10002時間

【昨日からの続き】
人は10000時間費やすと、なんでもプロになれるとか。
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先日は「神社に住んでいれば初詣が10000時間達成できる」「アキレス腱をゆっっっっくり伸ばせばプロになれる」だの言っていたが、腑に落ちない気持ちで数日を過ごしてしまった。
なぜか。
それは単純に「本当に10000時間やれば、プロなのか」という点が気になり、何か足らない。
おそらく10000時間というのは必要だが十分ではない。
あともうひと観点くらいの目安が必要なのではないか。
例えば回数だ。
「初詣プロは100回訪問かつ10000時間を費やすこと」
一気にハクがつき、かつ1回あたりの時間も自ずと判明し、神社に住む、だののずるはできなくなる。
かなり計算してやらないと、寿命を迎えてしまうところが、プロたる難しいところだろう。
速度はどうか。
「アキレス腱伸ばしプロは10000時間かつ伸ばしたあとの徒競走で3位以内」
光度は?
「乾拭きプロは10000時間かつ床がピッカピカ」
どれも、より濃密に時間を費やした感が出て、いいじゃないか。
やや、プロというよりはギネスな感じがするが。
となると次は「ギネスはプロか」を考えねばならず、実は結構飽きて久しい。

10001時間

【昨日からの続き】
人は10000時間費やすと、なんでもプロになれるとか。
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前回は寝るプロのこととかを書いたが、一方でこんなことも気になった。
「人はあくびプロになれない」
あくびにかなり自信がある人がいるかもしれないが、冒頭の理屈からすると、どうしてもプロ級にはなれない気がする。
すなわち、人生において、あくび総計時間が1200日になる人はいないのではないかということだ。
ちゃんと計算はしていないが、もしいるのだとしたら、それはどちらかというと病気。
先天的な何かが怪しく、言い換えれば「天才」。
あくびの天才である。
「人はアキレス腱伸ばしプロになれない」
これは多少説明が必要だろうが、例えば例のポーズで腰に手をかけ、アキレス腱を伸ばしたとする。
これをずっとやっていれば、1200日でプロになれそうだが、残念。
最初の数分でアキレス腱はちゃんと伸びてしまうため、その後の1日の大部分と1199日は「それがいつもの姿勢」となり、アキレス腱伸ばしではない。
同様の考えでは「初詣プロ」があり、これは吉田戦車の漫画にもあった「2回目以降はただのもうで」。
人は1年に1回しか「初詣」ができず、だいたい80日だけだ。
さらに、1日ずっと初詣ということもないだろうから、その時間はさらに減り、結果プロにはなれない。
ただし、これには考えるところがあり、それは「初詣は日をまたげるか」という点。
もしできるのなら神社境内にかなり長く滞在する人。
例えば住んでいる人は、1月1日から出かける時まで、初詣が持続している。
これなら、人によっては1200日以上、初詣を嗜んでいると考えても良さそうで、初詣のプロ。
なんか縁起良さそう。
ところがこれがOKならば、先ほどのアキレス腱伸ばしも、ひどく時間をかけないと伸びないくらい硬い腱。
あるいは「本当に伸ばしてんの?」というくらい直立だが、少しだけ伸ばしているのを持続。
外科的な手術でひどく伸びるようにした。
これらのプロ根性が発動してしまうと、まさかの「アキレス腱伸ばしプロ」も誕生しうる。
ふくろはぎに「アンメルツヨコヨコ」のラベル。
スポンサーに小林製薬がついたのだ。
やるなあ、小林製薬。

