんなに色づく事があるのか」という疑問が生じる。
甘い大根という、ただ想像すると恐ろしいしか頭に浮かばないビートと呼ばれる野菜も、結構紫だった気がする。
うどやホワイトアスパラは色素があまりなくて白かったような。
他の、地中にある植物も色素がなかったものが多い気がする。
なぜ鮮やかなんだ。
人に、土から引っこ抜いたときの感動を与えるためなのか。
あるいはまな板で切ったときの感動を与えるためなのか。
たまたま鮮やかな色素ができちゃって、それの置き場がないだけなのか。
どうであれ、人に感動を与えようとしてくれている方がいいっちゃあいい。
そっちにしよう。
となると次の疑問はなぜ「アメリカいも」という名前なのかということだが、こちらはアメリカに任せよう。
リンケージ、たき火。
昔はたき火をしていたはずなのだ。
目の前が森林を利用した公園というタタズマイであるがゆえ、アラブの石油王における石油のように、精霊界の落ち葉王における落ち葉。
必要性はなかったのだが、秋の終わりと冬の始まりを告げる精霊界の広瀬香美的な人、落ち葉王を創作してみた。
とにかく落ち葉には事欠かなかったというか邪魔だったため、集めて燃やしていたはずなのだ。
しかもその中には、さつまいもを入れて!!。
しかし現在、たき火なんかしていない。
確かに、以前よりも落ち葉が少ない気もする。
誰かが掃除してくれているのか。
車の交通量の増大などにより、あまり溜まらなくなったのか。
ただ、落ち葉があったにしても、もうやらないだろう。
それは以前に比べて、近所に家がたくさん建ってきたという理由が大きいだろう。
何だか最近、洗濯物が汚れるんです、なんてことがあった日には、はいそれ我が家のたき火のせいですごめんなさい、となる。
焼き芋は魅力的だが、それで誰かの洗濯物を汚すんであればたき火なぞせず、いもはどこかで既製品を買ってくるわい、という感じだ。
しかし一方で、あのたき火の暖かさというものはなんかよかった、という感慨もある。
たき火で感慨とくれば童謡かなにかで「たきび」という歌があるでしょう。
あの歌の「たきびだ、たきびだ、おちばたき」ってやつね。
あの「おちばたき」っていうのが確かほぼたき火のことのはずなんだけど、なんで言い換えたかね、3回目のところで。
ということで調べてみたら、どうも「秋に落ち葉を燃やすこと」を「おちばたき」というらしく、それは四則演算にしてみると「たき火 + 秋」ということらしい。
季語なのだろうか。
ともかく、この結論については特に感慨は起きない。
リンケージ、ミイラ。
ミイラというと近所で見かけるようなものではなく、よくゲームや映画などで見かける。
僕のイメージは「包帯が全身にぐるぐる巻かれた人」だ。
おそらくあの包帯をほどいていくと「さけとば」みたいなものが出てくるのだろうが、それにしてもなんで包帯が巻かれているのか。
包帯でぐるぐる巻きにしなくてはならないくらいの重傷の人が亡くなり、それが干からびたという設定なのか。
あるいは自分のさけとばを見られたくないという、ミイラなりの羞恥心なのか。
それともミイラが昼間寝ている時(たぶん寝ている)、身動き取れないように牧師(たぶん牧師)が巻いたのだろうか。
どれかは分からないが、最後のやつだとしたら牧師さん、体にフィットするように包帯を巻いては拘束になりませんよと教えてあげたい。
わたすの記憶がたすかならば、確か昔、日本はどこかからミイラを輸入していたはずだ。
そしてそのことをいつか書いていたはずだ。
ということでそのことではなく、「ミイラがたき火をしたいとき、まずは包帯、次に左すね」とかを考えてみよう。
ミイラが暖をとりたくなるというくらいだから、相当寒いに違いない。
そんななか、ミイラが一人、包帯を脱いでいる。
火種はどこかにあったのだろう。
燃えていく包帯に向かって両手を広げている。
生前の記憶があるのだろうか。
ときどきその両手を口にあてて「はぁーっ」と息を当てようとするが、そこから出るのは暖かい息ではなくて何かの粉だ。
かわいそうだ。
そして、消えゆくたき火に対して、彼彼女はおそらく自分の体がぜんぶ燃えやすそうな事に気づく。
死蝋というものが頭をよぎるかも知れないが、頭は空に近いので頭をすーっとするかも知れない。
さきほどは左すねなどと話を濁したが、結果的にはたき火に投身してしまうだろう。
そのとき、はれてミイラはイフリートとかいう「火の妖精」デビューを果たす事ができる。
よかった、ミイラ。
寒いのは悪い事ばかりじゃない。
ちなみにミイラのイフリート歴は2分くらいです。
リンケージ、X-メン。
ずいぶんと昔だが「X-メン」の格闘ゲームがあり、僕は「アイスマン」というキャラを使っていた。
全身つるっつるの彼は包装されているようであまり強そうではない。
たぶん氷でできているのだろうから透明で、内臓とか見えてそうだし。
しかしいわゆる「波動拳」として出せるビームがカッコよく、一試合に一度くらいしか出せない必殺技は北海道で見られるというダイアモンドダストを彷彿とさせる、微小な氷の結晶が胸元あたりから放出する技だった。
