「暗がりから牛」ということわざがある。
暗がりから牛が出てきても、暗がりだからよくわからない。
そもそも牛がいたのかもわからなかった。
区別がつかない、という意味だったように思う。
あと動作がのろいという、あんまりな意味もあったか。
とにかく、この時点でかなり何なのだ。
牛でなくてもいいのだ。
犬でも猫でも、人だっていい。
その時点でわかってなくったっていい。
「暗がりから何か」
なんやことわざができたときですら、それが何か区別つかなかったんか。
それはまさに「区別がつかない」という意味そのものであり、より端麗だ。
しかしこのことわざで僕が気になるのは、「暗がりから牛、なんか怖い」ということだ。
けっこう、ホラーじみているような感じがする。
一時期このことわざの意味は「怖いこと」だと思っていた事があるくらいだ。
となると、ここでも問題になるのが「牛でなくてもいい」というもの。
それこそ先ほどの「暗がりから何か」は、かなり怖い。
一方、怖い方面で考えると犬、猫、人はちょっと牛には劣る。
「暗がりから白い手」なんてのはもう悪意がある。
手の方に悪意があり、たいへん怖い。
ゆるせない。
白い手ゆるせない。
でも、その白い手が缶ビールを持っていたりすると事態は少しだけ変わる。
最終的には怖いが、その前にいろいろ考えるはずだ。
プルトップが開けられていたら乾杯を要求しているのかもしれない。
ほんの少しだけ斜めに持っていたらCMかもしれない。
僕が思うに、冷えてない缶ビールだったら、怖さは白い手ノーマルのときよりも倍増する。
「乾杯をしようとする残留思念。もう時間が経ちすぎて、ビールも冷えていないというのに」
こう感じるからだ。
白い手以外で「暗がりから何か」を考えると、正直たいがいのものは怖い。
怖くないものなんてないくらいだ。
ただ、ひとつここで何か挙げてとなると、今のところ僕は「暗がりからドアノブ」と答えるだろうか。