親ら

「一親等」というように使う「親等」は、親族の遠近な関係を数値で表しているもので、ちょいちょい目にする。
確か子供から見て親が、親から見て子供が一親等なのだが、そうなると気になるのが「零親等」の存在で、一般的にはそんな言葉はないようだ。
しかし、むりくり何かを表現するものだとして考えると、普通は「自分自身」だと考えるんじゃないだろうか。
ところがサイトによっては、こう来る。
「配偶者のこと」
もちろん「もし意味を持たせるなら」という前提ではあるが、どうも「親等」というものを「自分以外の親族のこと」として考えたとき、「自分ではないが一親等よりも近い存在」として配偶者が最適ではないか。
そういうことらしい。
遊びの範疇であれ、零親等というものが自分自身のことと勝手に考えていた僕にとって、配偶者もその権利があるかも、という考え方は衝撃だった。
一心同体。
結婚式でよく聞くこの言葉どおりじゃないか。
で、この流れになるともちろん「3/5親等、5/3親等」や「マイナス一親等」。
虚数の「i親等」などの夢が広がってくる。
「マイナス一親等」なんて星みたいだ。
なんとなくそれらについての僕の見解は、以下だ。
・3/5親等:子供から見て、子離れできていない親。親から見て、親孝行な子供。
・5/3親等:子供から見て、よく二人で旅行に行く親。親から見て、あまり似ていないなと思う子供。
・マイナス一親等:子供から見て、背後霊。親から見て、背後霊。
・虚数i親等:子供から見て、二乗すると背後霊になる親。親から見て、二乗すると背後霊になる子供。
だってさ!!。

飛び出せ2

昨日からの続き
【あらすじ】
「仕掛け絵本」は面白いが、内容はどうしても「絵本に向いている物語」限定になりがち。
一方、日曜のテレビ番組「サンデーモーニング」では、絵本に向いてなさそうなニュースを「仕掛けて」いる。
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いつからだっただろうか。
サンデーモーニングで「もう中学生」がブレインとして参加したのは。
いや、参加したのかどうかは知らない。
しかし、とにかくあるトピックに対して図画工作が行われるようになり、それは今でもあるらしいのだ。
これには、僕だけでなく、多くの人が「なんか手作り感出てる」と気にしたに違いない。
おそらく、あのギミックは、「難解であったり触れがたい内容のニュースであっても、分かりやすく、あるいは刺激を和らげつつ物事を伝える」方法なのだろう、たぶん。
しかし見方を変えれば「分かりやすさを重視したため、問題の重要性、深度が薄れがち」ということでもある。
どちらも正論で一概にどちらがマズい、などとは決められない。
しかし、「サンデーモーニングがテレビ番組である」という点は見逃せない。
すなわち、「仕掛けることで分かりやすい一方、ゆるくなりがちなニュースについて、キャスト陣がフォローする」ということ。
ゆるくなったままではニュース番組としての意義が危ぶまれるわけだが、そこは動的に対応できる関口さんや、知的なメガネの女性の存在が、「磁石ギミックでずるずる動くオバマ大統領」でゆるくなった雰囲気を締めるわけである。
特に知的なメガネの女性のニュースきびきび感はすさまじいものがある。
僕自身も、かなりメガネが好きだ。
このような理由により、サンデーモーニングでは、「一見仕掛けるのが難しそうなのを仕掛けつつ、重要性は失わず」が成功している。
このような構図は、仕掛け絵本側には難しいだろう。
一方、上記の「仕掛け絵本側には難しい」部分について、実は僕らが、仕掛け絵本に採用されている「絵本に向いている物語」を、ゆるいものと軽視していること自体が間違っているという可能性も否定できない。
要は、仕掛け絵本とサンデーモーニングに「仕掛ける対象に差が出ている」と思うこと自体が間違っており、仕掛け絵本の内容もニュースの内容も同じ重さである、という考え方である。
「探査機はやぶさ」のギミックが紙をスライドさせながら地球に戻ることと、わらの家をオオカミが壊すことは等しい重要度とみる。
これはなかなか奥が深くて、この考え方を持つと「わらの家を壊された子豚の悲しみ」「さらに食べられてしまうことの残酷さ」などがすごく重要なことで、もはや自己のことと同化すらし、感慨深いものとなるだろう。
このように、仕掛けることを生業とする「仕掛け絵本」「サンデーモーニング」のことを考えてみたら、物事の重要性を損なわずに分かりやすく伝えるやり方や、他人を思いやる気持ちがはぐくまれる可能性が示唆できた。
情操教育にもいいのではないか。
僕もこれらを鑑み、より人間性を高めいくつもりであるが、ところで最近、サンデーモーニングで知的なメガネの女性がいないような気がするのだがどうしてくれるんだこのやろう。

