署名

何かはわからないが、朝起きたら「らくがきというものは署名だったんだな」と妙に腑に落ちた。
とは言ってもそれまで「らくがきとは何か」を重考していたわけではなく、最近らくがき自体もしていない。
「小学校の教科書のなかに、らくがきがない」
そんな人はいないだろう。
いるとしたら、それは小学校ラスト間際で教科書を紛失、新しく買いそろえたことを忘れている。
もしくは「ノートにらくがき派」だ。
まだ、海のものとも山のものとも空のものとも分からぬ小学生の自分らが、自分の所有物であることを確認するが故の稚拙な行動。
そうとも考えれば、教科書あるいはノートに対するらくがきの署名は、納得もできるもの。
らくがきはおそらく、「所有すること」の意味を十分に理解したころ、徐々に消えていくものなのだろう。
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まず、らくがき時の筆圧が少しずつ低下してくる。
同時にえんぴつをにぎる力も弱くなってくる。
らくがき時の躁鬱っぷりが激しくなってくる。
らくがきをしようとすると、急に寒気がしてくる。
夜中、1階の居間でお父さんとお母さんがらくがきのことで言い争いをしている。
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以上、必要ないパートが終了した訳だが、もちろん「徐々に消えていく」というのは「その頻度が少なくなってくる」ということに他ならない。
しかしながら、幼少のころのらくがきを署名として考えると、それはそもそもちゃんと署名されているのか、と思えるようなエントロピーの大きさだ。
それは例えば「大ファンの俳優のサインをもらったところ、サインという概念を越えて、字が汚かった」というような感じに似ているだろうか。
この教科書、本当に僕の?。
大ファンの人、本当にこんな字なの?。
そう考えると、人が「絵のうまい人」に憧れる理由というのが分かる。
あれは完璧な署名なわけだ。
絵の内容がうまいことで、法、実質的に見ても遜色ないことになっている。
それで所有できるものは紙一枚ということなのかもしれない。
しかし、そもそも僕らは紙一枚だって所有しきれているのだろうかという気もする訳で、長くなったので言いたいことを簡潔にまとめると、僕は絵がへたなのです。

かぜひき

風邪をひきそうだから、前もって風邪薬を飲んでおく。
これはあっているのだろうか。
けっこうだめなことな気もするが、一方で「はいいま風邪ひきました」というような、明瞭な線引きも素人ではできない。
だからいって前もって風邪薬を飲むのもどうかというわけで、そうなると「病院で診察を受け、適切な風邪薬をもらう」という手順は、我々が思っている以上に理にかなっている。
階段につまずきそうだから、前もって包帯をまいておく。
最初に書いたのは、これに似ている。
違うのは「はいいま階段につまずきました」という明瞭な線引きが、素人でも簡単であるという点だ。
これの線引きに自信のない人に、階段はまだ難しい。
我々に風邪が難しいのと同じだ。

とろける迫力

僕は、親子丼やカツ丼は大好きなのだが、「半熟の卵」が苦手である。
以前触れたと思うが、それは「カラザが口から喉にかけてひっかかった」経験があるからで、絶えず舌の根本あたりを刺激。
むりやり吐かされるような感触を数分間味わうことになった。
そのため、「半熟でとろとろ卵がウリの親子丼、カツ丼」は苦手になってしまうのである。
これは残念だ。
なんたって、その見た目すらおいしそうと感じているのに、実際を目の当たりにすると「ああ半熟だー、カラザがー」と滅入ってしまうのだから。
せっかくとろとろに仕立てられたそれらに対して「ちゃんと卵を固めてください」ということもできない。
都合が悪いことに、黄身の半熟は大好きなのだ、僕は。
僕にとって「半熟でとろとろの卵がウリの親子丼、カツ丼」は、幾重にも好き嫌いが重なり合ったものである。
それってもう相思相愛みたいなもので、今回の冒頭十数行はのろけなんじゃないかと思えてきた。
今度そば屋でのろけてみようと思う。
「いつもはいいんだけど、カラザのやつがね・・・、こう・・・」

