効果音

「彼の乗っているエレベーターがこの階につき、戸が開いた」
「がらがらがら」
今聞いていた何かで、実際そう言われていた。
今のがらがらがらも、あるいは電話の「ジリリリリーン」。
灯りを消すとき、紐を引っ張る仕草など、昭和を惜しんだ「面白いでしょポイント」を仕込むのは、既に行われていることも手伝って、なかなか勇気のいることだ。
しかし僕はこれに弱く、楽しくなってしまう。
いつだって戸はがらがらがらって音を出してほしいし、電話全般は黒電話を師と仰いでもらいたい。
スイッチのついた機器は全て紐を引っ張る式の方が面白いじゃないか。
今後これらが取って替えられるとすると、どうなるのだろう。
現在の多くの戸は音もなく開閉するし、電話が発する音は多様だ。
スイッチを入切する動作は指先一つだからこじんまり。
残念だ。
新しい音、雰囲気を表す言葉を作るのにも、それではすぐ足らなくなるだろうし、そもそもそれに汎用性を持たせるには人の認識能力にも多様性がありすぎている。
これらのものには将来「がらがらがら」や「ジリリリリーン」以上の表現アイテムが手に入れられる可能性はないのである。
この残念さは、ちょうど扉や電話に相当するもの、手動で操作する必要のある機器が全くなくなる未来まで、続く。

ロケットパンチ。

昔あった超合金のロボットは、必ずと言っていいほどロケットパンチを標準装備していた。
僕もいくつか持っていたように思うが、それもやっぱりロケットパンチがついていて、よく手首から先がなくなってしまうのだった。
さて、そんな手首の先。
これまた必ずと言っていいほど拳をにぎっていてしかも穴があいているんである。
このことが示しているのは「このおもちゃにはアクセサリがあります」だろう。
何かの光線銃だとか、剣だとかだ。
ただ、確かに銃を持った拳がロケットパンチとして飛んでいくさまはなかなかいいが、とらえ方によっては別のことを示している気もする。
「何かにぎりたい」
あの拳はにぎりたがっている。
かつてあんな雄弁な拳があっただろうか。
それは男の証でもなく、力の象徴でもない。
にぎることに一直線の拳だった。
そう考えると、たいていつまようじを持たせていた僕の行為は許されるものじゃない。

スター気取りで。

「目をつむると星の見えるコンタクトレンズ発売」
眼球に対して電気信号を発することで、あたかも星空が見えるというコンタクトレンズが開発された。
リラックスして目をつむると、それを感知。
迫るような星空を体験することが出来るという。
しかし発売は見送られた。
寝ようというとき、なぜか目を閉じた使用者のまぶたが光を発し、室内灯を消した天井に星空を投影してしまうことがわかったからである。

一艘多く飛んでいます。

「八艘飛び」で気になるのが「自分の乗っていた船も合わせたのか」という点だ。
僕は歴史に明るくなく、「はっそうとび」というものも女神転生というゲームの何作目かで登場したのが初見だ。
それ以来、ずいぶん「八艘飛び」のことなんて忘れていたけど、なんとなく「八艘って?」という疑問が生じ、特に何もせず現在に至る。
「8艘飛んだんだから、八艘なのだろう」
確かにそうだ。
しかし、以下どれも「8艘飛んだ」と言えないだろうか。
・八艘飛びに関わった船が計8艘あり、その一つに義経在住。一番はじっこの船まで逃げ飛んだ。
・関わった船が計9艘あり、その一つに義経在住。一番はじっこの船まで逃げ飛んだ。
・関わった船が計10艘あり、その一つに義経在住。一番はじっこの船まで逃げ飛んだ。
・関わった船が計8艘あり、その一つに義経在住。一番はじっこの船から海へダイブ。
あれ、なんでまた僕のパソコンは「はじっこ」が「恥じっこ」って出るかな・・・。
要は数え方で、その見事な跳躍の場面で船が8艘あったとしても「八艘飛び」と言って良さそうだし、飛び歩いてその終着が8艘目でも、8艘目をちゃんと飛び越えたというのもしかり。
ちゃんと文献を調べればわかるのだろうか。
なんとなく計10艘のやつは「九艘飛び」って言っても誰も文句ないんじゃないだろうか。
いや待てよ。
確か「八艘飛び」は義経が迫ってきた敵を回避するためにとった行動だったはず。
考えようによっては逃避であるわけで、「より遠くに逃げました」となってしまう「九艘飛び」は義経にとって是か非か。
もうこれだから歴史ってやつは!!。