飛び出せ

このあいだ、テレビで「仕掛け絵本専門の本屋」のことをやっていた。
仕掛け絵本というのは、主に「飛び出す絵本」のことであり、小さいころお世話になった人は多いだろう。
現在は昔のよりもギミックが凝っており、子供だけでなく大人も楽しめるものであるそうだ。
ふーん。
ところで、気になったのは「仕掛けてはならない内容の本」についてだ。
例えば「三匹のこぶた」の話なら、各ぶたが建立した、わらだか煉瓦だかの家のギミックが作動して、大変よろしい。
しかし芥川龍之介の「羅生門」で仕掛けを考えたとき、どうすればいいのかとなると、どうも。
まず、何をギミックでおったてるかとなると、羅生門しかない。
そして、そもそも「絵本」、なじみ深い「文庫」「ハードカバー」どちらで出版すべきか。
耐久性としてできるのか、「文庫」「ハードカバー」での仕掛け。
問題は山積である。
そして、同様の問題を持つものは多い。
「バカの壁」
バカの壁を仕掛けるしかないだろうが、一体何なんだ。
そして立てていいのか「バカの壁」。
「火花」
花火か、熱海の全景を仕掛ける感じか。
熱海のパンフレットか何かだろうか。
このように、「仕掛けていいのか」ということは、ほぼ「その題材が絵本に向くのか」と同義である。
もちろん、仕掛けは「飛び出す」ことばかりではないが、「もう中学生」がやっているように、どうであれ「仕掛け」は何かのんびりした、絵本的な雰囲気を出してしまうものなのだ。
それは単に「本当にのんびりな内容」というだけでなく、「いやそれは飛び出さなくていいでしょ(羅生門、火花)」「抽象的なものなのに、物質として表現してしまう(バカの壁)」ということが、牧歌的であるわけだ。
さて、ここにきて、この意見に喝を入れられかねない事象を考える必要が生じた。
「サンデーモーニング」の例のアレについてである。
明日へ。

走攻守

クイズゲームをしていたらこんな問題が出た。
「一般的に紹興酒といえば、何のスポーツか」
何を言っているんだスポーツじゃなくて癖の強い酒じゃないか。
ごめん間違えた。
「一般的に走攻守といえば、何のスポーツか」
答えは「野球」だった。
しかし考えてみると、大概のスポーツには少なからず「走攻守」の要素があって、それは野球に限定されたものではないのではないか。
そんな気がしてきた。
例えばフィギュアスケート。
なぜ「サッカー」「バレーボール」など、わかりやすい例を上げないのかは自分でも不思議なのだが、とにかく「フィギュアスケート」。
「走攻守」の「走」に相当するのは、滑っているさまと考えれば演技全般ととらえることができる。
「攻」はブレードのことで、匠の鍛錬した刃はすべてを切り裂く。
そして「守」は、日々の生活の中で得る素晴らしい仲間や家族を思う気持ちである。
よかった、そろってる。

