「許しているんだから、許される」
こう思っている人は多いのではないか。
例えば、電車内で迷惑行為を働く人は、この考え方を持っているに違いない。
無意識かもしれないが「俺は許しているんだから、俺の迷惑行為は許されるはずだ」と。
ということで、ここで彼が何を許しているかということについて、考えてみる。
僕が1番に思いつくのが「特急電車がホームをすれすれに通過する」ことだ。
慣れていたり、気にならないという人もいるだろうが、そんな人でも、実はあの通過。「許している」。
あの質量のものがあの速度で走っているのは、結構すごいことだ。
危険。
でも、特急は急いで目的地に行かなくてはならない。
仕方がないから、人はその危険を「許した」のだ。
次に思いつくのが「キャベツの葉、すぐ腐る」ことだ。
人はそう聞いて、こう言う。
「それって、自然の摂理じゃない」
でも、内心は腐らないでほしいと思っている。
だから、無意識に「許している」のだ。
最後に、思いつくのが「もち、金網に付く」ことだ。
あれも、しょうがないことであると、人々は口にする。
しかし、本当は付いてほしくない。
後がめんどくさい。
そう思っている。
その兼ね合いの結果、とりあえず「許している」のだ。
以上のように、人は生きていく中で、許さなければならないものを多く持っている。
一方、許される行為はそれよりも数少ない。
数が合わないため、どうしても許される行為のレベルが低くなるのも、仕方ないだろう。
思うに、上に挙げた3つの事柄を「許す」と、もれなく「ホッチキスの置き場所を間違える」くらいのことが「許される」。
このくらいだ。