沸騰石がレンズを汚す

この間、CFで「耐熱性に優れるメガネを、ビーカーで煮沸する」というものを見た。
普通はメガネをそんな風に殺菌することもないし、だしを必要とすることもない。
煮沸しない。
その分見た目は面白く、「煮てる煮てる」と思った。
表現したいのは耐熱性だ。
メガネを煮沸したりはしないのだから、もっと低温(煮沸と比べて)のものを使用してそれを表現してもよかったのではないか。
あるいはとびきり高温で試してもよかったのではないか。
「従来のものは30秒で燃え尽きますが、このメガネは35秒です」
煮沸を用いたのはおそらく「日常生活で触れることが多く、かつ高温」である、なべを上から覗き込むというシーンを考慮したからだろう。
ガスによる火の方が高温だが、そこへメガネを落とすシーンは考えにくいし。
おみそしるだろうか。
あの中に落としたときのことを、このCFでは取り上げてくれているわけで、それはなんとなく大村崑を思い出させるが、確か紹介されていたメガネのデザインは彼のものっぽくはなかった。
気になるのが、今までの耐熱性がそれほどでもなかったメガネをおみそしるのなかに落としたとき、どうなっていたのかということ。
CFでは従来品との比較がされていなかったように思う。
そもそも煮てたが、それ以上のことは紹介されず、実は取り出そうとしたらでろりとなったりするんじゃないかという邪推もできたりもしちゃう。
そこにきて従来品の熱に対する危険性だ。
従来品入りのみそしるを口に含んでいたりするんじゃないだろうな、俺。
CFに追加挿入で「従来品はこうなります」を入れてはもらえないだろうか。
実は耐熱性の向上したものと同じ、煮沸くらいではどうともならないのだとしても、日常的に触れる高温のものとして上位である煮沸を耐えたことにはかわりないのだから、まあいいだろう。
一方で「従来品はこうなります」で水銀みたいのが入ったビーカーが映ったとしても、それはおもしろいから。

あぶらとり紙の透かし方。

「ひとかけのラードをなくすには、あぶらとり紙何枚必要か」
それほど話も広がらなそうあるいは作為的にも、これは一言ネタのようにでも使用かと考えていたが、書いちゃった。
作為的という点は主に下ネタが思いついてしまったからで、男としては全然作為的じゃない、かなり自然発生的な何かだが、まあブログ内容としては何となく避けがちなものである。
「ひとかけのラードをなくすには、あぶらとり紙何枚必要か」
この疑問を解消するためには相応の機構を考えると分かりやすい。
かなり原初的かつ有効なのは、あぶらとり紙製造所に忍び込みことから始まる。
そして、それの製造段階のあるパートを担っている区画を探し出す。
これは「あぶらとり紙は最初でかくて、それを切って商品にする」という憶測が混じっているが、その区画に「ロール上になっている」「でかいあぶらとり紙が1枚ずつ引き抜かれる」いずれかのシーンを期待しているのだ。
そしてロールならそれを回しているときにラードの小片をあてる。
でかい紙なら、引き抜かれる方向とは反対のところに、やはり小片をあてる。
これで、ラードの付いたロール全長あるいはでかい紙枚数分長を、商品あぶらとり紙長で除して答えが出そうだ。
以下、作為的に考慮した方。
一時期、今でもあるのだろうか。
女性、主に中高生の下着を販売する店があった。
いわゆるブルセラ病である。
この下着の大量生産について思ってしまったのだ。
こう、かかったYシャツが流れてくるところに、腕を上げて脇をさらした女子高生が椅子に座ってケータイをいじっている。
これで使用済みYシャツのプロマス実現である。
例はかなりマイルド指向だが、どんな場合でもこのブルセラ病。
実際やっていたとしたらその絵はかなり面白い。
一瞬、何やってんのか分からない。
ずっと見てても分からないかもしれない。
ずっと同じ脇だと擦れるから、そうか。
この午前の絵と午後の絵で座っている位置が違うのは、そういう意味があるんだね。
そんなこと、分かんなくていいかもしれない。
以前触れた気もするが、ほぼ同じ方法で「有名人サイン」なども、ただ一筋の線としてなら、大量生産は可能だろう。
ただ、どれにも言えることは「ありがたみがなさそう」だろう。
大量生産に対して「ありがたみ」がどうこうなんてのは昔からいろいろ話があるわけで今更な気もする。
しかし今回、「ラードの付いたあぶらとり紙がそこそこ出来てしまう」らしいので、ちゃんと言及しておいてみた。
寝ます。

