スラックス

先日、スラックスの語源について触れたが、これはほぼ衣類における花言葉、「衣類言葉」と同義だと思った。
衣類は人類が、目的をもって生み出したものであるから、花言葉よりも明確かつ整合性のとれた「衣類言葉」を決めることができるだろう。

例えばアンパイアが着る、カメの腹のような奴の衣類言葉が「あなたを想う」とかでは決してないだろう。

ぎり「強い決意」「雨降って地固まる」とかであってほしいし、「硬球に対する高い防御」「対物理」とかだとだいぶ「そうだよね」と安心する。
商品のコピーに、そのまま使えそうである。

それにしても花言葉である。
その歴史は19世紀フランスから、などと調べてみるとあり、起源背景おもしろいが、やはりどこかで「何を勝手に決めているのか」「花自身がどう思っているのか、考えたことあんのか」と思ってしまう。

ネガティブな花言葉を割り当てられてしまった花もかわいそうだが、すごく良い内容のものであっても「自分そんなんじゃないし」と思っているかもしれない。
花の、花言葉へのストレスは想像を絶する。

また、花言葉の影響先をどう考えるのか、決まっているのだろうかも気になる。
例えば上記で触れた「自分そんなんじゃないし」。
「謙遜」の花言葉を持つ植物はキンモクセイだそう。
あるお宅の庭で咲いているキンモクセイを目の当たりにしたとき、我々は「このお宅の住人は謙遜しがちなのだな」と思うべきなのか、あるいは「お前は謙遜しろ」と言われているのだろうか、

ここはやはり、様々な言語でその問題を解決している方法を「花言葉」に盛り込むべきなのではないだろうか。

単語の位置や助詞だろうか。
例えばチューリップの花言葉を「私」だとすると、「チューリップの奥に咲き乱れるキンモクセイ」で「私は謙遜癖がある」とか表現することで、その影響先を示すのである。

なお「私は謙遜癖がある」という人に、本当に謙遜癖があるのか、という問題については、花言葉はその解決には関係ないはずである。
ただ、その人の庭では、「誠実」の花言葉を持つ桔梗が、枯れているのでは、と思う。

着物

先日、着物をお召しになっている方と話をする機会があった。

当方、一度も着たことは無いのだが、着衣スピードやそもそもどう着るかなど、何か難解な感じを抱いていたが、周りの人もそうなのか、その辺の話がちょいちょい出ていた。

そんな内容に、相手さんは気さくにいろいろ答えていた。
よく問われる話なのかもしれない。

そんななか、気になったのは「いつもはカジュアルな格好です」のあとの「ジーパンです」というコメントだった。

「いつもはカジュアルな格好です」というものに何か、いろいろ考えさせられた。
単なる着物着用の難易度の観点だけでなく、身バレやお高い感じを出したくない、値段から気軽に着られないなど。

そして「ジーパン」である。
そのタイミングから「着物と対極にあるもの」「カジュアルの代名詞」を表現したくて使用されたように感じた。

もちろん、それがイメージ悪い、だめとかのことではなく、衣類に、ちょうど日本酒の「甘い、辛い」「濃い、さっぱり」的な領域の区分けができることを、自身がこれまでの人生で意識していなかったことに気づかされた。

今のところ上記「カジュアルかそうでないか」の1情報しかないが、そこに例えば「甘い、辛い」観点を盛り込めるのだとしたら、xy軸のグラフのように、各衣類を切り分けることができるはずだ。

いや、衣類のグラフ軸の話で「甘い、辛い」の例はわかりづらい。
衣類で「甘い、辛い」軸を考えるのは、なんとなくだが「おすぎかピーコ」を考えさせ、最近ご病気ということで、心配である。
なお別件だが「おすぎとピーコ」は、多くの人にとっては、これまでもこれからも「おすぎかピーコ」なのではないか、と思う。

「人工素材、自然素材」あたりが、軸としてアリだろうか。

「カジュアルかそうでないか」「人工素材、自然素材か」

これは「ポリエチレン繊維性のフォーマルスーツ」みたいなものは「カジュアルでないx人工素材」という感じでイケそうである。
そして「自然素材」の最たるものは「地衣コケ類」であること、うけあいである。

