昨日からのつづき。
【あらすじ】
どんなセンテンスにも、その最後に「人生いろいろである」をつけると、すばらしく完結してしまう。
でも、気になることが。
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人生いろいろの付加による、文章のおわりっぷりは、見事である。
「はっはっは、見ろ!!。人がゴミのようだ!!。人生いろいろである。(ムスカ 天空の城ラピュタ)」
見事だ。
しかし、気になることもある。
それは「見事すぎ」。
それだけ。
でも、ちょっとスマートすぎる。
こういうのは、ちょっとズレていたり、物事をひっくり返すようなものがあると、それはそれでいい感じになることを、僕は体得している。
そんなことを考えていたとき、なかなかいいのでは、と思うヤツが浮かんだ。
「でも、やっぱり猫が好き」である。
前日の例に、使ってみよう。
「春風に乱れる髪を押さえていたのは、僕が話しかけてしまった女だった。でも、やっぱり猫が好き。(吉田修一 パークライフ)」
「丸大豆醤油50%使用。まろやかで、こんがり香ばしい。でも、やっぱり猫が好き。(ハウス とんがりcorn)」
「スピーカーから、小さな音でビートルズの『ノルウェイの森』が流れ出した。でも、やっぱり猫が好き。(村上春樹 ノルウェイの森)」
「はっはっは、見ろ!!。人がゴミのようだ!!。でも、やっぱり猫が好き。(ムスカ 天空の城ラピュタ)」
ちょっとどころではなくズレているものもあるが、どうだろう。
もう、「そうなんだー好きなんだー」としか言えないじゃないか。
天然でこのような、まとまりそうなものをひっくり返すようなことを言える人はすごいが、周りは少し疲れるだろう。
意図的にそういうのを使える人がいたら、惚れるね。
いろいろ 1
宮沢章夫氏の本に「人生いろいろという言葉の、文章を終わらせるちから」が載せられていた。
僕もその効果に着目し、なんとなく気にしていた言葉だった。
その本は、その終わらせっぷりを明確に指摘していて楽しかった。
人生いろいろ。
そう。
それは、文章を完結させるちからを持つ言葉。
ちょっと、適当なセンテンスに人生いろいろを使ってみよう。
「春風に乱れる髪を押さえていたのは、僕が話しかけてしまった女だった。人生いろいろである。(吉田修一 パークライフ)」
「丸大豆醤油50%使用。まろやかで、こんがり香ばしい。人生いろいろである。(ハウス とんがりcorn)」
「スピーカーから、小さな音でビートルズの『ノルウェイの森』が流れ出した。人生いろいろである。(村上春樹 ノルウェイの森)」
今、「とんがりcorn」のパッケージに表記されている「c」の大きさが微妙で、大文字なのか小文字なのか、すごく気になっているが、とりあえずこの完結っぷりはどうだ。
既存のもので例えを記したこと、罪悪感が無いわけではないが、それにしても、人生いろいろによって、完結されてしまっている。
すごいぜ、人生いろいろ。
まぁ、詳細はその本でも見て。
明日はこの完結っぷりについて、気になっていることがあるので、それを書く。
※ちなみに、今回挙げたモノは、絶賛発売中なので、これにてごめんなさいである。
何か、セガール的な。
僕のメモに「は棄された試験管ベイビー」と書かれているのですが、これが何なのか、全く思い出せません。
僕のことだから、なんやわからんけど面白く感じたものをメモっているはずなのです。
でも、今見ると、そこからどんなドラマが展開されるのかはいくつかできそうですが、そのほとんどは、面白くはないのです。
ぎりぎり面白くなりそうなのが、以下2つ。
◆破棄された試験管が洗濯中のおばあさんのもとに・・・、という感じ。
こう書いている間にもぎりぎりラインをオーバーしてしまいました。
◆実は書き間違いで、本当は「拉致された試験官ネイビー」で、なにか、空母をめぐる的で、軍の不正的な、何かがスペクタクルな感じ。
