ひどく退屈な一週間 6日目

地獄はいやだ。
地獄はいやだよ。
そう言ってゴネた。
ずいぶん昔だが、人生ゲーム的なやつで、天国に行くか地獄に行くかが最終結果となるボードゲームをやった。
それで地獄行きが濃厚となった僕は、ゴネたのである。
ボードには輝かしげな天国とおどろおどろしい地獄が描かれており、それぞれ妙な笑みを浮かべるエンジェル、おねしょさせることが所業のような悪魔が陣取っている。
当たり前かも知れないが、死ぬのは昔から大嫌いで。
そして天国やら地獄やらが死んだあとの世界であると認識していた。
ということでそもそも天国にも地獄にも行きたくはなかった。
しかし残念なことに、ゲームの目的は天国か地獄かだけ。
それならば、おねしょ悪魔がいる地獄よりも、まだ天国のほうがいいといったわけだ。
その頃僕がどんな天国地獄思想を持っていたのかは定かではないが、なんとなくこの判断は懸命と言えそう。
まず、地獄には知り合いがいなさそうであり、その点たいへんである。
そして知り合いを増やすにしても、少々難しいところがある。
声をかけても「おたく、やじるしみたいな尻尾ありますよ」みたいなことを言ってしまう。
友達も増えない。
ところがよく考えてみると、この傾向は天国にも当てはまりそうだ。
どうにも天国には、気軽に下ネタを言いあえる知り合いはいそうにない。
知り合い増やしでも「おたく、頭に円形蛍光灯ついてますよ」みたいなことを言ってしまう。
やはり友達は増えない。
地獄を恐れた幼少のころの僕に伝えたい。
天国にも地獄にも、知り合いはいないよと。
え?、と言われそうだが・・・。
それにしても、どうも天国地獄には知り合いがいないような気がするのは、なぜだ。
まだそこそこ若いから「これでやっとあの世のあいつに会える」みたいなシチュエーションが確立されていないからだろうか。
死んだことないからだろうか。
思うに、天国もしくは地獄に行く人は限られていると、知らないうちに考えているからではないだろうか。
一般的に、天国にはいい人、地獄には悪い人が行くものと考えられている。
世間はどうだろう。
とびぬけていい人、悪い人はあまりおらず、どっちつかずな人が多いような気がする。
・シュークリームをくれたが、盗品だった
・町内活動で球根を植える運動をしているが、万引きは見て見ぬふり
・口は悪いが 器量はそこそこ
・何んでも言えよ 俺で良きゃ
天国が特別な人のみが行けるところなのだとしたら、地獄もまたしかり、だ。
となると、その他大勢となる「どっちつかずな人」はどうなるのだろう。
その他大勢が地獄に行ったのなら、もはやそこは地獄とはなりえない。
西武線の延長線上にでもありそうなどこかみたいなものになる。
どっちつかずな人の多さで、悪い人割合が極端に低下するからだ。
そしてその傾向は、天国でも同じだろう。
おそらく「どっちつかずの人」は、天国にも地獄にもいけないのだ。
人間、死んだら天国に行けると思ったら大間違いだが、地獄に行くと思っていても大間違い。
どちらにも行かなかったその他大勢は、スタートとゴールを行ったり来たりするのだろう。
人は「過ちを繰り返す」というが、それは天国にも地獄にも行かなかったことなのか、行ったり来たりしていることなのか。
幼少期の僕や、分かる?。
え?。

