手品師がいたら、手品を見よ。

「手品師が右手を差し出したら、左手を見よ」という感じのフレーズが、なにかどこかであった。
多少なりとも、口の近くの空気を吸ったり吐いたりする人生を送ると、そういう「裏を意識する」ような考えがどうしても生まれるもの。
また、「貯金しとく」と言われてお年玉を奪われたり、今日は誰とも遊ぶ約束できなかったな、と歩いていたら自分以外の全員がつるんで遊んでいたり。
そんな体験をしていると、もう少し「裏意識っぷり」が早めに生じる。
でも、そんな裏社会を垣間見た僕でも、手品のタネは見つからない。
もちろん、手品の技術もすごいんだろうけど、なんだかんだ言って結局、僕らは右手を見てしまっているのだ。
僕は意識した。
上の例における「左手」にこそ、真理があると。
「パラマウントベッド」という、介護ベッドの会社がある。
そのCMでは、以下のようなセリフをおばあちゃんが言う。
「ぱらまうーんと、楽よ。」
何か、ベッドの下にモーターがついているのか。
ベッドが寝ている人の上半身を自動で起き上がらせてくれるため、利用者、あるいは介護者も、ともに楽、ということである。
楽なのは実に結構だ。
しかし、それだけではない。
このセリフは「手品師の両腕」技法に則しているのである。
どういうことか。
手品師で例えると、差し出した「右手」は、明らかに「うーんと、楽よ。」の部分である。
そして、一見価値のなさそうな「左手」は、「ぱらま」である。
パラマウントベッドは、意図的に「ぱらま」を隠そうとしたのだ。
それほど隠したい「ぱらま」を、堂々と社名にすら使うとは。
確信犯である。

つむじ風、舞う音も。

日曜日のテレビは、何故かゴルフが多い。
ルールとか分からないので、あまり見ないのだが、こないだ、たまたま見ていると気になることがあった。
グリーン上、選手の打ったボールが穴に落ちる瞬間、
「かんからかん」と聞こえたのである。
その音がすること自体は問題ないのだが、それを拾っているマイクはどこにあるのだろう、と思ったのだ。
もちろん、グリーン上に音声さんや、あの、大きいつくしのようなマイクは映っていなかった。
まず考えたのが、「穴の横」あたりにマイクが仕込まれているというものである。
テレビでは、ボールが穴に入ったかどうかが見づらい場合があるのかもしれない。
したがって、その世紀的瞬間を逃さぬために、穴にマイクを仕込み、視覚以外の感覚機器でもホールインスリーとかが分かるようにしたのだ。
しかし、この考えは、穴との距離が結構ある選手がボールを打った瞬間に「こつ」と聞こえたことで、再検討が必要となってしまった。
ボールが穴に落ちるときも、選手がボールを打つときも、音がひろわれた。
第一打を打つような、強いショットではないと思うので、本来の音はそんなに大きくないはずだ。
これは、選手かキャディさんがマイク係も担っていると考えて、間違いないだろう。
※ちょっと意外なところでゴルフクラブに仕込まれていることも考えられなくはないが、ボールを打つときに単三乾電池がぼろーっと出たりすると思われるので、可能性は低いだろう。
また、ボール自身にマイクもありえそうだが、ナイスショットが空中分解し、ボタン電池がきらめいた、という話は聞かないので、ありえないだろう。
でも、この「選手・キャディさんマイク所持案」にも、疑問点が残る。
選手とキャディさんの会話が、ひろわれていないのである。
いや、ひろっていても、それをうまいこと放送しないだけかもしれないが、少しくらいは「あれ、帽子変えた?」くらいの会話が聞こえたっていいではないか。
いや、たまたま僕が見たヤツでは、会話が入っていなかっただけで、いつもの放送ではバリバリ「めちゃイケ」についての会話が入っていたりするのだろうか。
当たり前かもしれないが、選手とキャディさんはそんなに喋らないのかも知れない。
打つときはなおさらだ。
うーん分からない。
もちろん、会話でなくても、独り言をマイクがひろっていてもいいのだ。
「風は、と・・・。」とか
「生きろ、生きろ、生きろ・・・」とか
「もう、20ワットだな・・・。」とか
「鈴木、間違えて逆方向にショット打て、打て・・・」とか。
もしマイクが選手に仕込まれていたとしても、独り言がこんなんばかりだったら、確かに放送しないようにするな・・・。
まぁ、結論が出ないので、アフレコということにしておく。
技術の進歩である。