カブトムシが存命

まだカブトムシが元気で、たいしたものだ。
さすがに寒くなると駄目かもしれないが、こうも元気だと白熱灯でもつけて越冬をもくろみたい気もする。
昔読んだ本で「オオクワガタに動物性タンパク質を与えると長生きする」というのがあった。
また子供だったから、その頃飼っていたカブトムシにはそれを実行できなかった。
というのも、それはラードと市販の樹液を煮込むといった仕込みが必要で、母親が断固拒否する要素満載だったのである。
今与えている虫ゼリーを調べてみると、「動物性タンパク質」とある。
これのおかげなのだろうか、カブトムシの元気さ。
しかし見てくれは少々変わってきた。
メスはともかく、オスはいつも首が少し曲がっており、一回もいだのをあわててつけたみたいにぐらぐらさせている。
加えて羽が半開き。
ぼろぼろという言葉のぴったりなオス。
やはり寿命が近いのだろう。
しかし虫ゼリーの栄養価のおかげで生きながらえている。
そんな印象だ。
ところが最近、あることに気づいた。
オスのお尻のところに大きな付着物があるのだ。
それはまさに付着物で、いぼのよう。
ぽろりと取れそうだ。
最初は大きなダニかと思った。
見たことがあるのだ。
飼い犬の耳の柔らかいところに引っ付いていたダニを。
彼らは血を吸い、体の大きさが数倍になり、それはあずきみたいになる。
いま、生あずきを食んでいた方には申し訳ないが、とてもよく似ているのである。
その点も含めて、とにかくダニは嫌だ。
カブトムシにつくダニは小さく、わっさーたかる性質のものしか知らない。
だからこのカブトムシに付いた大きなダニは、その不明さも手伝って、気持ち悪い。
しかし、その突起物はダニではなかった。
いじると取れそうだが、確かにカブトムシと繋がっている。
どうも、腫瘍のようだ。
あるのだろうか、カブトムシに腫瘍。
確かに寿命なのだから、体の一部がそんなことになってしまうこともありそうな気がする。
しかし、馬鹿にする訳ではないが虫だ。
腫瘍を作れる機能を成虫時にも携えているものなのだろうか。
そう考えると、一方では虫は腫瘍研究において「使える」素材なのではないかという気もしてきた。
世代の回転は早いし、構成はかなり異なるが中枢を形成するような神経系もある。
そして子供に人気がある。
何はともあれ、子供に人気があるのは重要である。
「今まで何匹ものカブトムシの腫瘍を治してきたんだから、パパのガンもあそこの薬を使おうよ!!」
こんな感じ。
もちろん何匹ものカブトムシを腫瘍で亡くすわけであるから一概には言えないが、少なくともカブトムシを前面に出していくような会社は信用できるから、不思議なものだ。
え、そうでもない。
そうだよね。

星空がまぶしすぎて。2

【あらすじ】
うがり続けて4000年。
恐れ多くも「上を向いて歩こう」をうがり考えてみる。
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上を向いて歩くことで、涙がこぼれないようにする。
どうだろう。
話し相手が急に上を向いて歩き出したら。
少なくとも何かあったとは思わないだろうか。
もちろん「泣いてるかも」と気づくこともある。
話題が「かわいそうなぞう」なら間違いない。
あるいは「え、何、上になんかある?」と思うかもしれない。
話題が「ムー」なら間違いない。
または「寝違えたんだ」と考えるかもしれない。
話題が「最近の体調について」なら間違いない。
と、こうも相手に何かを思わせてしまうくらいなら、隙をついて涙を拭いたほうがよほどましだ。
さらにユニークな状況にもなると、「上を向いて歩くことで、涙がこぼれないようにする」はさらに混迷した行動になる。
背の低い人と高い人で、低い人の方がこの行動をとったとき、もうそれは「泣いていることの訴え」であり「涙腺暴力」「肉食系溜め込み」。
ちっこくてかわいい自分演出中である。
また、トンネルや防空壕。
そもそも一人でそんなことをやっていたら。
それが周りの他の人に与える心理的衝撃は計り知れない。
十中八九、妖怪「天井ずき」と思われる。
そんななら、泣いてしまったときは歩かないでじっとしておいたほうがいい。
あるいはその涙を悲しいものにしないため、すり込み用の砂を常備するマナーが必要だ。
そう、砂はすり込まなくたっていい。
空に高く撒いて、そのなかに飛び込め。
そうすれば涙は悲しいものじゃなくなる。
はるか昔。
自分は涙なんて流すものではないと考えていた神が「かわいそうなぞう」を聞いてまさにそれを流しそうになったとき。
「目に砂が入った」事実を作るために空に高く撒いた砂が、星空になったそうな。
なんかわかんないけど「そうな」で終わる文章っていいよね!!。