ひどく退屈な一週間 5日目

こないだドラマを見ていると、なにやら正念場な雰囲気のなか、女性が男性に対して憎憎しく「ギャンブル、酒、女!!」と言い捨てていた。
どうやら彼女にとってそれらは憎むべきものであるらしかった。
「のむうつかう」という言葉がある。
飲む:お酒を飲みすぎる
打つ:バクチを打つ
買う:異性(たいがい女性)に貢ぐ? もしくは買う?
おそらくこんな感じ。
確かにお酒を飲みすぎては臭くなるし、挙動もあやしい。
バクチのやりすぎで「もう金歯と臓器しかありません」ではつらい。
愛はお金では買えないとのもっぱらのうわさで、それにお金をつぎ込むのはかなしい。
しかしどれもやりすぎなければ、むしろ酒に対する百薬の長のような効果をもたらしそうでもある。
当たり前だが、程度なのだ。
しかし冒頭の彼。
彼女らしきに「ギャンブル、酒、女!!」と憎まれては、少々やりすぎたのだろう。
で、そんなシーンを見て、僕は「ギャンブル、酒、女!!」の逆、要は好まれる「何、何、何」はなんだろうと思った。
女の子が幸せそうに彼のことを「・・・」と言う。
そんなことだ。
ということで考えてみた。
「ボランティア、白湯、あたし!!」
こうなりました。
言わせてみよう、彼女に。
=====
「で、あんたの彼氏ってどうなのよ」
彼女は恥ずかしがりながらも、まんざらではない様子で、こう言った。
「なんか、口を開けばボランティア、白湯、あたしって感じ」
あーもう、別れちゃえばいいのにって私、思っちゃったよ。
=====
城みちるか何かであろうか。
刺激にとことん弱そうである。
そしてそこはかとなく漂う気持ち悪さ。
一見好ましげなこの要素たちも、どうやら程度なのだ。
このままではそう遠くないころ、城みちるの彼女はこうなるのだろう。
=====
「で、あんたの彼氏ってどうなのよ」
彼女は声をひそめるも、憎憎しげな様子で、こう言った。
「なんか、口を開けばボランティア、白湯、あたしって感じ」
あーもう、別れちゃえばいいのにって私、思っちゃったよ。
=====
程度をわきまえていないと、どうやら憎まれることと好まれることのグレーゾーンは、重なってしまうのである。
灰色以上に、濃く深く。

ひどく退屈な一週間 4日目

人間は見た目ではないということは当たり前であると思われつつも、やはり外見で得する損するという話がある以上。
タテマエは性格だよと言いつつも、視覚で得られてしまう情報に翻弄されるというのは仕方のないところなのか。
何かしら失礼な点がどこかにあるかもしれない。
そして今回の流れにもそぐわないかもしれない。
うかつにも今まで僕は色々なことに「美しさ」というものに重きを置いてはいなかった。
まずアルトリコーダーだ。
今考えると何気に甘美なフォルムをしているアルリコだが、中学生のころはその「美しさ」云々よりも「忘れないこと」が重要だった。
要は、音楽の時間にアルトリコーダーがないと両手フリーにもほどがあるのである。
次に本か。
僕は読めればいいという、正直整理整頓が苦手ということなのであるが、そういった趣なので、本がぞんざいだ。
表紙カバーはどこかへゆき、角という角がつぶれている。
たくさん読んだものは、中ページからはらりとくずれ落ちていく。
そして人。
人に対しては尊敬できるかとか、考え方が似ているかなど。
あとは養子に迎えることができるか、養子に行ってもいいかなどがそのポイントだ。
確かに「お前美しくないからきらい」と「お前映画ファイナルファンタジーの、一生懸命リアルにしようとした皮膚を地でいってるからきらい」までなると困ってしまうが、それにしても、ちょっと「美しさ」というものを考えなさすぎた。
これではいかん。
とにかく一般的なあたりさわりのない論を逆行するかのように「美しさ」を最重要としてみることにした。
もち異性。
「美しさとは、松たか子のことである」
そ、そうだったのか。
手元に松たか子がいないのが残念だが、とりあえず松たか子について思ってみる。
鼻だ。
おそらく綺麗な鼻なのだろうが、「美しい」というよりは「鼻」だ。
顔だ。
これもどうだろう。「美しい」というよりは「松たか子」だ。
全体像だ。
これもどちらかというと「松たか子」。
100m走コースの向こう側に、松たか子だ。
このとき、ようやく「美しいもんがあそこにいる>よく見えない松たか子」になった、気がする。
「美しさとは、たいがいヤングマガジンの表紙にいる」
なんだ、そうだったのか。
早く言ってくれよ。
松たか子さんを何度も呼び捨てしちゃったじゃないか。
手元にヤンマガがないのが残念だが、とりあえずヤンマガ表紙について思ってみる。
おうかわいいな。
とてもかわいいのだが、「美しい」というよりは「誰だ」だ。
俺が芸能人に疎いのか。
「美しい」というよりは「誰だ」だ。
全体像だ。
「美しい」というよりは「南国に遊びに来た誰か」だ。
裏表紙かどこかに、本名だ。
このとき、ようやく「誰某>誰か」になった。
「美しさとは、可食性のものである」
誰なんだ、お前は。
ああいかん、それどころじゃない。
美しいものというのは食えるものだったのか。
と、ここまで来てようやく分かる。
「美しさ」というものは、よく分からない。
どういうことなんだ可食性って。
逆に、食えるものは全て美しい、っては言えないのか。
どこにあるんだ「美しさ」。
ヤンマガの誰某はどうした。
ここにはいない。
松たか子はどこに行った。
100m先だ。
美しいものは、遠く、遠く。

