擬態

生物の中で、擬態という戦略がある。
一般的に、それはまず「強いやつに化ける」と考えて間違いない。
毒を持つ他の生物に似た模様を持つ。
あるいは自分の天敵よりも強い生物を模す。
となると、自分より弱いものに擬態する生物はいるのかという興味がわく。
今何となく考えたところ、まあ人間はそういった面があるという結論に達した。
おそらく多くを書く必要はないだろうが、人間は時として自分をより弱く見せようとする。
おそらく多くを書く必要はないだろうが、それは別の視点からすればより強いからである。
人間には他の生物よりも多様な強さ弱さが複雑に絡み合っているわけだ。
ところでこれまた今思ったのだが、擬態には「強いやつに化ける」のと「周りの風景にとけ込む」という2パターンある気がしてきた。
そして高等になるほど風景とけ込みパターンが多いような気もしてきた。
虫などは両パターンともありそう。
一方ほ乳類は、例えば虎やシマウマが風景とけ込みパターンが思い浮かばれる。
人間はどうだろうか。
例えば成人男性。
スーツをまとう事でかなり風景とけ込みパターンになりそうである。
小学校校庭でどうしても身を隠す必要に迫られたら、半ズボンにより風景とけ込みとなる。
お寺で身を隠すなら髪をそればいいだろうし、女子校内なら、女装でいける。
こうなると、人間の風景とけ込みパターンでの擬態は、とにかく他の人に紛れ込む一点しか考えられないようだ。
それでは、周りに人のいない場所ではどうするかって?。
周りに人がいないということは天敵がいないということなので、身を隠す戦略自体が必要ないんである。

箸で切れる。

大きく考えると、ミルフィーユと豚の角煮はほぼ同じ食べ物と言える。
ミルフィーユのパイ生地は、豚の角煮では赤身の部分。
クリーム部分は脂身である。
その楽しみ方を考えるだけで、このふたつが同じ食べ物であること、むしろ同じじゃなかったら何なんだという気すらする。
しかし決定的に異なる部分もないわけではない。
ごはんがすすむか。
これだけは差異が生じる。
すなわち、豚の角煮をちびちびやるとごはんはすすむのであるが、ミルフィーユは、そうはいかない。
ミルフィーユをちびちびやっても、すすむのはせいぜいコーヒー紅茶のたぐいである。
※この点はむしろ「冷や奴と日本酒」の関係から「ミルフィーユ=冷や奴説」が思い浮かばれる。
実は、これ以外にも「ミルフィーユと豚の角煮は違うんじゃね?」点は存在することはする。
ミルフィーユは、たのしみ部分が交互に、何層にもわたって存在しているが、豚の角煮は、一般的には1.5ターンである。
それは「赤身脂身赤身」の構造で、ミルフィーユのそれよりも見劣りするのである。
しかし考えてももらいたい。
「赤身脂身」が交互に何層もある角煮は、おそらくは豚の調子がかなり悪くないとできない構造のはずである。
したがってそれは異常であり、このことが何ら「ミルフィーユ=豚の角煮説」を揺るがすことはない。
一部の例外はあるものの、ミルフィーユと豚の角煮が同じ食べ物であることは事実だろう。
この考え方に則れば、豚の角煮の柔らかさは、単に柔らかいだけ以上の驚きをもってむかえられるはずである。

武器庫

ビルの屋上に設置されている備品の多くはスーパーロボットの装備品であることはあまり知られていないが、実はそうである。
事実、なんだかかっこいい形をしているので、間違いない。
エヴァンゲリオンみたいなものである。
怪獣が現れたとき、どこからか現れたロボはビルの屋上をさらう。
そして僕らがビルの屋上にあるなんだかかっこいい備品と思っていた物を手に取る。
それは電気を流す武具だったのだ。
そして派手な市街戦を行うのである。
よって、ロボはビル群ですごく強い。
一方、上記理由により山奥や未踏の地ではその力を発揮できないだろう。
観衆がいないから、なおさら。