10000時間

先日、飲んでいると隣のお客さんとぽろぽろ話すようになり、こんなことを聞くことになった。
「なにごとも、10000時間やればプロ級になれる」
手練れになるにはそのくらい覚悟を持ってやるとよい、などの比喩的表現なのかもしれないが、さてそれは何日くらいだろうと24で割り、400日くらい。
1年と少しでプロになれるのかーとつぶやくと「さすがに1日全部を費やせないでしょう」。
そうだ、確かに寝なくてはいけないし「生活的事務作業」もある。
せいぜい1日の1/3、8時間がいいところなのかもしれない。
よって、プロになるには1200日超、必要なことがわかった。
それにしても気になるのは「寝プロ」のことで、上記のとおりだと我々は生後1200日超にして、寝ることに関してはプロになれている。
いや、もっと長く寝ている期間も多いだろうから、その期間はさらに短いはず。
しかし、承知のように、例えば成人間の話題の1割くらいは「寝不足だわ」であり、プロだったはずの彼らはどこかで道を外れてしまった。
どうやら「寝プロ」には数種類あり、大きく「育つための寝」と「休息のための寝」と分かれるのだろう。
「呼吸プロ」「生きプロ」などの不変的なものと違い、片方ばかりを洗練してしまうと、もう片方が未熟になってしまうのだ。
寝不足の人は、おそらくまだ「育つための寝」をしてしまっていて、本来は休息したいのに、その寝ができていないのだ。
そして「休息のための寝」が総計1200日になったとき、そこが人の寿命なのだろう。
などと言うつもりは毛頭ないが、次回もちょい続ける。

ダイヤル

先日行ったバーでは、14インチの液晶テレビで何作目かの007がやっていた。
もう、何が出てくるのか全然わからない名前のカクテルを前に、暇潰した喫茶店で読んだショートショートを思い出す。
それは「ダイヤルAを回せ」という有名な小説を書いた人のらしくて、僕はそれを知らなかった。
どちらかというと、「ダイヤルMを廻せ」は聞いたことがある。
確かヒッチコックのやつで、何かスパイっぽいなと。
ゆえにバーの007も含めて、今日はスパイの日だと思った。
それにしても、祖母の家にあったダイアル式の「黒電話」である。
それにアルファベットは振られていなかった。
おそらく、スパイが盛んな地域の電話には大概振られているのであろう、AやらMが。
しかし日本の多くのダイアル式電話にはない。
「ダイヤルAを回せ!」
「ダイヤルMを廻せ!」
「さもなくば、家族がどうなってもいいのか!」
スパイ映画っぽく、恐喝まがいにこう言われたら、日本人はどうしたらいいのか。
「うちにはダイヤルのAがないんだ!。本当だよ!!」
「もちろん、Mもない!」
「どうすりゃいいんだ!」
「もう全然Aないから、それに近そうな1でいいか!?」
「Mも全然ないから、なんとなく近そうな3でいいか!?」
名作「ダイヤルAを回せ」「ダイヤルMを廻せ」における、あのスリリングな名場面が日本ではこんなに牧歌的なことになってしまうのである。
スパイが盛んでなくてよかった、日本。
もちろん、実は盛んだったとしても、それに気づかれないというのはスパイ冥利なので、どちらにせよ、よかった。
ところで「ダイヤルAを回せ」「ダイヤルMを廻せ」ってどんな話なんすかね。

プレイヤー

こないだどこかのニュースで「すいか割り」をしている人のことを「プレイヤー」と言っていた。
それまで全然気にしていなかった。
それは、もともと「すいか割り」という行為が嫌いだったという僕の性質もさることながら、それほど「すいか割り」に着目していなかった。
ましてやそれをしている人なんて。
そんな日常のなかで、それまではアスリートな、武井壮的な意味を持っていた「プレイヤー」は、場合によっては棒を手に、目隠しして右往左往する人も包括する、寛大な言葉に生まれ変わった。
ただ、例えばすいか割りをしているそばでビーチバレーをしている場合、「プレイヤー」ではどちらがどちらか分からない。
そんなことをこないだ飲みながら考えていたら、どうしてもすいか割り側は「ウォーターメロンブレイカー」と呼ばざるを得ない。
仕方のないことだ。
そう結論づいた。
ついでに「すいわ割り」を「スイカ割」にすると、もうモバイルCM臭がしてハンパないことが、今分かった。