ひどく退屈な一週間 3日目

確かに「こいつはやられた!!。やられちゃったみょーん!!」と喜びのあまり叫び練り歩きたくなるようないいものもある。
そして「なぜだ!!。なぜなんだ!!」と気を紛らわせるため夜の川原まで走っていきたくなるようなものもある。
特に後者のは本ブログにて思い当たるフシありすぎで、それはもう細工に向かないんでいらないよ、と言われそうな竹くらいある。
ここでは主に作品批評となるのだろうが「批評」というのはなんだかむずかしい。
それは、上記の歩くもしくは走ることに代表されるような「いいわるい」をどう評価するかという点ではない。
体が誤っていない限り、なんであれまっとうな評価はされてなんぼだろうから。
僕が難しいなと感じているのは「批評どうこうって時点で、それ自体がパラドクスになっている」ような気のする点だ。
だからそもそもどう体系づくられているものなのかも、よく分からない。
批評対象と批評者それぞれの批評。
出力したいものがわからない批評。
出口の分からない迷路。
出口のない海。
正直4番目は関係なかったが、1番目はスルー、3番目のはなんとなく思いつくことがあった。
映画の「シャイニング」の後半では、シャイニングな男の子が、ラストでお地蔵さんみたいになるジャックに迷路中を追われるという、ぎりぎりネタバレになっているようななっていないような文で表現してみたが、そんなシーンがある。
ただでさえ迷路なのに、そこで追われるというのは、とてもかわいそうだ。
さらに追っ手が出口から来ていることなんかを考えると、迷路の最大目的である「出ること」もかなわないため、なおさらだ。
そんなものを批評、特に辛辣な批判に偏った批評に感じる。
迷子の批評。
どうしたんだ。
どんな他意が隠されているの。
そんな風に思う。
さらに思うと、仕事生業ならともかく、そうでない批評というものは基本的に超満点以外はありえないのではないだろうか。
悪いと思うのなら、評価の場に出なければいいのだ。
一方で超満点の批評内容は、差はあれど確実にこうでなければならない。
「自分によいと思うものがひとつ増えました。この作品です。いいでしょ?」
これ以上はどうにも「批評 + 仲間探し」になってしまう、気がする。
問題ないことなのだが、なんとなく他意を感じずにはいられない。
ただ僕も、この瞬間にも多分にこのきらいがあるのが、困ったもんである。
しかししかし、今回の話については焦点を絞ったつもりと言えども、考えるべきことはまだいくらでもある。
例えば「迷子の批評」と作品との関係が非常に根強かった場合だ。
「俺は夜の川原まで走っていきたくなる衝動と引き換えとして、この批評をせざるを得なかったのだ」
い、言い返せない・・・。
言い返せない僕。
ショッピングサイトで商品評価に購買意欲をなびかされまくる僕。
個人差というものを完全には許容できていないらしい僕。
困ったもんである。

ひどく退屈な一週間 2日目

光が速度というものを持つということが分かってからそう遠くないとき、見えているものは全て少しだけ過去のものだということに気づいただろう。
誰か、あたまのいい人が。
そんな話をはじめて聞いたときや、見上げた夜空の星々のいくらかは既になくなっているだろうことを考えるとき、どうにもしんみりムードが出てしまうのは仕方のないことなのだろうか。
過去の遺産。
終の感触。
エピキュロスとかいうグッと来る名前の人が昔「生きている間に死は存在しない」みたいなことをグラス片手に言ったらしいが、この言葉だけをそのまま考えるなら、先ほどの「終の感触」というのはそれに反する。
過去だけを見る、感じることしかできないことで「だから自分が生命最前線だ!!」と感じることもできそうだが、それは同時に、いやおうもなくいずれは自分も過去モノ(例:ジュリアナリアン(勝手に命名))になると思い知らされことであるわけだから。
今ちょうど、クロノトリガーの曲が流れてきた。
以前書いたかもしれないが、昔クロノトリガーというゲームがあって、すごく面白かった。
曲も好きで、僕はCDを買っていたのだ。
それにしてもだいぶ古いゲームだ。
10年どころじゃないだろう。
しかしこれ、ハードを変えつつプレイステーションとDSでも出ている。
そしてそれを全て僕は持ってしまっているのだ。
内容は正直、どれも当時のものとあまり変わりなかったと思う。
気になるのは、「なんで前にやったやつを買っちゃったかなー」だ。
ゲームだけではない。
本もずいぶん前に読んだが、なんか最近また買っちゃったとか、へたすると4巻が2冊ある。
そんなことになっている。
正直4巻のくだりは単に買っていたことを忘れていただけだが、まあそんな回帰なことが多い。
「覚えていないわけではないが、あれをもう一度」。
どうにも過去モノに自分がなりはじめている気が、しないわけにはいかない事柄じゃあないですか。
昔やったから、まあ今度はやらんでもいいか。
DSのクロノトリガーを買うときにそう思わなかったのは、既に僕が「つよくてニューゲーム」のぬるま湯に侵され過ぎていたからで、どうも光が速度を持つせいだけというわけではなさそうなんである。