「そろそろ和名で呼んでくれ」

「おっと。そんなことしたら、俺のにゃーにゃが許さないぜ。」
こんなフレーズが沸きました。
幼い子が、猫のことを「あ、にゃーにゃだ?。」とかいうと、ほほえましいものがあります。
しかし、なぜ「にゃーにゃ」なのでしょうか?。
彼、彼女らは、あるとき認識しました。
「猫はにゃーん」っていうぞ・・・。
「猫はにゃーん」っていうわ・・・。
こうして、猫と遭遇したのち、すぐに「萌え」の意識が植え付けられるのです!!。
カッコや句読点の位置って、重要ですよね。
とにかく、
猫は「にゃーん」と鳴くことを知っているがため、
「にゃーん」というやつ→「にゃーにゃ」となったらしい。
でも、僕が疑問に思うのは、なぜ「にゃー、にゃ」と呼ばれ、「にゃ、にゃー」とは呼ばれなかったか、という点です。
とりあえず分からないので、発音してみたらひらめきました。
ポイントなのは、抑揚です。
ちょっと、口に出していってほしいのですが(恥ずかしかったら、耳をふさいで、近くの人に聞いてもらうとか、録音もよし)、なんだか2回目のにゃーの方が強く発音してしまいせんか?。
そして、そのせいか、なんだか何か、迫力あるものが登場しそうな感じに。
そう、「にゃにゃー」は、ちょっとアクシデントというか、脅威というか、そんなものを感じさせるものなのです。
子供たちが猫に脅威を感じてきたならば、おそらく猫のことを「にゃにゃー」と呼び、身構えるはずなのです。
よって、子供たちが猫を「にゃーにゃ」と呼ぶことは、猫を脅威と感じていないことを示しているのです。
猫よ。
「にゃにゃーだ!!、逃げろ!!。」と呼ばれるまで、がんばれ。
もしくは、
「猫だ!!、逃げろ!!。」と呼ばれるまで、がんばれ。
もしくは、
「イエネコだ!!、逃げろ!!。」と呼ばれるまで、がんばれ。
それにしても、冒頭「俺のにゃーにゃ」が依然として解決しないのです。

ローテーション

今日が6月の26日なのに、ブログとしては6月30日。
先週の土曜日にいくつか書いたので、一挙に上げてしまったのです。
確か、いっぺんにたくさん更新よりも、ちょこちょこ更新したほうが、まぁ色々と良い、という話を聞いたことがあります。
でも、のせてしまった。
何よりも書かなくていいぶんの時間を、過去に書いた内容をもう一度見てみる時間に当てられるのがいい。
よって、ここ2?3日にカウンタが増えているのは、ぼくのせいです。
それにしても過去の僕。
我ながら、よく分からないことを書いている。
また、1週間くらい先まで書いているので、その間はせいぜい3日に1回くらい書けば、のんびり小旅行な感じなのです。
そんなに、毎日毎日うまいこと書こうとせずとも、良いのです。
と、ここで反省しなくてはならないことが出来た。
一応、今回の内容はタイトル「ローテーション」というのと「3日に1回はローテンションで」みたいなのを、「オチ」的な要素として扱う予定だったが、活字で「ローテンション」の雰囲気を出すのが以外に難しいことが分かった。
よって、「ローテンション」を持ち出す機会を失ってしまい、こんな形で「ローテンション」を連呼することになってしまった。
すまない。
あやまりついでに、もう夜だし、寝るよ。
ちなみに、なんとなく思ったのだが、ものすごく「青、黄、赤」の切り替わりが早い信号機があったなら、そいつを「ハイテーションな信号機」と呼んであげたい。