三大珍味

俺たちが目指したいのは「世界三大珍味の統合」。
一種の生物で世界三大珍味すべてをまかなう、である。
~~~~~
世界三大珍味
・フォアグラ:肥大しているガチョウの肝臓。おいしいが製造過程が残酷なので、いろいろむずい。
・キャビア:チョウザメの卵。数粒を意識を集中して食べたことがあるが、しょっぱい。
・トリュフ:まずそうなキノコ。消しゴムのカス程度のものを集中して食べたことあるが、覚えてない。
~~~~~
まずい。
とりあえずメモ帳に書いてあったから話を進めてみたが、動植物のレベルから違うやつがいる。
ともかく、フォアグラとキャビアはどうにかならないだろうか。
つまるところ、肥大した肝臓を持ったガチョウが、チョウザメの卵を産めばいいんである。
そのガチョウは世界三大珍味の2つを生産できる家畜となり、いわば「世界の珍味2/3」。
これは統合されている。
いや、確かに難しい。
鳥と魚をうまいこと、クローン技術とかバイオテクノロジーを駆使して混ぜ込まねばならない。
冒頭の「俺たち」は、オレンジとカラタチを細胞融合させて誕生した「オレタチ」をひっかけているわけだが、ただそれらの細胞同士をくっつけて混ぜ込むくらいでも、「世界の珍味2/3」は誕生しないだろう。
「ガチョウの細胞とチョウザメの細胞が混じった、何か」
内容物も差異が激しそうで、とにかくこれ以上の何物でもないだろう。
なんかかわいそうだ。
もし、これでキメラもびっくりの「ガチョウザメ」が誕生するようなら、インド神話においていろんなものを生み出した「乳海攪拌」というのが、結構まじで起きたかもと考えなければならない。
しかし我々は、とりあえずこの難題をも霞む「トリュフ」の統一が待っている。
トリュフはガチョウとしては、あるいはチョウザメとしては、いったい何なのだろうか。
あるいはトリュフにとって、ガチョウやチョウザメは何なのだろうか。
もはや哲学的な感じすらするが、今回はそうではなくむしろ欲丸出し、「世界三大珍味の統一」である。
かろうじて考えうるのは「チョウザメの卵を産む肝臓の肥大したガチョウが、トリュフを常に持ち歩いている」になるだろうか。
確かポケモンに「カモネギ」というやつがいたが、みなまで言うまい。
そして、統一という観点では少し残念だ。
あるいはこれはどうか。
「肥大した肝臓を持つチョウザメの脳の部分に、トリュフが寄生している」
ご存知の通り、マタンゴの発想である。
実は当方、マタンゴについてはかなり疎いが、なんとなく「脳に寄生」というのがトリュフの形状から、合っているのではないかと思う。
どちらにせよこれらのことができようものなら、もう何でもできそうである。
ただ、こないだ高コストながらも試験管で培養して作られた人工肉が報じられた。
上記のような「食われるだけの末端」にいるような生物を作るよりは、人工肉の改善を進めるほうがいい気もしないでもないが、これらの話は嗜好や食糧問題にとどまらず、思想や宗教にも関連しうる。
簡単な話ではないだろうなので、最後になぞなぞを出しておく。
「右手がフォアグラ、左手がトリュフ。頭がキャビアで左足が鮭とば、右足がウニで体がカニみそ。これなーんだ?」
僕が好きなのは右手と左足である。