断列夜景

特に怒る事柄があったわけではないが、何となくこんなことを言いたくなってきた。
お前は夜景のジグソーパズルでも作ってろ。
世の中には多くの「夜景のジグソーパズル」があり、その点申し訳ないのだが、やはりこう言われたらすごくショックな気がする。
要は「おまえは役に立たない」と言っている様子であるため、いかに「夜景のジグソーパズル」がなんだかなあというものか。
ひどいものである。
しかしジグソーパズルの存在意義は完成物を飾ることだけではない。
いや、むしろこちらだろう。
それは作製作業だ。
ジグソーパズルは完成へ向けた意識というか、作業を楽しむものなのである。
そうなれば冒頭の発言は思いのほか効力を失う。
少なくとも、そう思っている人に対してパズル作ってろと怒っても、え、いいんですかという感じになる。
そんな人に対して類似のもので怒りたいときはどうすればよいか。
ラッセンのジグソーパズルでも作ってろ。
ラッセンの、光るジグソーパズルでも作ってろ。
これで「えーラッセンの??」となってくれればいいのだが。

立ち止まりアカデミー

人が行き交い混雑する駅構内で、ふと立ち止まったらちょっと迷惑だと思う。
端に寄るなど止まるなりの礼儀はありそうだが、どうもそれに気づかないくらい、唐突に何かに気づいたのである。
しかしその気づき。
向かうホームを間違えたくらいの気づきだったりもする。
間違いは仕方ないのだが、どうせならこのくらいの驚きをもって、立ち止まってもらいたい。
「今日休みだ!!」
「俺パジャマだ!!」
「なんかわからないけど、俺血まみれだ!!」
「朝俺の家にいた人、全然知らない人だ!!」
「すっげー帯踏まれてる!!」
「首脳会談出るの忘れた!!」
一方、立ち止まりたくなるようなことが起きても、平然と方向を変えない、もちろん立ち止まりもしない人もいる。
それは先ほどの「立ち止まる人」より迷惑じゃない感じもするが、本人はどきどきしている。
そして本来の目的じゃないことが達成された頃「あそこで方向転換していれば!」と歎くのである。
基本的に、この手の人は気にしいで、誰かに「あの人道間違えたわ」と思われるのがいやなのである。
でもまずおまえは注目されていないからそんなことはいい、というものだ。
もう、全然注目されていない。
むしろ見えてない。
米軍がその技術を採用したがるくらい見えてない。
この場合で、注目されないこととは「どこかに向かって歩いている」だけで必要十分である。
となると、注目されるというのは「立ち止まる」ということであって、それなら帯くらいはだれておかないと、礼儀に反するよね。
朝の特快にて。

鳥丼

先日、お昼ご飯に鳥丼というものを注文した。
旨味がありとてもおいしかったのだが、とにかくすごいのが歯ごたえだった。
ごりごりごり。
ゴムなのである。
あごが疲れるのである。
もちろん本当にゴムなのだったら、無味もしくは不味であるため、歯ごたえを感じる前に心ごたえを感じるはずだ。
結果、吐き出してしまえばよい。
しかしそのゴムは、やたらといい味を出力してくる。
困ったものである。
いよいよ口を開けるのも辛くなってきた頃、ようやく食べ終えた。
地鶏というものがどういったものかは知らないが、なんかとにかく元気だったんだなと感じる。
それをこう、おいしくいただき、しあわせだなあ、と。
あれ、さらにデザートが出てくるんですかそうですか。
それにしても食事というのは、噛むことだということをあらためて認識させられた気がするな。
・・・
お昼休みが超オーバーである。

にじ

死骸とはいえ、たまむしを見つけた。
森が多い場所とはいえ、都内にもいるらしいのである。
こいつはたしか幼虫時代を木の中で過ごす。
その期間は結構長かったはずだ。
そして成虫になっても高いところばかりにいるらしい。
なかなか出会わないものだから、まじまじとながめてしまった。
しかしぼくは出かける途中だったのだ。
その殻を持っておく場所がない。
通り道の塀に置いておくことにした。
帰り、どうやら雨が降ったのか、路面は湿っていた。
たまむしの死骸はどこかに行ってしまったのか、塀の上にはなにもない。
持って行けばよかったか。
しかし、かばんの中でこなごなになったりでもしたら、その昆虫性ふしぶしパーツのせいで二度とそのかばんを使うことはなかっただろう。
それに、雨の日に虹を捕まえておくというのも、あじけないわけで。

