親への介入

全然関係ないけど「生みの親より育ての親」って、もちろん意味はそうでないんだろうけど、ここでの「親」って「母親」になるような気がする。
「生みの親」ってところがね、どうしても。
これだけに着目すると、父というものは、実は親でないと言える。
寂しい。
たしか、三千里探されるに値しているのは母だしな。
なあ、父よ。
・・・なあ、父よ。
寂しさをバネにして、それにどうしても親たりえたいか。
産雄性単為生殖上等か。
後者はよくわからないが、とにかく親たりえたいのなら、冒頭のようなことわざを新たに開発、親としての父を示せたりするといいかもしんない。
「父の背中より他人の背中」
冒頭の「生みの親より・・・」の父バージョン。
かなり寂しい。
いちおう親というものはね、というきっかけにはなりそうだが、一方で「生み」という最高レベル生命の神秘に父が対抗できるものは「背中」くらいだということが分かった。
なお、見た目似たものに「父の背中より新潮文庫」や「父の背中よりガイアの夜明け」などがあり、これらは親観点とすると全然親になれてない。
「父の子は父」
「かえるの子はかえる」という親っぷりがなかなかのことわざを持ち出してみた。
親どうこうもあるが、それよりも子は父のことが嫌いになるだろうことが心配。
「父の心子知らず」
それをどうにかしようという今回。
「父の居ぬ間に洗濯」
完全に加齢臭問題が背景にあり、親の権利獲得にはほど遠い。
「鉄道員(ぽっぽや)(父)」
男親としての感じはいいのだが、かっこが多い上、「ぽっぽや」が「ぱっぱや」だったらすごく面白そうな事が今分かってしまったため、威厳の点で親としては難しい。
「父の目がテン!」
理想の父親ランキングにたいてい入るらしい所ジョージ氏にあやかってみた。
もちろん親のどうこうのことは考えておらず、聞いても「へえ」としか言えないような「父の目がテン!」。
いいんじゃないでしょうか。
類似に「父のまもるもせめるも」「父が笑ってコラえて」があり、前者は忌野清志郎の「パパの歌」、後者は日曜日の父像そのものである。
意外にも、これらが親としての父を考える上で結構いいモデルとなりそうなことが分かった。
よかった。

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