この人、海軍でネイビーなんて名前だったとしたら、ずいぶんいぢられただろうな。
それにしても僕。
「は棄」の「は」が、わからなかったか。
確かに最近、漢字とは疎い関係だ。
DSでもやるか。
知恵
多くの代謝機能や器官のはたらきが歳を経るにつれ、衰えゆくなか、「永続して発達する器官、知恵袋」はかなり特異な存在である。
その発達は女性に顕著で、高齢になると、外見からもその発達が見て取れるほどになる。
昨今、老女の変死が相次いだ。
調査を行ったところ、肥大した知恵袋に牛乳パックやハンガーが詰まっていたことが判明した。
やさしい報告。
アニメや小説は、景気よく大事故が起こったりする。
もちろんそれはその物語上、必要であるから起こるのであって、そうでないものはあまりないだろう。
落ちこぼれ学生達が、鳥人間コンテスト優勝を目指す。
しかし、会場に向かう途中、橋げた落下の大惨事が!!。
「な、なぜこんなことに・・・。」
物語とその作者に問いかけたい人、急増である。
ところで、そんなシーンについて、例えば現場の記者がこんなフレーズを使うことがある。
「さいわい死傷者ゼロのですが?。」
物語上、その事故の死傷者数が最重要キーになっていることはほとんど無いはずである。
しかし、記者は紙面もしくは放送時間を割き、言った。
「さいわい死傷者ゼロのですが?。」
記者が言った、ということ。
それは作者がそう言わせたのであって、その意図は「事故はあったが、物語とはいえ、死者を出したくなかった。」に他ならない。
物語進行に対する影響はさておき。
ちょっと、作者のやさしさを感じるのである。
耳障りノイズ
車を運転中、何か物音がしたら「あれっ、何かにぶつけちゃった?」と思い、あせる。
なんでそう思ってしまうのか。
例えばその物音が、何かが落ちたような、明らかに車とぶつかったようなものでなくとも。
「あれっ、何かにぶつけちゃって、そのはずみで何かが落ちた?」となってしまう。
なぜかぶつかった気満々なのである。
イヤホンで音楽を聴きながら、めしを食ってみる。
もう音楽どころではなく、くっちゃくっちゃである。
イヤホンを外せばいい話なのだが、音楽も聴きたい。
でも、音楽がくっちゃくっちゃに勝てたためしは、ない。
この世には音があふれているが、その中で耳を触るのはほとんど雑音だ。
上記の2つもそう。
だがそんな雑音は、結局は僕の性格や行動ありきで生じているものが多いので、どうにも困るのである。
2次会は何故花見に。
ある飲み会に遅れてしまった。
「もう、2次会始まるくらいじゃない?」
一緒だった人と、そんなことを喋っていた。
「ところで、2次会がなぜか花見だったら、どうする?」
暇なので、そんな憶測をしてみた。
この話は、花見のシーズンのころだったのだ。
「なんだかんだいって、まだ寒いよね。」
「そもそも、なんで2次会が花見に?。」
僕が思うに、どこも居酒屋がとれなくて、後はもう屋外かマクドナルドか、くらいの状態だったのでは、と思う。
これでは、マクドナルドに迷惑をかけるわけにもいかないので、花見を選択するだろう。
ただし、2次会に関する選択肢に「2次会を行わない」があるのに、花見が選択されてしまった理由は気になるところだ。
「だるいよ。帰ろ。」
このフレーズさえ、誰かが発すれば、みんな帰ることができたのかもしれないのに。
・・・どうやら、だるさよりも今年の桜がきれいだったことが強かったのだろう。
はれて、その人との間では、2次会は花見となった。
可燃
僕の住む町には消防団のようなものがあり、消防署ほどではない、分署のような建物がいくつかある。
その、専用車両を止めるガレージのシャッターには大きく「○○市」と書かれているのだが、何故かその字体が「燃えている感」を前面に出したものになっている。
・・・燃やすなや。
怪女
口裂け女に続く怪女あらわる!!。
【戦慄!! ポーチぎゅうぎゅう女!!】
わたし、いつも見えてしまうんです。
通勤ラッシュの電車内で。