水面を見上げる。

スキューバダイビングができるとしたら、「海底から空を見上げる」ことをしてみたい。
地上から空を見上げることに比べて、海底からだとひとつ余分なもの(海水)が間にある分、何かおもしろいのではないかと考えている。
ディズニーランドに行けるとしたら、「ミッキーと握手する」ことをしてみたい。
中の人と握手することに比べて、ミッキーごしだとひとつ余分なもの(ミッキー)が間にある分、何かおもしろいのではないかと考えている。
スカイダイビングができるとしても、「海底を着陸地点とする」ことはしてみたくない。
地上を着陸地点にすることに比べて、海底だとひとつ余分なもの(海水)が間にある分、何か危険なのではないかと考えている。
また、妙なルール(着水後にパラシュートを開く等)ができたりしている可能性もある分、何か危険なのではないかと考えている。
人は、上に行くか下に行くかで、結構対処法が違う。

模倣犯

「ごみ拾い模倣犯」という言葉があるとするならば、まず気になるのが「ごみ拾いって悪い事だっけ?」という点だ。
悪いのなら模倣することもいけないわけで、そこはパイオニアと模倣、あわせて検挙していかなくてはならない。
しかし一般的には、ごみ拾いは悪い事ではなく、むしろいい。
度が過ぎると探偵か変質者か偽善者になってしまうだろうが、ほどほどならいい。
だからそれを模倣するらしい「ごみ拾い模倣犯」もいいのである。
となると冒頭の違和感は「犯人」という言葉に起因すると考えて差し支えない。
犯人。
悪いやつのことを指している事が多いから。
だから「ごみ拾い模倣さん」とかが本当なのだろう。
僕が考えてみたところ、おそらく「ごみ拾い模倣さん」は「あいさつ模倣さん」でもあり、「道ゆずり模倣さん」でもある。
「えがお模倣さん」でもあるだろうし、「さわやか模倣さん」でもあって、とにかくいい人という印象だ。
しかしすぐに気づいた。
模倣の由来元がいることを考えると、とたんに彼は気味悪い存在になるのである。
「ごみ拾いさん」に対して「ごみ拾い模倣さん」。
もっと自発的にいこうよ、という感じがする。
他のもそうだ。
「さわやか模倣さん」よりは「さわやかさん」のほうがNHKっぽい。
模倣さんは、そのパイオニアよりは劣る。
それを模倣しようと懸命なのだから、気味悪いのだろう。
「ごみ拾いさん」
「さわやかさん」
由来がパーフェクトだと、なおさら。

図鑑

あるエッセイストがこんなことを書いていた。
「昔、お気に入りの魚の図鑑があった。それには魚の体長や性質とともに「おいしさ」「まずさ」が書かれていて、想像をかき立てられるのだった」
先日apple storeで購入した魚の図鑑に「かわいい」という文言を見つけ、なんとなくそれを思い出した。
かわいいかどうかは、おれがきめるから。
僕もどちらかというと、よく図鑑を見る子供だったと思う。
昆虫の図鑑はらくがきでいっぱいだし、魚の図鑑はぼろぼろだ。
海に住む無脊椎動物の図鑑は、魚のそれよりもさらにぼろぼろで、鉱物のはらくがきでいっぱいだ。
図鑑、よく見てなかった。
らくがきばっかりしていた。
動物の図鑑を見てみると、とにかく「マヌルネコ」に幼少の頃の僕はくぎづけになっていたようだ。
その図鑑の「マヌルネコ」の写真は、どうしたことか切り貼り面がよく目立ち、しかも小さい。
かなり悲惨な待遇だった。
しかし、色鉛筆で書かれた多くの丸がそれを囲んでいる。
気に入ってるのだった。
それは「マヌルネコ」という、なんとも愛らしいまるっこい名前もさることながら、写真からかろうじてわかる「すごくもこもこしている」こと、これが気に入った原因らしかった。
子供ながらに、もこもこしているものはかわいいものであることを認識していたようで、その点偉いと思う。
先日、鮮明な「マヌルネコ」の写真を見た。
もこもこしていたが、眼光鋭く「お前ちょっとよそ見たら、殺しにいくから」みたいな顔つきだった。
僕は鮮明な「マヌルネコ」が見られて満足だった。