ちなみに、私が一番感慨を受けたことは「いつも着物だから、いきなりジーパンというのも印象の差が激しいので、スラックスを着ていることも多い」という話だった。

この方は、何を中和しようとしているのだろうか。
いや、これは聞き手が「着物のフォーマル全振り感っぷり」「ジーパンのアウトロー感っぷり」「スラックスの中立性、日和見感っぷり」というように、自身の衣類への意識を問われているのだろうか。

そもそも「カジュアルかそうでないか」軸において、着物とジーパンの間にスラックスはいるのだろうか。
スラックスの語源が「血とオイルの臭いがする砂塵」とかだったらどうすんだこのやろう。

まったく衣類は奥が深い。

ほたて味

以前も触れたかもしれないが、「魚の形に成形したかまぼこ」は、憤りに似た何かを感じさせる。

消費者たる我々として、他者を食べることを否定するわけではないが、

「また魚の形にするんだったら、俺ら粉砕する必要あった?」

と彼らが思うのだとしたら、僕は「すいません」ということしかできない。

ところで今日、ペットフードコーナーで「かつおぶし、ほたて味」を見つけ、似た感じになった。

「俺かつおだけど、ほたて味にするんだったらかつおぶしである必要、なくない?」

もちろん、かつおぶしの部分も大いに猫の嗜好性に訴えるものがあるということはわかる、のだが。

ペットフードに対する心象がまたひとつ。

コーラ2種

些末なことなのだが、あまり「ピリ辛コロッケ」というものは聞かないな、とメモを取っていた。

なぜなのだろうか「ピリ辛」と「コロッケ」は双方人気が高いものと思われ、かつそれほど手間がかからずに用意できる。

したがって、合わせたものが試みられてもいいじゃないか、あるいは合わせてみたらとんでもなくまずくなった、とかなのだろうか。

ところで、それはもうどうでもよく、今は「ピリ辛」の「ピリ」は一体何なのだろうか、ということである。

おそらく辛さを表した擬態語である「ピリピリ」が由来なのだろうが、それが半分になって、擬態元?に引っ付く。このとき、国語的に「ピリ」は何なのか。

ピリ→国語変換→○○詞

と、ちゃんと「なんとか詞」に収まるのだろうか。また、そうなると次に気になるのが「算数変換」であって、

ピリ→算数変換→千分の一を表す

と、そりゃあミリだよと言いたくなるが「ピリメートル」というのはちょっとかわいい。こうなってくると今度は「社会変換」となり、

ピリ→社会変換→銅の採掘量世界一

と、チリと間違っているよとなりそうだが、知られたチリソースのことを考えると「チリ」で「ピリ」となったりするのでそう相性が悪いわけでもなく、間違うくらいには似ているこれらも収斂進化と言えるのかしら、と風呂上りにコーラを飲む。

悪球

だいぶ以前に「副流煙を嗅ぐのが好き」という話をしたことがあるが、これは喫煙に対してどうこう、他意はなく、ただあの香ばしいような、ただけむたいだけのような、あれが嫌いではないというだけである。

もちろんその有害さについては保健体育でちゃんと勉強した身であるから、この嗜好は褒められたものでもない気もするが、ただ香ってきたら嫌いではないくらいの、積極的でない能動副流喫煙であるから、まあ大丈夫だろう。

ところで「副流煙」というものはその毒性が注目されがちだが、特に精神的な影響については「煙を吐いた人」の要素がどれほど含まれているのかというのも、結構重要なのではないかと思う。好きな人の吐いた副流煙ならそれも気にならないという趣もいそうである。

となると、下世話な話「ストライクゾーンが広い人」は副流煙に対して、少なくとも精神的には耐性が高いといえる。

岩鬼とかね。

ざらめ

こうも暑いと気温を恨みたくもなる。

ということで値段は張るが、スタバでなにか飲みたいと、郊外の店舗へ向かうとそう思っている人の多いことか。ちょっとした渋滞が起きている。

それでも数分後にはアフォガードフラペチーノを入手して「溜飲を下げた」わけだが、こいつはとってもおいしい。

確か最初は期間限定みたいな扱いで、スタッフの人と「これもうすぐ終わっちゃうですよね」などとその別れの悲しさを共有していたりしたのだが、いつの間にか、いつもあるやつになった。