西からなんか刀もって来てるわ。

ということで「にしむくさむらい」である。
先日というか、まあ今も先日書いた後の続きで6月22日の蒸し暑い夜中なのだが、本ブログの更新理由の一つに「月別アーカイブを見ると31日ない月が分かる」というのを記した。
これはその通りで、なんだか5年くらい続いているその月々が何日あるのか、アーカイブで確かに分かる。
よくこれだけ「その場でさらりと忘れられる」ような内容を書いたらしいと、赤面である。
まあそれは置いておいて冒頭の「にしむくさむらい」。
31日ない月を表した言葉なのだが、実はつい最近知った。
思い返すに、少なくとも幼稚保育小学中学高校ではそんなものを聞いたことがない。
それほどカリキュラムにおける優先度も高くなさそうだし。
ただ気になるのは、その「語呂合わせ」精神だ。
こないだまで知らなかったのはいい。
もう知っているから。
ただどうも、覚えにくいのを語呂合わせで覚える精神が気に食わなかったのだ。
「語呂合わせで覚えたことがない」人は、いないだろう。
例を出すのもためらわれるくらい、人々の心の中には歴史、科学あるいはパスワード分野にて語呂合わせにお世話になっている。
ああいやだ。
もちろん僕もお世話にはなっているのだが、その文章としての意味のなさや破壊感がいやなのだ。
しかもその用途上、頭の中なり口なりで、どうしても発するでしょう。
恥ずかしいことこのうえない。
実は、とあえて重要視するが、世の中は「語呂合わせで覚えられないことの方が多い」のである。
だって、「昨日好きな人と一緒に学校の窓から夕日を見たという思い出」を語呂合わせでなんか覚えられないでしょう?。
語が介在しないわ。
どちらかというと「語呂合わせで覚えられないことの方が多い」人になりたいし。
=====
え、昨日窓から見た、夕日ですか。
行きますよ。
「いーれーいれいれ、れれれれれれいーれいーいーいー・・・」
あービットで覚える方ですか。
すごいですね。
でも自分、どちらかというと「語呂合わせで覚えられないことの方が多い」人になりたいですし。

放置感

これを書いているのが実は6月22日とかで、どうも1ヶ月ほど遅れた状態でブログを更新。
要は保存するとき、わざわざ前ブログの次の日を踏襲しているわけだ。
よって、本当の6月22日に到達するのは1ヶ月後になるわけでして、そもそも「カレンダーを隙なしで更新する必要なんかないんじゃない?」という気がする。
そんな縛りは内容から見ても、全く必要ないということに、開始4日目くらいには思っているのだ。
ただひとつ理由があるとすれば、月別アーカイブを見ることで「31日ない月」が一目で分かる。
何気に、これが本当の理由だったりする。
とは言え、近頃めっきり忙しいので1ヶ月も放置、知らぬスポンサーが広告を出している。
放置していたので文句は言えず、また以前以上に前に書いたことが思い出せず顧みもしない。
同じ事書いていたら超はずい。
このはずい思いをしないようにするために、僕はこれからより、以前書いたのを見ないだろう。
だからこの回も見ないでね。
6月22日の僕や。

1月1日はいつもマジシャンズ・レッド。

「おまえんとこにあった日めくりカレンダー、なんかいろんな色がついてるぞ」
ああそれ?。すごいんだぜ。
「え、何が?」
お前、こんなの知ってる?。地球の生まれたときから現在までを、1年で表したカレンダー。
「ああ知ってる。西暦って大晦日のラスト数分だか数秒とかなんだよな」
そう。あれの、人生版なんだよ、それ。
「え、じゃあ人生80年間を1年で表したってこと?。誰の?」
俺の人生だ。
「すごいじゃない。いやいやかな?。寿命とか分かっちゃうんだろ?」
いや、書いてはない。スケールとして、生まれた日が1月1日、死ぬ日が12月31日ということ。
そしてその日にあたる人生の部分が、どんな感じか、かなり曖昧にわかるんだ。
「曖昧に?。内容なんて書いてないけど、この日ごとの色づけで分かったりするの?」
そう。
表紙の裏に説明あるだろう。
「ああ。青だと健康低迷期、赤が運気向上いいことある、か。黄色が人間関係円満で、黒が身近に不幸が起こる、とかいろいろあるな。まあ怖いけど、確かに曖昧だなあ」
そうだな。でもこのカレンダーで最も重要なことがわかった。
「そうだろうね。曖昧とはいえ、人生の目盛りごとのイベントが分かる。今までお前に起きたことで象徴的なことが、このカレンダーの色分けとして載ってるんだろ?。黒の不幸なんかをこれまでの人生と照らし合わせれば、逆算で寿命とかわかるだろうしな」
お前、ぜんぜんわかってないよ。
「何がよ」
12月31日を見てみろよ。
「ピンクだ。青とかじゃないんだ」
俺にとっては寿命なんかより、死ぬ日がモテ期の絶頂のときだってことがわかっただけで満足なんだよ。

フレームがフレームが。

震災について少し触れたあと、「闇夜の国から」の前奏部が流れてきた。
現在も被害状況が更新され続けている東日本大震災。
今なお人は、悲痛と鼓舞に心をにぎられ続けている。
その影響で延期されていた井上陽水ライブでのことだった。
それ以上語るものは特に何もない。
でも無理する。
このライブでは「闇夜の国から」とラストの「長い坂の絵のフレーム」が特によかった。
少年時代に「少年時代」を歌っていたら、知らないおじさんに「お前、今だよ!!」と怒鳴られた僕が言うんだから、それはそれは本当によかった。
ついでにがんばっちゃうと「闇夜の国から、長い坂の絵のフレームがシュッ」って、どう?。
なんか面白くない?。
・・・やっぱり無理する必要はなかったし、知らないおじさんのくだりの嘘を言うこともないし。