星空がまぶしすぎて。

「上を向いて歩こう」という歌では、上を向いて歩くことで、涙がこぼれないようにしようと訴えている。
これをかなり「うがった考え方」で見てみると、「上を向くことで涙をこぼさずに済むが、同時に涙を溜め込んでいる」と捕らえることができる。
この場合の「涙を溜め込む」は「泣いていることを誰かに悟られてもかまわない」と言い換えられるだろう。
ドライアイにも程度はあるから、涙を溜め込んでいなくてはすぐ白目がしょぼしょぼになってしまうということもない。女優ではないのだから、何かを思い出したタイミングで涙を落とす必要もない。
なので、目をうるうるさせ、それを維持することは「泣いていることを誰かに悟られてもかまわない」ということになるのである

いや、むしろ「悟って目のうるうる」くらいのいきおいだ。
となると、それは一見「涙がこぼれないように見せることで、泣いていることを悟られないようにする」という上向き行動と相反する。
例えば、上向き行動で涙のこぼれないようにしているのが「ティッシュがないから」という理由だとしたらどうだろう。
それなら相反さない。
「ティッシュがないから上を向いていたら、泣いていることがばれました」
自然。
しかし歌の意味を察すると、ティッシュの件は考えにくい。
そもそも「悟って目のうるうる」自体も曖昧だ。
「悟って目のうるうる」は、涙がこぼれ落ちる一瞬のインパクトには勝てない。
悟ってほしいのならさっさと涙をこぼれ落ちさせるべきだし、そこでティッシュがないというのは好都合ですらあるから。
さきほどティッシュにつらくあたったので、肯定的にティッシュを扱ってみた。
ないけど。
ともかく、そんな複数の意味を持つ「上を向いて歩くことで、涙がこぼれないように」という行動は、けっこう不確実、不安定な印象をうがった人たちに与える。

