変化に、ざわめく。

台風で雨風が強い。
そんなときに川の様子を見に行く人がいる。
危険なので行ってはだめだ。
でも、川の近くに住んでいる人の場合、川の水位が上昇していくことは気になって仕方ないはずだ。
やはり、水位を確認しに川へ向かって事故にあってしまったりするのだろうか。
台風は去った。やたら晴れている。
すると、人々は川を見に来る。
住んでいる場所に関係なく、来る。
まだ川の水位は下がっておらず、危険だというのに。
この行動は多くの場合「興味本位で」という言葉で片付けられる。
なぜ台風後の川に興味を持ってしまうのだろうか。
おそらくそれは「いつもと違う感じになった」からだ。
いくら川辺が荒れ果てて、かなりのスペクタクルになっていたとしても、それがいつもの風景であるなら、人は興味など持たない。
いつもと違ってしまったから、興味を持つのだ。
量子力学では、例えばある電子を観察したい場合、それに他の電子などをぶつけなくてはならないという。
観察対象を変化させなくては測定ができないのだ。
あるタンパク質の構成成分を調べる際、そのタンパク質をぶち壊す方法がある。
これも、上記と同じことが言える。
注目している遺伝子を変化させて、オリジナルとの差異を見てみる、という実験もあるようだ。
これも、しかり。
世の中には、変化がおきないと分からないものがあるようだ。
今までの風景が変化してしまったことにより、それがどんな意味を持っていたのかを知るのである。
そして、その意味を再び確認するには、ほどほどの時間を要する。
もちろんそれは理系の話に限ったことではない。
例えば、国語の教科書などで見られる「森鴎外」と「石川啄木」の写真が実は間違っていて、本当は逆でした、となったとする。
両者の生き様的なことは色々あるだろうが、よく知らない。
よって、これはあくまで個人的な、両者の写真イメージからの推測になってしまうが、
・森鴎外:自分の納得できる濃さになるまで、弟子に硯を3日ほどコスコスさせていそう。
・石川啄木:下手するとシルバニアファミリーの動物達の先生として、教壇に立っていそう。
という感じ。
そして、この「写真が違っていました事件」で、我々は驚愕する。
あの写真(七:三側)の無垢っぷりさと「森鴎外」の名の重々しさの違いはなんだろうか。
あの写真(ひげ側)の人物が夢の世界の住人だったのだろうか。動物達はひげを恐れなかっただろうか。
森鴎外は死に際、「馬鹿馬鹿しい・・・」と口にしたらしい。
上記の「写真違いました事件」によって、森鴎外と石川啄木の写真イメージが融合し、混乱を招く。
そして「森鴎外はシルバニアファミリーの動物達に「馬鹿馬鹿しい・・・」と言い残しこの世を去った。」という珍想像ができたりする。
僕は、馬と鹿の気持ちを考えると忍びない。
こんなとき、やっと我々は「森鴎外の名と森鴎外の写真(本物の方)が、どれほどの意味を持っていたのか」をはじめて知ることができる。
変化がないと、森鴎外と森鴎外の写真のつながりのありがたさは、分からない。
台風のあと、川に来る人は、少しだけそんな感じのものを得るのかもしれない。

「変化に、ざわめく。」への2件のフィードバック

  1. SECRET: 0
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    >「森鴎外はシルバニアファミリーの動物達に「馬鹿馬鹿しい・・・」と言い残しこの世を去った。」
    バカウケw

  2. SECRET: 0
    PASS: 74be16979710d4c4e7c6647856088456
    そんな森鴎外の口癖は「あいつら黒目勝ちすぎるから、何考えてんのかわからん。」だったそうです。

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