びっくり

もう3年前くらいの、ビックリマンがいつも机の上に置いてある。
これは、僕にしか見えない女の子が命日である2月14日を毎日勘違いし、そっと明け方置いているわけではなく、そしてすさまじいゴミ屋敷、というわけでもない。
なんでも鑑定団に出すため温めているわけでもなく、机上がロッテでもない。
ただ前にもらったもので、もらったからなんとなく捨てられず、そして興味もなく。
古いから片付け中に「食べちゃえ」と思うこともなく。
そのような、誰しにも存在しそうな生活のニッチに、この「ビックリマン 漢熟覇王」はある。
今、初めていや2回目だろうが手に取ってみたら「漢字の画数で勝負!」みたいなコピーが書いてある。
最近のビックリマンは迷子のよう。
まず「ビックリマン」の中に漢字がない。
そういうことじゃないか。
ビックリマンについて最近思うことは、やはり「昔は30円くらいだったのに、なんか高い」という点だろう。
一体、何人のおやじが「最近のビックリマンは高くてびっくり」と発したか。
これは、社会的な制裁必至の事例であるから、即刻ビックリマン氏にはロッテに、このチョコレート菓子の値段を下げるよう、働きかけてもらいたい。
ちなみにこの、3年前のビックリマン。
パッケージに「第二巻」とある。
続きものだ。
怠慢だぞ、ビックリマン氏。

僕らの29200日間戦争

唐突に「僕らの七日間戦争」の曲が聞きたくなってきた。
ずいぶん昔の映画だが、結構有名。
曲も、聞いたらなんか知ってるという、ジェネレーションギャップを埋める手段の一つとして、浸透はしていない。
あまり内容を覚えていないのでナニなのだが、とにかく「学校の生徒が厳しい校則や縛りに反抗し戦ったりするが、最後は花火を上げていい感じに終わる」映画だった。
そしてその反抗の最たる「廃墟に警官だか自衛隊かが侵入するシーン」で、特に印象深いことが起きる。
侵入を阻止するため、くぎみたいなものを床板に張り付けているのだが、まんまと侵入者はそれを踏み、倒れこんでしまうのである。
シーンとしては「学生が仕掛けた罠に、青春の敵たる大人が引っかかりました」くらいの意味なのだろう。
しかし映像からして、釘の乱立したところに倒れこんだ侵入者はひどい傷を負ったはずだ。
僕はこの映画を最初見た時から、あの人は大丈夫だろうかと気になっている。
もちろん大丈夫なのだが、あの「釘に倒れこむシーン」の心配さは半ばトラウマみたいなことになっている。
ほぼアイアンメイデンじゃないか。
今、アイアンメイデンが「アイアン名電」になってしまい、このパソコンが鉄の処女に慣れていないことがわかった。
ともかくちょっと衝撃的な映像なのだ、「釘に倒れこむシーン」は。
今なら確実に炎上する。
「厳しい校則、ルールに反抗した青年たちが自分の居場所を勝ち取るため、立ち上がる」という表現ではなく、「補導するために突入した捜査員を負傷させた」籠城犯、と今ではなるだろう。
いくら最後に花火を上げたとしても、「あらきれい。子供たちはこれが見せたかったのね」という感じでは終わらない。
「花火を上げて、さらに炎上」。
これはいらないか。
最近はよくネットの世界で「安易な公表」「行き過ぎた制裁」という話をよく聞く。
今「僕らの七日間戦争」を思い出したとき、その評価は当時のものとはかなり異なるものになるかもしれない。
常識や文化の意味が、そう長くない期間でもコロコロ変わるのはよく知られているが、今は「戦争」という絶対値の極めて高い素材すら、そうなのだろうか。
意味どころか、本質すら変わるのだろうか。
ちょうど今、変えているのかもしれない。
やだ今日の内容、ちょっと社会派。
この手の話題に勧善懲悪なんて見いだせないが、ひとつの方法として「登場したもののなかで、完全無敵、善なるもの」をあえて悪役にあてがうことで、全体がまとまるという考え方がある。
花火、お前が悪い。

