志村けんのものまね練習について

別にものまねの何かを目指しているわけではないが、「この声は○○に似ている」「このしぐさは○○に似ている」みたいなことを考える傾向が少なからずある。
ということで結論としては「いままで志村けんのものまねに注目していませんでした」。
そんなに難しくないと思っていた。
けん扮する老婆がものを聞き取れないという、やりとり。
簡単だと思っていた。
試しにやってみた。
すると、ぜんぜん似てなさそうなのである。
ちょっと微調整を加えてみた。
だめだ。
あんなにも特徴があるのに、うまくいかない。
なぜなんだ。
そしてさらにこのとき、下手するとその練習ものまねよりも重要なことがわかった。
「ものまねの練習は恥ずかしい」
おそらく、そのものまねが一般的に簡単と思われているものほど、その恥ずかしさの程度は高い。
見られたものではないし、もちろん見られたくもない。
あの人、いま志村けんのものまね練習してるんですって。
そんなレッテルを貼られかねない。
いやだ。
あの人、今カレーの練習してるんですって。
これと似ている。
ただルーを入れればいいんじゃないか。
入れるとき、熱湯がはねたりして大変なんだぞ!!
なに言ってんだ。
そのように、カレーの作れない人は言うだろう。
ただ声色を変えて、聞き取れないふりをすればいいんじゃないか。
おまえもやってみればいい。思いのほか、けんにはなりきるのは大変なんだぞ!!
あに言ってんだぁーあ。
今の僕はそう言うだろう。

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