ステータシー

先日、人気駄菓子ランキングのようなものがテレビでやっていたのだが、やはり「おなじみの駄菓子を食べていないステータス」というのは強い。
以前も似たようなことを触れてはいるのだ。
「経験がない」ということが貴重であることもあると。
駄菓子の場合。
「えーうまい棒食べた事ないの?」は、飲み会で30分持たせる効果がある。
オーソドックスな味の説明から定番、ちょっとユニークなものへの派生、食べ方。
それぞれが周りの人分の意見があるので、そのくらい持つのだ。
ドラクエでいうスカラみたいなもので、数ターン防御力が上がるようなものである。
ゲームの場合。
「えードラクエやった事ないの?」は、新宿ー立川間を持たせる効果がある。
ドラクエ1での質素なシステムから、初のパーティプレイである2。
行列問題を生んだ3から最近の10がWiiで出ることなど、そのくらい持つのだ。
オールスター感謝祭でいう赤坂5丁目ミニマラソンみたいなもので、心臓破りの坂のあるマラソンが十数分放送されるようなものである。
テレビの場合。
「えーオールスター感謝祭見たことないの?」は、僕もそれほど見た事ないなの心境。

たて

昨日書いていた「炊きたて」、あるいは以前触れた事もあるような気もする「挽きたて」。
ともかく「たて」という言葉は様々なものにつき、単に「やった直後」以上の意味を持つ。
「わーこのお肉、焼きたてだー」
「わーこのお肉、焼いた直後だー」
「やった直後」以上の意味を持つ。
となると、じゃあどんな言葉につくといいのかという同ブログおなじみの仕組みにたどり着くのであって、それは非常に気分が楽だ。
どう楽かというと、例えば明日必要なパスポートを、部屋の中で探しているとしよう。
それはなかなか見つからないのだが、内心は「あそこにありそうだ」となんとなく予想が立っている状態なのである。
そのため、それほど見つからないことが切迫していない。
もちろんすぐに予想場所を探すべきだという考え方もあるが、一方では最後の切り札として残しておくことで見つからないことにあせらない効果というのもある。
とここまで考えて、今のパスポートのくだりが当初の目的である「おなじみの仕組み」とちょっと違うことに気づいた。
「最後の切り札」がない。
それほどパンチのあるものは、ひらめいていない。
こう宣言してしまうと、もはやひとつたりとも例を挙げる訳には行かない。
こんな感じでは、何を挙げようとも好転する事はないと知っているからである。
あ、でも今の「ひらめきたて」ってのはちょっとおもろい。
そりゃそうだよね、っていう感じだ。
「さぼりたて」ってのもいい。
判断難しそうなところがいい。
「ねらいたて」ってのもいい。
「一目惚れ」みたいなものなのだろうか。
「罠しかけたて」ってのはどうだろう。
罠しかけたてなのに、獲物がかかったよ、とかか。
「おじぎしたて」はどうだ。
「あそびたて」は何だか不穏だ。
「太りたて」は薬物か何かか。
まあ、切り札とは言えなくても。

おにぎり。

おにぎりには、夫婦関係のように色々な形がある。
ごめんね粗相。
ともかく、そこから「人間の手の器用さを表している」と言ってみたかった。
そして赤ちゃんに粘土のような、可変なものを渡した時、まずどんな形にするのか。
ぐちゃぐちゃは考慮に入れないとして、人が一番「作りたがるもの」というものを考えてみようと思っていた。
しかしおにぎりの形はもう、そんな根源的なものを語る上では、あまりに世間慣れしてしまっていることに気づいた。
要は、落としても転がらないようにの三角形。
要望や技術がふんだんに詰まった結果の形なのである。
おそらく、おにぎり誕生当時は、転がって転がって大変だったはずだ。
それを改善した。
ドアが自動に開いたり、トイレがお尻を洗ってくれたり。
それらはおにぎりの三角形の延長線上に存在しているわけだ。
そう考えると、三角形のおにぎりはちょっとかわいくない。
じゃあ俵型のおにぎりはどうなのだろう。
転がり上等なのだろう。
近くに塩湖や、炊きたてお米が広がる高原はなかっただろうか。

整列

かめを飼い始めたのだが、かめを調べている上で気になる事がいくつかあった。
販売しているサイトを見ると、通販が可能とある。
かめが通販というのも驚くべき事だが、それよりもかめの写真が気になった。
「かめは複数いる時、きれいに並べられてしまう」
これはかなり多くのサイトで見られたものである。
特に子がめは小さいためか、手のひらや砂利の上に、きれいに並べられてしまっている。
これはねこがトカゲでじゃれるような、シャチがオタリアで遊ぶような。
被害側としては「せめて、遊んでないでさっさと食べてくれよ」くらいの事柄なのではないだろうか。
子がめとしてはもう覚悟ができているのだろう。
ほぼ例外なく並べられたかめたちは引っ込んでいる。
しかし実際は並べられているだけ。
その覚悟を、彼らはどこに持っていけばいいのだろうか。