これは、奇麗なのだがこの人から出ているのを知ると幻滅する。
そんな感じであり、そのへんをまとめて好きなキャラクターだった。
さて、実は「アイスマン」というと僕の麗しの持ちキャラではなく、もう一方の「アイスマン」の方が有名だ。
それは1990年代前半にどこかの何かで見つかった昔の人のミイラで、5000年以上も前の人なのにミイラ化していたことにより保存状態がよく、当時の環境や文化、ヘタすると世相までをも彼から得られると話題になったのだった。
僕はミイラの方のアイスマンを知った時、何となく「ミイラの方のアイスマン」と持ちキャラの「アイスマン」に埋まらない差があるような気がした。
それは「ミイラの方のアイスマンが毛深そう」なのに対し「持ちキャラの方のアイスマンはつるっつる」という点で、まあこれ以上の印象は持たなかった。
しかし今回、wikiで「ミイラの方のアイスマン」を調べてみるとどうだ。
彼についてはいろんな事が調べられている。
彼の服装、死因はもとより、持病や遺伝学的な調査により懸念される病気、体質なども調べられてしまっている。
「ミイラの方のアイスマン」も、5000年後に腰痛を指摘されるとは思っていなかっただろう。
このように「ミイラの方のアイスマン」にプライバシーなんてものは存在せず、それはちょうど氷でできているらしい「持ちキャラのアイスマン」の丸見え状態と妙に符合を見せるというのは、多少無理がございますでしょうか先生。
リンケージ、目。
目というのはその性質上、潤っている感じが出るため、他の器官とは一線を画す。
また、人間というのものが視覚に頼った生き物であることも踏まえると、「視線」というものが何らかの意味を持つと思われるのも致し方ないのかもしれない。
邪視という概念は各国で見られ、それは「テレビを見るときに顔を斜めにして横を見るような感じになる」という、僕が幼少の頃よく親に怒られたくせのことではなく、不吉な視線とでも言うか。
邪視を持つ人に見られると不幸になりますよ、と邪視本人がいい人だったらさぞ苦痛だろうという能力のこと。
自分が使えるなら便利、なんて気がしないでもないが効果が不吉方面ばかりとなるとあまり用途はなさそう。
要は、相手を不幸にするという、RPGの妖術士めいた、父兄参観のときに子供に発表してほしくない職業の筆頭なのである。
まあ邪視が職業なのかはさておき、何となく気になるのは「邪視の人が鏡で自分を見たらどうなるか」ということで、これはおそらく「邪視が鏡で跳ね返ってくるが、その跳ね返り先は鏡を見ている」みたいなことになり、ちょうどメデューサが鏡で自らを見ると石になってしまうという方面になるというよりは、「全身がぽかぽかしてくる」といった効果程度が関の山ではないかと考える。
話は変わってX-メンのサイクロップスなんかも邪視の持ち主で、視線を送った相手に不幸を与えそうだ。
だが、これは何となく「邪視というものが後々不幸をもたらす」感じと思っている人にとっては多少違和感があるに違いない。
サイクロップスの邪視はかなり即物的に相手を不幸にしそうだ。
リンケージ、いか。
烏賊というとタコやバボちゃん、かびるんるんと同じ頭足類。
大きいものは数メートルの体に長い触手がついており、海で唐突に出会いたくない感じ。
他に類似したものがいない点でも、妙な気分にさせる生き物である。
小さい頃に彼らの活け造りを食べた事があるが、その皮膚は刺激に合わせて色素が明滅し、とにかく食べる前にいじり倒してしまった。
罰当たりではあるが、その不思議さに触れた初めての事だったように思う。
さて、イカやタコはかなり精巧な目を持っていると聞いた事がある。
確かにスーパーで見かけるスルメイカの目を見てみると、キラキラしている。
何か精巧そうで、「目」っぽい。
虫や両生類、鳥類よりも、ある種の人類と比較しても「目」っぽい。
そして世界で一番大きい目を持つのも彼ららしい。
海で唐突に出会いたくない感じに、拍車がかかる。
海の中でどれほど役に立つかは分からないが、その目で人を捕食対象としてだけは捕らえてほしくない、なんて思ったゴールデンウィーク最終日。
リンケージ、オノマトペ。
「草ぼうぼう」の「ぼうぼう」のぼうぼうっぷりはさすがで、茂みまくっている感じがよく出ている。
いわゆる「わんわん言葉」というものに僕は何度か注目してきたが、そのシンプルゆえに伝えたいことがよくわかる。
オノマトペとして洗練されたそれは、いつでも魅力的に見える。
ところで最近知ったのだが「いかいか」。
どうだろう「いかいか」。
何も知らない人がこれを聞いたら、十中八九「イカ型ポケモンの鳴き声」と答えるのではないだろうか。
あるいは居酒屋でイカの一夜干しあぶりがなかなか出てこなかった時や、「イカ型怪人のかけ声」などと、どうしてもイカ型の何かが関わらなければ聞けないと人々が考えるのは想像に難くない。
実はこれ、昔の文献にある「赤ちゃんの泣き声」だというのだ。
昔の人は耳が少し変だったか、昔はひらがなが「い」と「か」しかなかったか、昔の赤ちゃんはちゃんと「いかいか」泣いていたか。
いづれかは不明だが、何だこの怖さは。