紫煙八景・自失の念

絶叫マシーンに乗りたがったり、お酒などで酩酊感を味わったりしたがるのは、少なからず誰しも「自らを失う願望」のようなものがあるからだ。
ある作家は、この願望が何を意味するのか、を書きたかった。
もちろん彼は次のことを知っているだろう。
「みんな、おぼろげかもしれないけど、そういうものがあるというのは知っているだろうなぁ。」
生きるということは、同時に死というものへ向かっていくことである。
したがって、我々は既に「ゆるやかな自失」を実行していると言える。
この法を背負っていても、人間というものは、時として故意に自失を求めるのだった。
これは、なんなんだ。
「近代社会における生活水準の向上が、死というものの重みを軽減した。その代償である。」とかいうんじゃ、もったいないぞ、話として。
よし、実学主義だ。
酒もってこい、酒!!。
などと思ったかは全然知らないけど、話はもうすぐ終わります。
簡単に言いますと、僕はたばこの煙を吸うのが、大好きなのです。
おそらく、小さい頃に、父親がたばこを吸っているときに、すっごくたくさんアメ玉をもらったとか、そんなんだと思うのですが、とにかくあの香ばしさが好きだ。
ただ、吸っている人による。
こういうだけでだいたいのことは読み手の脳内で補完されていると思うので言及はしません。
また、においの強度ね。
あんまり煙たすぎると、だめだ。
健康のことも考えちゃうしね。
一生懸命ボールペンに付いた値札シールをはがしているときに、ふと煙が香る。
そんなんがいい。
もちろん、そんなときの僕に「自失」どうこうは、全くない。
だが、今回の話の後半部分は、僕以外の人にとっては副流煙話であり、僕は自失まっしぐら、ということになる。
無害な煙で、吸ってる人もおいしい。
そんなたばこは、早く作れ!!。人!!。

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