その女は、いつもポーチを持ってるんですが、そのポーチが、いつもぱっつんぱっつんなんです。
何をそんなにいれることがあるのかな、って。
そんなにぎゅうぎゅうなら、もう少し大き目のカバンに換えたらいいんじゃないかと思うんです。
それにしても、いつもぎゅうぎゅうなんです!!。
誰だって、ぎゅうぎゅうのときくらいはあるじゃないですか。
でも、いつもなんです。
さすがにいつもじゃ、生理的にいやなんです。
そのポーチ、もうビーズの飾りが取れかかってきていて・・・。
わたしは内容物の入れすぎが原因じゃないかって、思ってるんです・・・。
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何が入っているかを考えると、恐怖をおぼえる話である。
このように、一見何の変哲もない日常に、恐怖は存在しているのである。
あなたはその恐怖に、気付かないことだ。
さもないと、あなたのポーチがぎゅうぎゅうにされているかも、し・れ・な・い・・・。
※ちなみに冒頭「口裂け女に続く?」は、口裂け女がずいぶん長い間がんばっていたことを表現しています。
いい話を聞いたあとには。
昨日からのつづき。
【あらすじ】
人は、いい話を聞いたときの感動度合いの自己表現としては「おー」というくらいしかない。
泣いてもいいが、多少きもい。
何かいい「わたしは今、感動しています」表現はないだろうか。
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そんな表現方法は、作ってしまって流行ってしまえばいいのだ。
たぶん、悲しいときに泣くことだって、最初は流行ってなかったのだ。
誰かが「俺は今、すごく悲しいんだ、を表現したい!!」と思い、彼は下まぶたに針をぐりぐりし、そこから液体を流した。
それが大ブレイクし、今日の「涙」に至ったに違いない。
(ブレイク寸前までは、人間に涙を分泌するための器官は存在しなかったという、信頼できる口頭伝承あり)
・・・2つばかり、考えてみた。
※シチュ
「いい話」系番組で、話の再現が終了後、映像がスタジオに戻ってきたシーン。
◆びんぼうゆすり
びんごうゆすりの度合いが、そのまま「感動している」パラメータとなる。
「それから、その坂は「ミツヨのこしまがり坂」と呼ばれるようになったとさ。」
スタジオに戻ると、すごくカタカタ言っているのだ。みな、感動している。
このやり方のいいところは、感動度合いがかなり定量化されており、客観的にそれがわかること。
「あ、あの人、両足のみならず、両手の指もゆすっている!!」
だいぶ、である。
ただ、これが採用されるためには「びんぼうゆすり」という言葉をどうにかしなくてはならないだろう。
改名いちおしは「こころふるえ」だ。
◆長そでをめくり上げる
そでのめくり上げ具合が、「感動している」パラメータとなる。
「待っているから、私。値札貼られても、待ってるから・・・。」
スタジオに戻ると、みな、感動のあまり、いっせいにそでをまくり始めるのだ。
このやり方も、定量的であり、わかりやすい。
名前も存在しないため、びんぼうゆすりのときのような改名も必要ない。
また、この表現方法は「あまりの感動に、鳥肌が立った」のを見せる行為の名残です、というように、あたかも既にやられてきたかのような印象を、流行りはじめに与えることができ、その点においては流行しやすい要素を含む。
名前は「そでがえし」とかか。
司会が言う。
「皆さん、だいぶそでがえしが上のほうになってきましたね?」
ところで、誰しも気になる「半そで」の扱いは、どうだろう?。
「感動しっぱなし」でいきたいところである。
そうすれば、今年の夏は去年よりも少し、アツいかもね!!。
※また、もっと定量的に表現できる方法として「へぇ?」ボタンみたいなものの、押下回数による表現方法もある。
「表現方法もある」ってのも、なんだかだけど。
まぁ、このように挙げてみたが、実践してみたくはなっただろうか。
結論
感動は、こころのなかで。