炭素源を手放さないぼくらへ

吉祥寺のとあるラーメン屋に、「栄養満点」みたいな感じのパネルが飾ってあった。
「お、ここのラーメンは栄養満点じゃないか。どれどれ。」
現代日本において、このようにのれんをくぐる人物は、どれほど存在するのだろうか。
僕は、ある話を思い出した。
昔、インスタントラーメンの袋には「スープに栄養があります。残さずお飲みください」という旨のコメントが印字されていたらしい。
しかし、現代社会では、インスタントラーメンのスープは静電気を帯びたビニール袋なみに忌み嫌われる存在である。
時間が、常識を根底から変える。
そのこと自体「常識」として、あらゆる情報源から、あるいは経験として我々は体得している。
そして、そのことに少しでも触れるとかなりの分野に飛び火し、大変だ。
高度経済成長や日本の食糧自給率、久しぶりにテレビで見て、なんとなく切なくなってしまう芸能人についてなど、様々である。
ただ、この「栄養満点」看板で僕が感じたことは、これを掲げているラーメン店側が、何を狙ったのか、というところである。
今となっては、この文句は逆説的に「スープくらいは残せ。」と言っているようにしか聞こえない。
また、「おまえらは、栄養に関してはもう危惧することはないよ。」ということも示唆していそうだ。
ここまで考えると、次はひとつ。
「おまえらは、○○に関してはまだ足らないよ。」についてである。
足りないもの。
とりあえず、僕にはいろいろ足りない。

2回目とはじめてのカンツォーネその2

昨日からの続きです。
【あらすじ】
クライミングをしている知り合いの邪魔をしよう。
競技中は壁に張り付いて、重力に逆らっている。
誰だってギリギリ状態だ。
だから、余計な事を考えさせたりするだけで、脱力させ、落とすことが期待できてしまうのだ。
<邪魔ワード集>
・「富士山」
ボルダは、つかみやすさの差はあれど、だいたい手ごろなサイズであるが、ときどき、明らかにおかしな形状をしたものもある。
そのひとつが、明らかに他のボルダよりも巨大なものであり、邪魔プロ(会員数約2名)の間では「富士山」と呼ばれるボルダである。
もちろん「富士山」もボルダのひとつなので、それを利用するシーンや、それ自身に小さなボルダがついていたりするが、とにかく利用するシーンよりもその印象の強さが光る人工物だ。
たとえば、あるレベルを挑戦していたとする。
そのルート上には、身近な「富士山」はない。
挑戦者は的確にルートを踏破していくが、ある場所で行き詰る。
張り付いているだけで精一杯だ。
そこで、それを感じ取った邪魔プロは、開口一番「よし、次は富士山ね」。
「富士山」ボルダは、はるか彼方。
残念なことに、人間は考える葦らしいので、
どうしても「届かないやん」と、少しでも考えてしまうのである。
また、一瞬でも「富士山の頂に手をかける私」を想像してしまう。
「俺は天邪鬼か!?」。
結果、落つ。
・「いい仕事」
ルートのレベルが上がるにつれ、ボルダひとつのつかみ方で踏破成功が左右される局面が増える。
挑戦者はそのような場面になると、該当するボルダを、それはもういろんな風、いろんな角度で触り、確認する。
そのときである。
邪魔プロは、そんな彼を見逃さない。
「どう?、そのボルダ、いい仕事してる?。」
・「陶芸家」
「いい仕事」の類似パターン。
ボルダのつかみ方で迷っている相手に対し、
「○○くん。陶芸家になっているよ!!。」
と心無き言葉を投げかける攻撃法である。
※高名な陶芸家を実際に挙げてもよい。
・「迷い箸」
これも上記と同様のシーンだが、こちらは主に、どのボルダに足を置けばよいのか迷うところで使用する。
「足が迷い箸になってるよ!!。」と尋ねれば、まぁ落ちるよね。
と、我流をほうっておくと、こんな感じになる。
こんなんなので、クライミングのレベルは、一向に上がらない。
さらに僕の場合、このような所業に加えて、そもそもクライミングに行く時間が少なく、時間的な間隔まで空いてしまうのだ。
僕のクライミング経験はいつも、「2回目」の次は「はじめて」になってしまうのである。