撫牛、同物同治。

前提:
恋煩いを治す方法が発見されたとか。
=====
「痴漢行為を行ったとして逮捕された石田容疑者は、調べに対し「痴漢ではない。恋煩いを治すため、同じ所をなでたに過ぎない」と供述、犯行を否認しています」
=====
-「最近、彼女のことを考えると胸が熱くなり眠れないんです」
医者「人類学の観点、薬学の観点どちらにせよ、とりあえずは猟奇的な行為に走るのはお勧めできませんから」

かめを飼う

先日、かめを飼いたいなと記載した。
様々なサイトを参考にさせていただき、丈夫で小さいミシシッピニオイガメというかめを飼う事にした。
1ヶ月ほどの準備を経て、購入したのが1ヶ月前くらいだ。
温和な性格だということで、2匹を60cm水槽に泳がせている。
甲長は3cmくらいで、見た目はかなり小さい。
しかしえさをよく食べてくれるので助かる。
名前はバルスとゴリアテにした。
小さくてかわいいかめなので、名前だけでも強そうにしてみた。
かめのことを調べていて気になる事があった。
肥満に注意しようとあるのだが、それはどう判断すればよいのだろうか。
甲羅から少し肉がだぶついてしまったら肥満。
そう書いてあるサイトがあった。
バルスもゴリアテも、見ようによっては肉がだぶついているようにも見える。
購入したお店で、少し餌を多くもらっていたのだろうか。
確かに、甲羅から肉がだぶついてはみ出るというのは、かめとしてはあまりに油断しすぎている。
中からクリームがとろーりみたいなことになっている。
しかし彼らは、既に人に慣れており、家族が水槽付近を通るたびに大騒ぎする。
餌をくれと言っているのだ。
肥満は怖いが、これだけ大騒ぎするのだから餌が足りないのではないか。
ここで餌を与えるかどうかは悩みどころ。
仕方ないので、あげるときは「バルス」とつぶやきながら与える事にしている。

クリーブランド

うそ旅のスタンスについて
「クリーブランド前」
バスから降りると、ニッチョン像の周りに咲いている花がまず目についた。
クリーブランドはオハイオ州最大の農業の町として、アメリカ全土にその名前を知られている。
ニッチョンはその立役者として、町の人に親しまれているのがよくわかる。
1924年、特産品であるホワイトアスパラがまれに見る不作。
そのとき代替品を産み出したのがニッチョンだった。
ニッチョンは普通の男の子だったが、左手がフォークだった。
そのフォークで畑を耕し、わらを運び、そろばんをはじき。
現在、彼が作り出したスナップエンドウはホワイトアスパラと肩を並べるほど、有名。
フォークがすり切れてスプーンのようになってしまっている像は、地元の人の誇りでもあるのだ。
ニッチョン像を横切り、大通りに沿って歩く。
それほど高い建物はないので空がよく見えるし、なんとなくのんびりした雰囲気だ。
そんなことを思っていると、その通りの袋小路に奇妙な三角形の池があることに気づいた。
その角のひとつは噴水が隣接していて、びちょびちょだ。
なるほど。
昼ののんびりした時間を池近くで過ごす人たちにとって、残りのふた角は座りやすい格好のポイントなのだろう。
角には老人が折り重なって座っている。
池の中でも、タニシが角に詰まっていた。
池の横に狭い道がある。
幾何学的な形をした石畳を進んでいくと、民家がいくつか集まっている場所に出た。
ほとんどが茶色をした家材、石で作られているため、その集落全体がひとつに風化物のように見える。
窓やポストがむしろ無理矢理押し込められたように見えて、奇妙だ。
おそらく夕方は、目も開けていられないほどの赤に、染まりそうな場所だ。
その家のひとつから、ナイル側上流に住む民族のおみやげのお面みたいなおばさんが出てきた。
見た目は怖いが、こちらに気づく事なく洗濯物を収納していく。
ふと、こちらに目をやるとにこり、こんなところまでよく来たねと笑いかけてくれる。
でも、ごめんなさい。
これ、うそなんです。
僕は石畳を引き返した。

