あとはかんたん。

こう日々生きていると、これはコラボしてはだめだな、と思うものがいくつか存在することに気づく。
例えば、築地市場とリトルマーメイドのコラボは、少し難しい。
何かと言われると困るが、難しい。
同じ感じで、築地市場と猫カフェも想像しにくい。
なんだ、築地市場はコラボしにくいな。
一方、「爽健美茶」と「サントリーウーロン茶」のコラボもだめだろう。
あれはほぼ同じだから、コラボしているのかどうか分からない。
このように、コラボに向かないものに対して、コラボに向くものもあるかと思う。
まず思いつくのが劇団四季だ。
何と合わせても、それを昇華してくれそうだ。
劇団四季「ブルーレット」
「ちゃんと置いたか?」
「じゃあ、あとは生きるだけだな」
僕の考えたラストシーンである。

裂傷

倒れない、落ちないように、既に考慮されているとはいえ、植木鉢が通行する人の頭より高いところにあるのを見ると心配になってしまう僕にとっても「布製の植木鉢」というのは魅力的だ。
「割れない」という売り文句は、重さはともかく怪我もさせにくそう。
そんな植木鉢があるんだねえ。
しかし、この「割れない」というのは、そんなにはっきり言っていいものか。
これはこれで心配になってしまった。
氷点下になる地域でこの植木鉢を屋外で使用すると、土壌の水分も含んだこの布製植木鉢は、割れたりするんじゃないか?。
そんなところで屋外にパンジー植えるかどうかは、あくまで購入者の自由だから。
ん?
割れたりするんじゃないか?。
早く答えてくれないと、そんなこと言ってる僕の口元、血だらけになろうが!!。

ハーフベーコン

スーパーで買い物をしていると、ベーコンが売られていた。
以前は、僕はベーコンを軽視していた。
固いし、塩っからい。
しかし程よく火を通して、目玉焼きと一緒に食パンの上に乗せたりすると膝が震えて立っていられなくなるほどおいしく、他者も「ベーコンは膝が笑ってしまうほどおいしい」と理解しやすい。
それからベーコンを見直した訳だが、一方で買う事もない。
そんなおいしいものをいつでも食べられると思うなよ。
自分の体に対して律しているのである。
先日もベーコンが売られていることを確認し、これでもし耐えられなくなったときでも「食パンの上に目玉焼きとベーコンを乗せたものが食べられる」と安心していると、あるものに気づいた。
「ハーフベーコン」と銘打たれたそれは、確かに半分にされたベーコンが厳かにラップされている。
そんなものだった。
僕は、塩分が半分という事ならともかく、そのものがハーフになっている必要があるのかと疑問に思った。
ハーフが必要なら、「全長のやつ」を半分にすればいいじゃないか。
一方で、そのハーフの大きさは食パンの上に乗せるのにちょうど良い大きさのように思えた。
まないた、包丁を持ち出さずとも食パンベーコンが実現できる。
これは、一種の「おもてなし」と言えるのだろうか。
「全長のやつ」を半分に、しておきましたよ。
それをラップして売っておきましたよ。
あとは食パンと目玉焼きがあれば、「食パンの上に目玉焼きとベーコンを乗せたもの」ができますよね。
僕は「食パンの上に目玉焼きとベーコンを乗せたもの」がかなり認知されていることに満足しながらも、ベーコンにこれ以上の「おもてなし」を行える余地はあるのか、と心配になってきた。
ほんと、心配になってきたんだよねー。