2回目とはじめてのカンツォーネ

クライミングというと、何かしら社会におけるヒエラルキーになぞらえようとする人がいるかもしれない。
でも、いたって楽しいスポーツで、たまに登りにいく。
僕がやっているのは、室内でやるもの。
壁に、ボルダとかいう人工のでっぱりが無数に取り付けられ、それを利用してゴール地点(2?3m上とかにある)を目指す。
幼少時に崖のぼりみたいなことをしたことのない人はいないと思うが、あの感覚だ。
(崖のぼりをしたことない人は、いまからでも遅くないのでやっておくように)。
※ちなみにそのボルダ、以前にも書いたが、ただ闇雲に利用すればいいというものではない。
各ボルダはレベル付けがされており、たとえばレベル1のゴールを目指そうとするなら、レベル1のボルダのみを利用しなくてはならないのだ。
逆にいうと、レベルの差はあれど、ある程度のルートが既に決められているということだ。
私はかなり我流で生きてきたので、無論クライミングも我流だ。
「無論」というのがえらそうだが、もちろんブーだ。
特に僕はクライミングにおける定石みたいなものを知らないので、時々登り中に、壁に貼り付けられた前衛的な彫刻っぽくなる。
どこぞの美術館で、雨ざらしになっていそうな感じ。
ところで、クライミングを誰かと一緒に行くとなると、どうしても勝負というものが生じる。
「このスポーツで対戦者がいるとすれば、それは己である。」
とかいう流れは他方で十分だと思うのでそちらに譲り、こちらでは相手のいる、実戦を考えてみる。
対人戦で勝負を分ける要因は、上記の「踏破レベル」だ。
たとえばレベル3を僕がやって出来なくて、その後対戦者がクリアした場合、明らかに対戦者の方が勝ちである。
このため、僕は「対戦者が登っている最中に相手の邪魔をする」という、ほにゃシップにそぐわないテクニックを身に付けた。
ただ誤解してほしくない点は、物理的な邪魔ではない、ということである。
マジックハンドで臀部を集中的に狙う。
ボルダにローションを塗っておく。
これらは、らららシップにそぐわない、というかこれからの人生を棒に振る所業であり、さすがにやらない。
邪魔は、主に「言葉」によるものである。
明日に続く。

きな粉のいいとこ

僕が、「きな粉」の持つイメージや言葉の「なにかっぷり」をうまく引き出したなと思った作品は、今のところ吉田戦車の「伝染るんです。」のみだ。
おそらく他にも「きな粉」の存在を扱ったものはあるはずだが、残念なことに知らない。
「きな粉」。
いいね。
もちろん餅との相性が抜群であるとか、何か健康面でもよさげ、というイメージもある。
しかし、ここではその存在っぷりがいい、ということを感じてほしい。
たとえば、きな粉のついた食品を食べるとき、彼らは必ずこぼれる。
波打ちぎわに立てられた砂の城なみに崩れやすい。
また、信玄餅のたれや、餅の水分をうまく加えることのできなかったきな粉は、生体から異常なまでに水分を奪う。
そして、奪い終えると同時に、咳き込ませる。
龍角散なみに咳き込ませる。
このような背景からも、きな粉は何か他の食材(水分を多く含む)と合わせて使うものである。
そうすれば上記のような危険を回避しやすくなるのだが、その反面、彼らには調味料ほどのダイナミズムを持っておらず、その存在価値が薄れると思われる。
そのくせ、店頭では堂々ときな粉だけで、大量に売られている。
最近ではその利用するシーンを考慮してか、小分けに袋詰めされた商品も売られているが、その「きな粉っぽさ」は失われていない。
また、「きな粉」はなにも食に関する場面のみに登場するものでもない。
今、僕は黒いノートパソコンを使用しているが、いくら掃除をしても、数日間でキーボード上に「きな粉」みたいなものが認められるのである。
誰だ。
きな粉餅を食べながら僕のパソコンをいじったのは。
さらに「きな粉」の存在は、その言葉自体の持つ何かに代表されると思う。
「きな粉」。
何なんだ。この感じは。
きなって何なんだ。
「キナくさい」という言葉があるが、同じ由来なのだろうか。
それともどちらかがどちらかを参照したのだろうか。
どちらにしても、どちらも「きな」なのである。
僕のように「きな粉」がなんとなく気になってしまったら。
残念な事にきな粉には何の罪はなくとも、きな粉は悪役になってしまうだろう。
一般的なほこり。
きな粉である。
クッキーの食べかす。
きな粉である。
黄砂。
きな粉である。
胞子。
きな粉である。
もし、この世から「餅」が消滅したら、きな粉は
「ほこり」であり、
「クッキーの食べかす」であり、
「黄砂」であり、
「胞子」である、とは言い過ぎだろうか。
こうも「きな粉」を罵倒し続けてきたが、僕自身は「餅には必ずきな粉」だと思っている。
尋常じゃなくおいしい。
だが、きな粉餅を作ったときに余ってしまったきな粉には。
これまた困るのである。
※小さい頃、ダンゴムシの飼い方を調べていて、彼らは「おがくず(木屑みたいなもの)」を食べるということを知った。
もしもダンゴムシをきな粉で育てたら、すごく大きくなるんじゃないかと考えているが、実行していない。