君の名は

某駅のホームで電車を待っていると、目の前に「シティーハンター30周年」的な看板があった。
熱狂的なファンというわけではないが、何度かアニメを見たことがあるし、エンディング曲は確かTMネットワークだったし、キン肉マンの声の人だったし。
思い出がないわけではない。
その看板で気になったのが、人物横に添えられた名前である。
どの人物も見たことあるのだが、触れざるを得ない人物が「ファルコン(海坊主)」と添えられたサングラスの人物である。
もちろん、「結局本名は何なんだ」という疑問が生じる。
知っている人は知っているのだろうが、それほど市民権を得ていないぞ、ファルコンの本名。
しかしそれより気になるのが、「ファルコン」と「海坊主」の優先度である。
僕は今まで、こういう状況でのかっこ、”( )”の使い方は、その中により詳細な、あるいは分かりやすい表現を書く、というのが普通だと思っていた。
グラタン(マカロニ入り火傷発生食品)
詳細である。
アタック(洗剤)
分かりやすい。
そこにきて、これである。
ファルコン(海坊主)
詳細でもないし、分かりやすくもない。
かろうじて人外であることがくみ取れそうだが、残念なことに彼は確か人間である。
と、ここで気づかねばならないのは、以下で納得できる「熱狂的ではないが結構知っているファンの層」についてである。
「えっ、ファルコンって?。やだなあ、海坊主のことだよ」
これで「あー」と言える層がいるわけである。
おそらくマーケティングか何かを行い、「ファルコンより、海坊主のほうが知名度高い」と結論が出たのだろう。
だから「ファルコン(海坊主)」。
だったら「海坊主」だけでいいのに。
ちなみに、先ほどの「あー」層の実態はこう。
95%・・・海坊主=ファルコン
3%・・・海坊主=はやぶさ
2%・・・海坊主=ネバーエンディングストーリーの変な竜

もはや蠱毒の様相

じゃんけんにはメンバーが3つあって、グー、チョキ、パーとして、均等な勢力を維持している。
3すくみの関係というものは海外を含めると様々な種類があって楽しい。
日本で有名なのは虫拳で、何か序盤のボスが使ってきそうな名前だが、ほぼじゃんけん。
手で表現するのは「へび」、「かえる」と「なめくじ」で、実際には厳しいが考え方としては「へび、かえるに強い」「かえる、なめくじに強い」「なめくじ、へびに強い」である。
ここで、じゃんけんにおける「グーとチョキとパーの長所をすべて備え、無敵だとされる型「グーチョッパー」について説明すると、それ以上の説明はない。
親指から中指までは広げ、薬指と小指は曲げる。
これで「グーもチョキもパーも兼ねる」型であり、それは反則的無敵か反則である。
この「グーチョッパー」の虫拳版はどうしようか。
それが今日、言いたかったことである。
wikiを見てみると、虫拳は平安時代からあるという。
すごいことだが、当時でも議論はあったのではないか。
すべてを負かす虫が。
それはおそらく接待用に必要だったに違いない。
「いやあ、それを出されては。かないませぬな!!」
こんな感じ。
それはどんな虫だったのだろう。
普通に考えると、「グーチョッパー」のような、すべての特徴を兼ね備える、合成。
虫拳では「蛇と蛙と蛞蝓」のキメラになるだろう。
今、漢字で書いてみたが、みんな虫へんだ。
「蛇と蛙と蛞蝓のキメラ」というのは何だ。
強いのか?。
蛇はまだいい。
本家のキメラだって、しっぽは蛇です、という例があるくらいだから、強さに貢献できる何かがある。
蛙は怪しい。
跳躍力と伸びる舌が、長所である判明、なんとなく雑魚っぽさを醸し出す。
蛞蝓は厳しい。
表立って目立つ特徴は気持ち悪いことだ。それ以外、いいやつなのか悪いやつなのかすら分からない。
と、強さについて考えていたことに、僕は勘違いしていたことに気づく。
「蛇と蛙と蛞蝓のキメラ」は、あくまで「蛇と蛙と蛞蝓の中で最強」であれば、じゃんけんにおける「グーチョッパー」になるのだ。
「グーチョッパー」はじゃんけんのなかでは無敵だが、もちろんそれで喧嘩の仲裁をできるわけではないし、プロレスに勝てるわけでもない。
昔、スタン・ハンセンというプロレスラーが決めポーズとして「グーチョッパー」風のフィンガーサインをやっていた(※)が、彼が強いのはそのサインのせいではないのである。
だから、虫拳における「グーチョッパー」だって、虫拳の中で最強であればいいのだ。
となると、「蛇と蛙と蛞蝓のキメラ」。
蛇にも蛙にも蛞蝓にも勝てるかというと、ちょっとね。
※どちらかというと「きつね」のサインっぽい。