7942の「ターン制」

朝の支度

12ターン
トイレに入ってる人、なかなか出ないな。

5ターン
最近、電車の遅延がひどい。

10ターン
メールの返信が全然来ないけど、届いてんのかな。

3ターン
こんなに何度も挑戦しても瓶のふた開かないんだから、これはもうそういうダミーふただよ。

20ターン
将棋のルール、全然知らないからこのくらいハンデほしい。

3ターン
ホッチキスが貫通しないことがわかったから、もうダブルクリップにする。

2ターン
待ち合わせだってのに、あいつぜんぜん来ないじゃないか。

29ターン
なんだよ女の子と話してるよあいつ。

こりゃ一旦退きますかね
7942の「測定」
7942の「再測定」

姿との対峙

日本人のラーメン好きは、本場中国のみならず世界中に知られている。
それは種類の多さにもあらわれており醤油やみそ、豚骨、塩というスープに加え、細麺や太麺、ちぢれ麺と麺の種類。
そして油そばやつけ麺など、派生も多岐に渡る。
この嗜好はもはや中毒性すら帯びており、ラーメンがないことに耐えられない者のためのインスタント層も重厚だ。
日本人はなぜラーメンが好きか。
実は、それはラーメンのCMやグルメ番組で見られる「箸で麺を持ち上げる映像」が深く関わっている。
あの汁気をおびて湯気を放つ麺の映像に、我々日本人は食欲を感じずにはいられない。
長期にわたる「箸で麺を持ち上げる映像」の放映が、今のラーメン業界を支えているといっても過言ではないのである。
さて、業界にとって極めて重要な「箸で麺を持ち上げる映像」。
麺を持ち上げる技術において「名人」と呼ばれる人物がいることをご存知だろうか。
筆者は知らなかったのだが、彼はファンの間では神と称され、今まで何度も箸で麺を持ち上げてきた。
彼の持ち上げる麺はそういう生き物ではないかと見間違えるほどに生気を放ち、しかも艶かしい。
3大欲のうちの2つを同時に満たす技術として、賞賛の声に事欠くことがないのである。
「持ち上げるスピードとかは、それほど重要ではありません」
角田さんは私を恋愛のことでさとすかのように、そう言った。
「麺の湯気とか、汁っけも、特に意識することはないんです」
それは、もう名人としての意見ですか。
「いえ、そうでは。とにかく重要なのは、持ち上げきったとき、少しだけ時間をおいてから、麺が一本だけぴんとはじける。その映像なんです」
そう言うと彼は、隣にいた彼の奥さんの髪をやさしくなではじめ、そっと人差し指と中指ではさんだ。
「最初の掴み方なんですよ、全ては」
「最初にしっかり掴むことは掴むんです。持ち上げられませんから」
「しかし力加減が難しい」
「しっかり掴みすぎると、持ち上げきったあとに、麺がぴんとはじけない」
「しかし緩く掴むと、持ち上げている最中に麺がはじけてしまう」
「最中のはじけ、我々の世界では「ピンハネ」と呼んでいますが、ピンハネが一番よくない」
「見ている人に「汁飛んじゃったよ」と思わせてしまいますからね」
「この力加減にはずいぶん苦労しましたが、今ではファンも納得させられるくらいになりましたね」
「まず、こんな感じで持つんですよ」
「掴むときもこう、少し内側に巻き込んでから、掴む」
「そしてすっと持ち上げる」
「いいですか、この巻き込みも難しいんです。こう」
「こう巻き込んでから、いや、強くやってはいけないんです。こうやって、くるん。すっ。こうやって、くるん。すっ、ですよ」
「くるん、すっ。くるん、すっ。くるん、すっ。くるん、すっ。」
奥さんがすっごく若々しくなってきた。
生き物との対峙
自分との対峙

ざる

ある有名な女性歌手は、いわゆる「ざる」なのだそうだ。
お酒を飲んでも酔わないということ。
僕は最初の飲酒でひどい目にあって以来、どこかで自制しているのか、あるいは強い方だったのか。
意識を失ったり足下がおぼつかなくなったりすることがない。
しかし大量に飲むわけでもないので、どうも「ざる」トロフィーは獲得できなさそうである。
さて、この「ざる」という言葉。
褒め言葉なのかそうでないのかが気になった。
というのも、例えば会話での「あいつはざるでねえ」というのは、どうも2つの意味を含有していると思われるから。
「あいつはざるでねえ」
「だから、酔っていても話を聞いてくれる」
「だから、こっちがへろへろになっても安心できる」
「あいつはざるでねえ」
「だから、酒がもったいない」
「だから、酔った勢いの話ができない」
「あいつはざるでねえ」
「ウスよりもメジャーなのに、さるかに合戦には参加できなかったんだ」
「猿と名前がかぶるからだって」
前者はポジティブざる。
おそらく、相手の話をちゃんと聞いてくれるし、送り迎えすら期待されてしまう。
対して後者はネガティブざる。
酒がもったいないというのは建前で、それは「いつも一歩引いている、腹を割って話ができない」というネガティブなものの言い換えだろう。
この2つの意味。
おそらくというかもちろん、「ざる」という言葉が使われたシチュエーションによって、使い分けられる。
しかし、僕は「ざる」というものは必ず「ネガティブざる」としての意味だけを持ってもらいたいと思っている。
人間はいつだって、ざるの中には一粒の砂金が残ることを望んでいるわけでして。

天涯孤独の価値

前提:
事実しか、書けないようになった。
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ある種の推理小説家たちは、こぞって天涯孤独の人に金を払って、すり替え殺人をするように説得した。
ある種の推理小説家たちは、そのやり取りをすっぱ抜いた。
ある種の推理小説家たちは、そのすり替え殺人の被害者となった。