セーラーフク ト キンカジュウ

タイトルを、人間は「セーラー服と機関銃」と読む。
しかし、よく見てほしい。
「機関銃」のところが「キンカジュウ」である。
「何だそれは。」
ごもっともである。
しかし、別に「キカンジュウ」に似せるために作った意味のない言葉ではない。
「キンカジュウ」
アライグマ科の哺乳類です。
なので、タイトルは
「セーラー服とキンカジュウ」。
ところで、僕は「キンカジュウ」のことをずいぶん昔から「キカンジュウ」と読んでいました。
ごめん。「キンカジュウ」。
僕はかなりの人に「キカンジュウ」っていうすごい名前の哺乳類がいるよ、と言ってきてしまった。
悪いことした。
このようなことがあったので、皆さんは「キカンジュウ」「キンカジュウ」を見たとき、どちらがどちらであるかをちゃんと確認してほしい。
でないと、「セーラー服とキンカジュウ」。
妙なコラージュの出来上がりである。

線その3

昨日からの続きです。
【あらすじ】
「味線」を視覚的にあらわすと、ミスター味っ子だよ。
昨日というか、ぶっちゃけさっきの終わりに「皆さんも、油断していると出しちゃってるかもよ、汁。」と書いた。
今回は番外編。
線が担うものについてのんびりしてみる。
線で思いついたのは、出しちゃっていることに気づいているか、気づかれているか、という点。
視線について考えてみる。
視線は出しちゃっていると、自他共に出しちゃっていることに気づいている場合が多い。
自「最近、あの子が気になって、いつも見ちゃうなぁ。」
他「お前、あの子ばかり見てるぞ。」
ところが他の線は、こうはいかない。
自「うわー。いいにおい!!。」
他「お前、鼻からよだれが垂れてるぞ。」
自「いい曲だなぁ」
他「お前、耳から毛が出てるぞ。」
自「うん。すごくおいしい。」
他「お前、にんじん避けてるぞ。」
自「肌触りがいいな。」
他「お前、尋常じゃない手の動きだぞ。」
それぞれ、一応可能性のあるシーンだが、それぞれ「視線」のような例には当てはまらないだろう。
当たり前だが、上記のような線を出してしまったとき、鼻がそっちに角度をつけるでもなく、耳が大きくなるわけでもなく、舌がキリンみたいになるわけでもなく、後天性多指症を発症するわけでもない。
要は、これらの線は、あったとしても他人にわからないのである。
では、これらを、自覚もせずに出してしまったとしたら、どうだろうか。
自他共に気づかない、線。
こういうの、なんかで見たことないだろうか。
これが担うもの。
そう。
「赤い糸」や「運命の出会い」以外には考えられないだろう。
ただし「自分でも気づかなかったけど、心の底では、君のことが好きだったんだ・・・。」
みか「・・・わかってるよ。」
ドラマなどで見られるワンシーンである。
このとき、みかは「わかってる」そうなので、何かしらを受信できたことになる。
ただしは「気づいてなかった」そうなので、出していたものから「視線」を除外してみる。
ただしよ。
何出した?。
鼻線。
聴線。
味線。
触線。
どれが「赤い糸」「運命の出会い」の実態なのだろうか・・・?。
・・・・・・
このことから、我々が「第六感」を信じたくなる理由がわかるというものである。
線。
ノープランで終わり。
<おばあちゃんの知恵袋>
もちろん、上の2人は「互いに気づかなかった」感なのに、周りのみんなは「好き合ってるの、バレバレだったよ。」となっていたならば、答えは「視線」なのだろうが。