時間モザイク

最近は撮影機材の進歩も著しいのだろう。
鮮明なスロー映像がよくバラエティ番組や教育番組で流れている。
風船の破裂する瞬間や、素早い動物の映像。
もっとすごいものになると回転が分かるくらい、スローな状態で弾丸がこんにゃくみたいなものに突き刺さっていく映像など。
これらの何が面白いのかというと、やはり「いつもは早いのに、ゆっくり見える」という点だろう。
今まで早くて気づかなかった動きや細かな点など、人間の目にも認識できるくらいのスピードで見えるから。
また、ゆっくりとした動き自体が面白いというのもあるだろう。
しかし僕としてはもう一つ、面白さがあることを付け加えたい。
それは「スローになっているものに触ったらどうなるか」という好奇心をぐりぐりする疑問であり、そう思っている人も多いに違いない。
例えば前者の弾丸。
いつもの環境ならぎゅーんいってこんにゃくに突き刺さるわけだが、スロー映像では今にも触れそうだ。
目の前を流れる回転ずしよりも遅いくらいで、簡単に箸でつまめる。
もちろん、弾丸がそんなスピードで「飛行」することは、それ自体に動力がなくて難しいだろうから、それだけで非日常的で楽しい。
また、ゆっくりなこと自体もかわいくて楽しい。
ハエなんかがそのくらいのスピードでしか飛べなかったとしたら、そのトロさがかわいく見え、もっと人類と鳥類に人気が出る。
そして触ったらどうなるか。
弾丸の横っ腹をつついたら、どれほど軌道が逸れるものなのか。
こんにゃくに当たる前に指を先端に当てたら、指が破壊されるのか。
要は弾丸の持つエネルギーが、スロー状態ではどうなるのかということになる。
ゲームの世界では「敵をスロー状態にして、動きをトロくする」というのがよくあるが、実は攻撃力も下がるんじゃない?ということでもある。
さらに、「時間の流れが違うものに触れる」という、様々なSFやホラー、漫画で扱われている事象も興味深い。
特に何もジレンマに陥るようなことはないのか。
触れたところだけが、触れたものの時間の流れに相当するのか。
SFの醍醐味を考えると、「弾丸とその周囲10cmくらいだけ時間の流れが遅い」という感じのが面白い。
特殊相対性理論では「早いものは時間の流れが遅い」となっているらしいが、どういうわけか、とにかく「弾丸とその周囲10cmくらいだけ時間の流れが遅い」ということで、これでは弾丸に触れようとした右手だけにウラシマ効果が発動。
末永く手タレとして活動できて、よろしい。
クワガタムシなどの昆虫に「雌雄モザイク」という、左半分がオス、もう一方はメスみたいな、いったいどうしたんだという個体が存在する。
遺伝学的に異なる性質の細胞が両在している状態を指しているわけだが、先ほどの右手はいわば「時間モザイク」の状態と言え、例えば例の弾丸を大きくして、その上にまたがっていれば、足:20歳で足以外:50歳の時間モザイク個体が完成。
末永く足タレとして活動できて、これはもういいか。
また、そんなことを考え出すと次は「老化」というものも無視はできず、確か一部器官のみ老化が著しく進行するという病気があったはず。
もちろんそれは、時間の流れどうこうというよりも遺伝工学の世界の話だろうが、例えばその病気の特効薬が開発。
その名前が「光の弾丸」だったりすると中2っぽくてかっこよい。
ところで、難しいことは分からないが「早いものは時間の流れが遅い」ということは、相対的に「静止しているものが一番時間の流れが速い」ということでいいのだろうか。
そうなると時間の流れが、より遅くなる分には余裕がありそうだが、より早くなることは難しそうである。
時間の流れをより早くすることは、「より静止」しなくてはならないから、これは少なくとも僕には難しい。
まずは外出をやめることと、静止する旨を通知しなくてはならない。
それから冬のように布団から出なくなり、あとはもう身じろぎせず、「固くなる」ことを絶やさないくらいしかできないだろう。
トランセルか俺は。