いつの間にかというと、以前の「冷たい飲み物用のフタ」のストロー入れ口は「ばってんに切れ込みがあるタイプだった。これがいつの間にか丸く切り取られていて、とってもいい。

というのも、ばってんの時はストローの可動域が微妙であったり、ばってんの切れ込みがストロー抑え込みによる負荷から解放されたとき、ピンってなって微細なアフォガードフラペチーノがはじけてべたべたになる、やっかいなものだったのである。丸に切り取られていれば、それも起きない。

このように、少しづつだが、アフォガードフラペチーノまわりの懸念、問題点は僕好みに改善されている。近く、アフォガードフラペチーノの底にたまる甘いやつが、よりストローで掻き出しやすくなる改善がなされるはずである。

死因

誰の漫画だったか。

「宇宙人にとりついている霊を見てみたい」という旨のおまけ漫画があった。

それを見たときは、ひどく欲ばりさんだなと思ったことを、「ふぐと降霊術」というメモを発見した時に思い出した。

最近書いたメモはたいがい酔っぱらっているときのものであるため、その時はともかく、今はその背景がよくわからない。

が、おそらく「ふぐを降霊した時、その後ろに中って亡くなった人の霊もついてくるのではないか」と、やはり何か欲ばりな感じのすることを考えたのだろう。

まあ、そもそも霊がどうこう、というのは置いておいても。

1.霊に霊が憑くというのは、ありなのか。なんかファイナルファンタジーのような、ゾンビに暗黒的な魔法だとむしろ回復します、みたいなことになっているのだろうか。

2.上記のふぐが恨みを持っていた場合、その救済を行うことで浄化できたのなら、ついでに憑いている亡霊もイケるのか。

3.こういう場合は逆に「中って亡くなった人の霊の後ろに、食べられたふぐが憑いている」であるのか。

などと、いろいろ考えることができて面白い。ナイスメモ。

なにより、3.については「死因の霊」という、非常に美しい言葉ができた点でも、酔った僕を評価したいところ。

におい

ふと、「嗅」という漢字は「くちのにおい」と書くことが気になった。

においは「臭い」で、「くさい」とも読める。

先日の同音異義の件もあるが、「臭い」の読み方のせいで「におい=くさい」と感じてしまう輩は多いのではないか。

そうではない、「いいにおい」もあるだろうに、そちらは「匂い」と書くのであって、これまた「いやなにおい」の「臭い」と同じ読み方である。

ここはひとつ「悪臭も適度に薄まると、いいにおいに感じる」という、どこかで聞いたような話をヒントに、♯と♭で「におい」のあいまいさを払しょくできないだろうか。

すなわち「におい♯」とすることで、においが半音上がる、というか強くなるということで、「くさい」を表現する。何事も強すぎるとよくないということであり、新宿とかでは街角のところどころに「におい♯」ゾーンが存在する。

とまあ、ただ「♯」の特性を面白くしてみたい、ということでもあるのだ。

本当は「くちのにおい」の流れからポリデントに行ったり、呼気に含まれる成分検知できるよう訓練された犬によって、ある種の病気の早期発見ができるかもという話があったり、紆余曲折を経て、なぜ「嗅ぐ」の「臭」は犬なのか、という話を書こうと思ったのに。でも「♯」。

