「公の場」。
そんな言葉が気になるモラトリアムな年頃も、いつかかつて、ありました。
普段の会話でちょろっと使うとまあまあおもろいが、一方で「どこへんが公の場とそうでない場に分かれるのか」は色々考えさせる。
その意味を調べてみると「ある特定の個人だけの場所ではないところ」などとなっているが、何となく分かる。
例えばどこかのスクランブル交差点の真ん中を、誰かが所有しているとは思えない。
あそこを所有するとなると、強力な私兵や、だいたい800mくらいの身長を持つ必要がある。
あそこは「公の場」であろう。
そうなると、例えばそこに普通乗用車で居座ってみたらどうだろう。
こんなところで車を止めるなと言われるが、こう言い返すのである。
「しかしこの車の中は俺のものだ」
これで、そこは「公の場ではないほうの場」に成り得たのだろうか。
もちろんこれはおかしい話で、ただ「公の場」を占拠しているのが人体から車体になっただけ。
この迷惑者は「公の場でないほうの場」を持って来たつもりだろうが、簡単に「公の場」はそれを包括する。
「公の場」は無尽蔵だ。
しかも、スクランブル交差点を行き交う人々が車内をのぞくだろうから、そういう意味では車内も「公の場」に浸食されてしまう。
これでその車が何かしら医療を目的とした特殊な車で、ちょうどこの迷惑者が胃カメラ検査なんかをしていたりしたら、もう大変だ。
彼の胃も「公の場」になりかねない。
こう考えてみると、「公の場でやってはいけないこと」というものがいかに大切なのか、分かる。
車内でポップなダンスをやられるのも困るし、胃の中にポップなアートをスプレーで描かれるのも困るのである。