狸について その2

横溝正史はあるインタビューの際、このように言った。
「ミステリーで顔の潰された死体が登場した場合、それは殺されたと思われる人物の死体ではないに等しい」
これを狸に当てはめてみると、おそらくこうなるだろう。
「なぞなぞで狸が登場した場合、それは「た」を抜く用途だけのため存在であるに等しい」
思い出してほしい。
狸が登場したなぞなぞを。
そのほとんどは問題文中にある単語の「た」を抜くためだけの存在だったはずだ。
著作権などの理由により例をあげることはできないが、宝箱やたくわん。
このへんだ。
ともかく名称の中に「た」が入っていて、それを抜いて何らかの意味を持つのなら、あとは狸に登場してもらうだけでなぞなぞのできあがり。
そんなことを考えていると、なぞなぞに狸が出るだけで妙な気分になってしまう。
もちろん、狸をメインキャラクターっぽく登場させるが、実は「た」を抜くとか関係ない、というアンチな方法をとるなぞなぞもあるかもしれないが、それはもはや「狸は「た」を抜きます」ということの裏返しなだけであって、ただ「た」を抜くのか、それとも抜かないのか。
そのどちらか、というだけのことになる。
ということでなぞなぞの狸は「た」を抜くのか、せいぜい当て馬なのか。
それしかない寂しいのである。
狸に他の用途は見出せないのか。
以前も触れたが、狸には「他を抜く」ということで社会的な躍進を司る要素があるという。
これも「た」を抜くということには変わりはないが、どうだろう。
実際の言葉から「た」を抜くという即物的なものよりは、なんかいいのではないか。
でも、だめだ。
「他を抜く」。
「他を抜くためだけの存在」。
それには「なぞなぞ」特有のかわいらしさがない。
もう、クイズだ。

狸について その1

横溝正史はあるインタビューの際、このように言った。
「ミステリーで顔の潰された死体が登場した場合、それは殺されたと思われる人物の死体ではないに等しい」
確か、横溝正史はあるインタビューの際、このように言った。
いや、横溝正史はあるインタビューの際、このように言ったらしい。
横溝正史はある小説のあとがきで、このように言ったらしい。
横溝正史はある小説のあとがきで、このように言ったらしい?。
横溝正史はどこかで、何か言ったらしい?。
横溝正史?。
横溝正史は、僕のイメージでは頭髪が少なく黒ぶちのメガネをかけていて、歳からくるしわが深く顔面全体に刻まれている。
万年筆を持った手をこめかみにあてて考え事をし、彼の部屋には将棋盤がある。
だいたい浴衣を着用していて、ときどきステッキを手に、近くのすき焼き屋に行く。
気宇壮大。
食べ物でいうと柴漬け。
政治家として目覚めていたとしたら、ポスターには「よこみぞ正史」。
AKB48のメンバーでいうと、センターで歌っている人の真後ろにいる人。
そんなだ。
で、本当の話題は次回。
狸について。

のどごし。おかわり。

考えてみると、のどごしを感じるというのは、結構よく分からない。
のどもと過ぎれば、熱さ冷たさに加え、味もわからない。
わかるのはただ、何かが通っているという「触覚」だけじゃないか。
おそらくこれは「飲み込もうとしたんだから、やけどするような温度や、毒々しい味ではない」と「入り口」時点で判断されるという第一関門のおかげ。
せいぜい「今、詰まっているか詰まっていないか」かを察知するための情報のひとつとしての触覚。
そういうことなのだろう。
この点「熱すぎるが飲み込もうとするやつ」「服毒自殺をはかるやつ」などがいることを喉は忘れている。
今後、喉が改善されるとすれば、こういった点だろう。
「熱すぎると判断した場合、口にやけどを負わせない程度に冷却後、口へ押し戻す食道」
「毒だと判断した場合、口にとどまらせないくらいに勢い良く異物を射出する食道」
どちらも、温度や毒物の判定の他に「食道を遡らせる」ことが必要だが、人間には「吐く」という機能があるため、さほどハードルは高くない。
ある本に「インド人は手で物を食べるが、あのとき、指先でも味わうのだ」ということが書いてあったのを思い出した。
指先に味蕾が誕生したとは考えにくいから、あれも触覚を用いるのが主な「味わい方」だろう。
読んだ時、インドの人をうらやましく感じたりしたが、実は自分でも「のどごし」という方法で、似たような味わい方をしていた事に気づく。
ただひとつ違うのは、指先で味わいたくない場合、スプーンなどの食器を用いる事ができる。
一方、「のどごし」の場合、そうはいかない。
人間は喉に何かが通る時、何か疾患でもない限り、それを感じない訳にはいかない。
となると、のどごしを重視する姿勢というのはかなり理にかなっている。
「のどごし」という言葉自体を、そのままでとらえてみると、なかなか大変なことになっているのに。