ヒユ プリミティブ2

【昨年のあらすじ】
比喩の例えは、自然物の方がいいのか、人工物の方がいいのか。
=====
本来、比喩で用いる「例え」の方に、自然のものか人工物かなんてことを気にする必要はなく、よほど「一般的にうまいこと言えているか」の方が重要だ。
「こないだの忘年会、吉田さんの一発芸が面白かった。さるまっぺくらいに。」
このとき、いくら一部の人間にとって抱腹絶倒の比喩だったとしても、さるまっぺは著しく市民権を得ていない。
その時点で、この比喩は成功していない。
調べてみると比喩というのは修辞学における技法の一つに数えられるそうで、それは言い換えると弁論に用いる技術。
相手がさるまっぺを知らないとなると、弁論以前の、ちょっとそこはどうにかしておいてよ、という問題になってしまうわけである。
しかし、それでも考えてみることにする。
「光陰矢の如し」
ことわざだったと思うが、これは月日、時間の流れは「矢」のように早いよ、ということである。
おそらく当時、矢以上の速さのものは光陰以外知られていなかったのだろう。
早いよね、光陰。
ところで、ここでの例え、「矢」は人工物である。
あの、弓でびゅっとやる、あるいは破魔の力のある、あるいは先端に吸盤がくっついている、あるいはモンハンで長い敵に貫通させると気持ちいい。
光陰という自然の現象に対して、人工物の例え。
全く問題ないが、もし無理にでも問題を生じさせるとすると、こんなことは思いつかないだろうか。
「例える相手が自然の現象ならば、その例えに用いるものも自然現象の方がいいのではないか」
国際的に何かルールがあります、とかは知らないのだが、個人的には全然そうは思わない。
今回は「速さ」に注目していることであるから、むしろ「自然現象と人工物」で性質的にも相対した方が「すごい感」が出ていいのではないかとすら思う。
もちろん、「矢」が発明される前は自然物が「光陰」と比喩関係にあったこともあるだろうし、今では矢よりも早いものはいくつも存在する。
でも、どうしても我々西暦っ子は、「光陰矢の如し」で来てしまった。
「光陰」の「光」そのものの正体が反映したにもかかわらず、「矢」で来てしまった。
こうなると「自然物の方がいいのではないですか」という質問をする者に対しては、「実はここで使っている矢、海に生息するイモガイが放つ毒針のことなんです」と新しい矢の概念を持ち出すくらいしかない。
しかし、これで一安心とはおそらくいかず、質問者は次に「その矢は貝工物だから、自然物ではありません」などとくるかもしれない。
これではもはや自然物と人工物なのか、さらには生物由来なのかと定義付けがそれぞれに必要となり、いや人類を含めた生物すべては自然のものだしなどと、もうゴッドガンダムの世界であり、まさに神のみぞ知るというところだろう。
冒頭にあるように、比喩の例えは自然物であろうが人工物であろうが、比喩として完成されているならば問題ではないだろう。
強いて言えば、比喩を使用してきた相手に対して「なんくせ」をつけるには案外いいかも知れない。