生卵♯は果たしてゆで卵と考えていいのか。ゆで卵♯は味付け卵か、あるいはちょっと変わってピータンか、バロットか。

一方、生卵♯は「育った時、コケコッコーが半音高い」という考え方もあるし、バロット♯はひよこそのものです、なんてのも気が利いている。

気が利いているってことはないか。

せめて義父で。

好きな曲の一つに、相対性理論の「救心」というものがある。

このタイトルのつけ方が許されるのであるなら、不治の病と方々で言われている例のやつが、救心で治せるのかしら。

あるいは吊り橋へ行く前に予防薬として効果があるのか、はたまたそもそも「救心」って名前、なかなか良くない?など、こうしてみると気づかされることが多々あるが、今回注目したいのは最近、日の出ているときは暑いくらいだが、夜は意外に冷えることや、こう夜に書きごとをしていると森から聞こえるぎゃっ、ぎゃっという何かの鳴き声ではなくそう、「救心」の歌詞に出てくる「いますぐ神父を捜しに行くわ」の部分である。

別に、曲を聴いたときに勘違いをしたわけではない。

ないのだが、最初に聞いたとき、ふと同音異義語である「新婦」が思い出されてしまった。

おそらく、「新婦」「神父」という言葉に触れるのが、まず友人の結婚式であり、それらを目の当たりにしているので、その違いが一目瞭然、気にならないが、一方で曲として唐突に「しんぷ」とくると、さてどちらだろうと一瞬くらいは迷うことになったからなのだと思う。

それにしても、なぜ日本のブライダル業界は「同カテゴリに間違っちゃいけない同音異義語がある」ことを許しているのだろう、怠慢にもほどがある、と憤りを覚えたのだった。(あやつら、絶対隠語として「新婦」と「神父」に別名をつけているに違いない)

アナウンスで「新郎神父の入場です」。

まぎらわしい。神父の何割かは、このフレーズのせいで式場への入場に気を付けていると思う。いや、そもそも神父は式場には来ないだろうという向きもあると思うが、新婦のお父さんが神父だったりすると、わからないぞ。

「新郎と神父がキス」。

わかっている。誰が勘違いするんだ、わかっている。でも、とらえられなくもないじゃないか。この同音異義語のせいで、仮に1パーセントの新郎が「しんぷ」を間違ってしまった場合、日本の100組夫婦中1組が「一夫一父制」を形成してしまっていることに驚きを隠せない。

99組夫婦と、1組に夫父であるわけで、ちょっと「1組の夫父」ってのが、おもろいんじゃないかと思いますがいかがでしょうか。

8人目の小人が宿る

何かで書いた気がするのが気がかりだが。

「あわてんぼうのサンタクロース」を11月に流すお店のセンスは、すごくいいと思う。

あわてんぼう感が出ている。ひと月というのは、あわてんぼうさがちょうどいい気もするし。

しかしよく考えてみると、では12月の20日くらいだっただらどうかというと、当日が近いがゆえのあわてんぼうさが感じ取れるし、下手すると当日であっても「いやいや出番は夜なんじゃない?」と、やはり初々しいあわてんぼうさが得られる。

となると翌日の26日は?となるが、さすがにBGM変え忘れたんだろうという反面、来年のクリスマスに対する意気込みが感じられ、既にサンタもおもちゃ屋もバフがかかっている感じが出て、あわてんぼうの片鱗が出てよい。

結局、いつでも良いみたいなのだ、あわてんぼうなのは。

それに、主に商業的なものにはなるが、このおかげで「恩恵のある期間が長くなる」というのなら、「あわてんぼうの獅子舞」や「あわてんぼうの気象庁の職員」など、あわてんぼうの用法を正月や花見にも用いたらいいのではないだろうか。

ぱっと「代表者」がいないイベントはどうなるだろうと思ったが、例えば「あわてんぼうのあなたに用意した、一足先のチョコレートキャンペーン」とかでいいだろう。

また、その前の月の代表者を巻き込む手口もある。12月とかに、もうサンタにチョコレートを持たせたったらいいのである。

そしてもうお気づきだろうが、このような考えはもう、あわてんぼうだけのものではない。寝坊したサンタクロースからの贈り物イベントは1月でよいし、繁忙期でない月は、怒りに任せたゲリライベントを開催してもいい。くしゃみ対策は春、秋の花粉症シーズン、冬の風邪シーズンとその時期に困ることはない。

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それでも思いつかないなら、物知りにでも聞いてやれと、もう何も言わないでも、わかるな?