のどごし。

今テレビを見てると、ビールのCFで「のどごしが云々」とあった。
確かにビールを飲むと含まれる炭酸が喉を刺激し、あーっとなる。
のどごしとはあれなのだろうか。
となると、ビールでなくとも炭酸が入っていれば、ジュースでものどごしじゃないか。
などと憤ってみせても、そもそもその矛先はわからず誰かがビール以外の「のどごし」を禁じているわけでもない。
我々は三ツ矢サイダーでのどごしを感じる事ができるだろうし、ずいぶん昔から感じてきたはず。
ただ、のどごしだということを知らなかっただけだ。
そもそも、のどごしが炭酸の気泡がはじける事のみ要因としてあるとは到底思いがたい。
その飲み物がぬるぬるしているのか。
どろどろしているのか。
喉にまとわりつくようなのか。
そういった方面や、もちろん味。
そんなものも全て包括しての「のどごし」なのではないだろうか。
そういえば麺類。
うどんでも「のどごし」という言葉を使ってもおかしくなさそう。
となると「のどごし」を議論するのに飲料である必要もなく、ただその口に入れて飲み込もうとした時。
それがべたべたしているのか。
ねばねばしているのか。
精力つきそうなのか。
ともかく「のどごし」とは、口に入れた時の「おいしさ」と同レベルにある、喉を通るときの何かであるのだろう。

眠気を強に。 その2

昨日からの続き。
【あらすじ】
「眠気やねたみに代表される静的、マイナスな感じのやつ」を強める言葉について、相対する「油を注ぐ」並みのものを考える。
=====
とりあえず「油を注ぐ」というのをイメージしてみると、それはどうも爆発的な動作に集約される。
その反対を考える訳だから、とにかく動かない。
静止した感じを攻めればよいだろうか。
「眠気に耳かきをする」
いきなり正解が出たのではないだろうか。
「ねたみに耳かきをする」
何か、ねたみが奥底まで浸透していく。
今ある「ねたみ」を深く考慮したところ、さらなる「ねたみ」になりました。
ねたみの純化である。
最初の「眠気に耳かきをする」なんか、本当に眠気が強まりそうなため、何となく実学主義だ。
やったね、正解。
では、あとはどんなものがイケるだろうか。
「眠気を30分間発酵」
手作りパンの要領で、静かにしてみた。
うーん、いまいち。
「ねたみに液体窒素を注ぐ」
ぜんぜんだ。
「ねたみをぬかみそ漬けにする」
これはちょっといい。
眠気もねたみも、他のマイナスなことがらも、ぬかみそ経由なら強まる気がする。
ぬかみそに罪はないのに。
「ねたみ、ねたみ、ねたみ」
単に強まるということなら、このように3回繰り返すのもいいかも知れない。
おいヒロシ、もう昼休み終わってるぞ。
「眠気、眠気、眠気!!」
それは先生の怒りに油を注ぐようなものだった。
眠いので終わり。

眠気を強に。 その1

昨日、眠気の話をしたのだが、そこで登場した「眠気に油を注ぐ」という表現。
慣用表現とは、何も考えずに使用すると、意味はわかるのだが何となく微妙な感じになる、よい例である。
すなわち「油を注いだら、眠気冷めそう」だ。
だいたいは活気というか、動的なものに使うのだろう「油を注ぐ」。
火に油を注ぐイメージなのだろうから、それは当然とも言える。
だから静的な、今回の眠気のようなものについては使用してはならないのかもしれない。
だって変じゃありませんか。
「眠気に油を注ぐ」。
ロンドンハーツか何かでしょうか。
となると、どういったものが「眠気」を強めることになるのだろうか。
ぱっと思いつくのは「眠気に枕を添える」だろうか。
これは確実に眠気が強くなっている。
しかし、他の静的なものに対してはどうだろう。
「鬱に枕を添える」
案外いい。
なんか強まっている感じ、する。
「自殺願望に枕を添える」
これは少し「もう一度考え直しなさい」的な意味合いも読み取れ、単に「自殺願望」を強めるか、という点では微妙だ。
もっとも、心情的にはそのほうがよほどいいのだが。
「ねたみに枕を添える」
これも「ねたみ」が薄れそうか。
まあ、何となく眠いので明日、もう少し考えてみよう。
ということで今日はもう、枕を添える事にします。