ドアをしめて

尾崎紀世彦氏の「また逢う日まで 」がテレビでやっていて、久しぶりに聞いた。
今聞いても迫力があり、とてもいい歌だ。
さて、ブログタイトルにもあるように、この歌の重要なところは「ふたりでドアをしめて」のところ。
「しめて」の「め」と「て」の間をいかに空けないか、だろう。
とりあえず今、カラオケで「め」と「て」に間を空けないシーンを想像してみる。
気持ちいい。
間違いなく気持ちいいので、よかった。

なきどころ

普通、弁慶の泣き所というと「すね」であったり急所の事を指すわけだが、弁慶の事をもっとよく考えてあげてみると、もしかしたらこれも「弁慶の泣き所」と言えるかもしれない。
「グリーンマイルの最後のほう」
勘違いしがちなのは、いわゆる「泣けるもの」の一般論ではなく、あくまで「弁慶の泣き所」を考えたいということである。
すなわち、誰もが認める「グリーンマイルの最後のほう」の「泣き所っぷり」であっても、弁慶が見ていない以上、憶測の域を越えない。
ないのである。
どんなに歴史をたどってみても「弁慶、グリーンマイルの最後のほうで涙す」という事実は。
いけない。
事実と書いてしまったが、僕としては、ちゃんとバックグラウンドを理解してもらい、現代の生活を2年くらいしてもらえば、十分「弁慶の泣き所」に値すると思うのだ、「グリーンマイルの最後のほう」は。
言い換えればあったのだ、「弁慶、すねをうって涙す」が。
話を戻すが、「弁慶の泣き所」を考える場合、当時の資料や本人。
それに着目した研究がおそらくない以上、レパートリーを網羅する事はできない。
ただ、分からない故に、あらゆるものに「弁慶の泣き所」であった可能性は存在し、例えば「寝る」という一見泣く事とは関係ないことでも、我々が知らないだけで「弁慶の枕はびっしょびしょ」ということがあったかもしれないわけである。
なんて広大な可能性なのだろう「弁慶の泣き所」は。
恐ろしいのは、複合技により、擬似的な「弁慶の泣き所」を産み出す事ができる点である。
「葦でカゴを作っている弁慶のすねを叩く」
弁慶がカゴを作った事があるのか、葦でカゴを作るものなのかはわからないが、これでうまくいくと「カゴを作る」ことは「弁慶の泣き所」と伝えられる可能性は十分に高い。
そう考えるともう、「弁慶の泣き所」は全ての事象そのものであると考えて全く差し支えないだろう。
ついでに「弁慶の鳴き所」とかにすると、動物も範疇に入れられて、それはもう色々考えられて面白いのである。
最後に。
「あくび」なんかを「弁慶の泣き所」と表現すると、こいつやるな、という気がする。

流れ星

テレビのチャンネルを変えたくなる時といえば、お色気シーンと相場が決まっている。
今、「流れ星」というお笑いの人が面白いギャグをやるということになったため、チャンネルを変えた時にそう思った。
お色気がトリガーでなくて申し訳ないのだが、ところで僕が別に「流れ星」のことが嫌いであるとか、ギャグが面白くないとかは思っていない。
むしろ思い出すのが、「なんとかレッドカーペット」みたいな昔の番組で、だんとつに面白いことをやっていたことだ。
それがどんなことだったか、あれから今までいったい何をしていたのか。
それはわからないのだが、とにかく面白いことをやっていたことだけ印象にある。
そんな流れ星だ。
で、話を戻すと「テレビのチャンネル」のくだりなのだが、こんな感じではないだろうか。
1位 砂嵐になってしまい、他のチャンネルもそうなのかと確かめたくなる時
2位 正義の味方が一時的に疑われてしまうとき
3位 どんなに待っても貞子が出てこない井戸の映像が続くので、画面が焼け付くのを恐れた時
4位 テレビとゲームを両立させたい時
5位 「カメラのフラッシュに注意してください」とテロップが流れるが、そのフラッシュ量が著しい時
いっけねお色気忘れてた。
もう、これからはテレビのお色気は正座してみることにする。