一ヶ月前ほどに「一対のハンドグリッパー」のことを当ブログで書いた。
あけて、しまうのだろう・2
※ハンドグリッパー:にぎにぎして握力を高める装置
この「一対のハンドグリッパー」の記載をするとき、「一対」「一個」のどちらにするのかを迷った、ことを先ほど思い出した。
この違い、かなりの差だ。
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久々の終電。
既に家の明かりは消されているので、忍び足で居間に向かう。
お、テーブルの上に「なんか、料理皿の上に広げる傘みたいなヤツ」がある。
何か食べ物を作ってくれたのかな。
傘みたいなヤツを取り去ると、テーブルの上には
「一対のハンドグリッパー」
「一個のハンドグリッパー」
が・・・。
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上記の件、そうない事例ではあるが、考えてみよう。
もし「一対のハンドグリッパー」がテーブルに置いてあったとするならば、あなたは「なんや鍛えろいうことかい」と思うだろう。
「一対」であることで、ハンドグリッパーの役割を最大限にアピールしている。
一方「一個のハンドグリッパー」が置いてあったとすると、どうだろう。
最初は唖然とするだろうが、よく考えてみよう。
ちょっと、よく考えてみてもわからないのではないだろうか。
「いやがらせ」
「ジョーク」
「利き腕だけ鍛えろ」
「両手を鍛えろ」
「ハンドグリッパーにみぎひだりの差はあるかどうか、確かめろ」
「手羽先か何かと間違えた」
この、一個のハンドグリッパーに、どんなメッセージがこめられているのだろう・・・。
配偶者を起こさねばならぬ。
このくだん、「靴」に置き換えてみよう。
「一対」の方はこう変わるだけだろう。
「なんや明日これはいて行けいうことかい」。
しかし「一個」の方は以下だけになるのではないか。
「いやがらせ」
「ジョーク」
「高レベルの闇鍋跡」
靴は、一個だけでは靴の役割を全く持たないのだ。
しかし、ハンドグリッパーは一個でもそこそこ元の機能を失わない。
一般的にもともと一対が基本形のものが一個になってしまっていた場合はその機能を失うこととなるが、ハンドグリッパーについてはそこが結構ぼやけるようだ。
以上を熟考した上で、僕は「一対のハンドグリッパー」を採用した。
一個にしていて、そのことで疑問が生じたとしても、起こすものがいないのだ。