うそ旅のスタンスについて

残念なことに、たいていの人にとって「旅に出たいわー」と思った時、旅には出られない状況である事が多い。
あとさきを考え過ぎ?。
いやいやそういうことではなく、根本的な解決にならないことを知っているからである。
と、ここまでは逃避の意味で使われる「旅」であって。
そんな意味ではない「旅」に出たいときだってままある。
僕はよく、前に行った場所にもう一度行きたいと考える事がある。
前に見たものがあるのかどうか、確認したくなるのだ。
しかし、やはり残念なことに、そんな「旅」であっても実現しない事が多い。
面倒くさいから、実行までたどり着かないのである。
「うそ旅」では、ある土地に行った気分になり、その状況をレポートすることを考えている。
センスのいい旅番組や旅情をふんだんに取り入れた小説エッセイは、その場所へ行った気分にさせるものである。
また、ある場所の名物や名所、歴史に触れるのは旅の楽しみのひとつである。
そんな感じを、うそ。
行っているらしい感じもうそであるし、レポートはすべてうそ。
うそでいってみようと思う。
うそだから、面倒くさくない。
いや、そうでもないか。
ただし、土地名以外はほぼ無知な場所について記載するつもりであるため、極めて低い確率で微妙に本当の事を書いてしまうかもしれない。
まあ、純度の高いうそというのはそういうものだよネ。
実際喋るときに、はたして「そういうものだよね」と「そういうものだよネ」は言い分けられるのだろうか。
そんなことを考えつつ、僕はうそ旅に出るため夜中の窓を開ける。

万能感

学校あるいは仕事で朝早く起き、通学通勤。
目的地に到着した時、初めてその日が休みだった事に気づく。
僕は休日に疎いのでよくあるのだが、このときの万能感と言ったらない。
本日がそれだったため、もう大変だ。
まず、めがねを買った。
全然予定にないのに、めがねを買った。
本も買った。
まだ元気なので、爬虫類屋さんに行く事にした。
今10時だが、開店が14時らしいので行けない。
っていうか、まだ10時なのに遊べるんだ!!。
さらに万能になった僕は、お好み焼きを食べる事にした。
ついでに豚肉をたまごで包んだ「とんぺい焼き」も食べる事にし、万能なのでさらに焼きそばも食べた。
ハイボールを飲んで、コーラも飲んだ。
昼間に酒を飲む背徳感。
この、背徳感を得るために費やした「一見まじめ生活」が、やっと功を奏した気になる。
店の人が「お客さんよく食べますね」と言った。
そして「自分なんかお好み焼きと少しでいいっスよ」。
お前の胃キャパシティなぞ知らぬ。
こちとら万能なのだ。
この鉄板でお前の顔を焼いてやろうか!!。
でも彼の焼いてくれたお好み焼きは、とても万能だった。

幻想動物生態・リュウグウノツカイ

完全憶測で、いるんだかいないんだかよくわからん生物を紹介する。
◆リュウグウノツカイ
和名:
リュウグウノツカイ
生息地:

リュウグウノツカイは多くの歴史小説、文献などで知られるように、海洋上に現れる怪物の、少なくとも正体のひとつである。
その奇妙な体型、赤い触覚みたいなものもさることながら、数メートルにもなる体長は「巨大ウミヘビ」として目撃された事を伺わせる。
また、ニシンを率いて現れるという伝説から「ニシンの王」と呼ばれる。
ともかく、その特異さが目立つ魚類である。
さて近年、このリュウグウノツカイが浅い海域に頻繁に出現していることが、ニュースで取り上げられている。
このことを地殻変動による地震の前触れであるとか、もっと大まかに災害の前兆ではないかと心配する声も多い。
しかし、リュウグウノツカイ研究家達の間では、また別の議論が行われている。
それは「上がってきたリュウグウノツカイは弱っている」という点についての議論である。
事実、浅瀬に上がってきたために捕獲されたリュウグウノツカイは弱っている。
また、既に息絶え、死骸となって海上を漂うことも多いという。
この点について、一般的な理由は「むしろ弱ってしまったから浅瀬に流されてしまったのではないか」というものだ。
一方、研究家の大多数が挙げる問題点は驚くべきものだ。
「弱っていたら使いとしての役割を果たせないではないか」
すなわち、竜宮の使いであるならば該当者を竜宮へ案内しなければならないのに、弱っていてはそれができない、という問題である。
私たち日本人には、浦島太郎の話が血に溶けて流れている。
使いとはいえ、それは竜宮へ連れていくばかりではない。
何かを伝えようとするための使いなのではないだろうか。
研究家達はこのことを考慮しても、弱っているのは重大な問題であると指摘する。
「リュウグウノツカイが、竜宮へ連れていくための使いであるなら、そんな弱っているやつをよこす竜宮に対して、我々は挑発されていると言っても過言ではない」
「一方、竜宮から何かの情報を伝えるための使いであるなら、それはマラトンから走ってきた兵士と同様。竜宮で何か事件的なことが起こったと考えられる」
彼らはこう締めくくる。
「どちらにせよ、我々はリュウグウノツカイを竜宮の使いとは認めたくないものである」