ひどく退屈な一週間 1日目

「どM過ぎて、ちょっとNに片足つっこんでる」というのを考えたのだが、ちょっと思うところがあり、書くのをやめていた。
文言自体に深い意味はなく、単に「度が過ぎて、次のアルファベット順のに、はみ出た」ということだけ。
既に誰か考えている可能性も非常に高く、その点後発しても申し訳ないかな、とも思ったし。
ただ、登録をためらったのは、むしろ「誤解を招く」、そんな気がしたからだ。
「NというのはNormalとも取れるため、どMも極限までいくと、むしろ正常なんだよ」
なにか、とても意味ありげである。
しかしこちらはそんなことまでは考えておらず、「MからNに、はみ出ました」だけだ。
「ほとんどの人はどこかでひとつくらいは正しく狂っている」
そんなことを書いた本があったような気がする。
やはり何か意味ありげで、様々な分野で考慮されそうな感じだ。
しかしそんなことを「MからNに、はみ出ました」で悟られては困ってしまう。
「MからNにはみ出た、はみ出ただけなんだよう!!」。
何かしらの形で人に感情を生み出させることを生業または趣味にしているものにとって、この手の事象は恐怖だ。
「今日はどんなネタでも笑ってくれたなー」と芸人さん。
しかしお客さんは、芸人の頭にずっと止まっているモンキチョウがたまらなかった。
これはショックだ。
こんな悲しい話はあまりない。
せっかく面白いことを喋っていたのに、それが箸置き化に奪われてしまった。
そしてそれに気づいてない。たまらない。
成立はするだろうが、本人は残念だろう。
「この辺ではワルで通ってるから、みんな避けて通るぜ」とヤンキー君。
しかし周りの人は、閉じ忘れたらしい社会の窓から顔をのぞかせるヤンキー君のほうが怖かった。
これもつらい。
そんな、と言葉を失う。
カッコよさげなのに、そんなことのせいで台無しになってしまう。
そしてやはり気づいてない。たまらない。
意図しないところで、意図したことよりも大きいことが起きるのは、結局収支マイナスなのである。
その後、何らかの形で「実はこんなハプニングがあってさ?」と会話の素材にでもなることで、ようやく収支ゼロだ。
それまでは恥ずかしさとか何かで、心が痛む生活を送ることになる。
マイナスに心痛む彼は、こう言うに違いない。
「はみ出た、はみ出ただけなんだよう!!」。
もちろんMだの書かないのは「誤解を招く」、そんな気がしたからだ。

テンプレート

?何らかのコメントを前もって用意?
>>あずき色ラヴァ?ズさんへ
あそこのうどん、僕も好きです。
厨房を除くと、おやじさんがいつも麺をふーふーしているんですよね。
そこからはこっちの領分じゃないかって思うんですけど。
では。
>>レッドヘルさんへ
はじめまして。
それにしても最近のノーマットは殺虫効果もさることながら、なんと12時間も効果があるそうですよ。
すごいですよね。
では。
>>目の上のたんこぶさんへ
ゴンズイ玉については、僕も一家言ありますよ。
大人のゴンズイだけでなく、子供のゴンズイも玉を作るんですけど、一度それをまるごと網ですくったら、ゴンズイの稚魚が跳ねて跳ねて大変だったんですよ。
やったことないんで、うそですけど。
では。
=====
いつかこれらが、コピペできますように。

綿毛考察 1

たんぽぽの綿毛が、風に乗って飛んでいる。
そんな風景を見たことがあるだろう。
一般的に、たんぽぽの綿毛、すなわち種は風によってどこか遠くに運ばれる。
しかし、そんな当たり前のことほど、重大な点が見落とされているかもしれない。
そう思ったのが僕の曽祖父、竹三郎だ。
竹三郎はいつか「綿毛は風で飛んでいるのか」をちゃんと確認しよう考えていた。
しかし半年の旅行を計画してしまったので、その確認が僕にまわってきたわけだ。
ハワイから「ガラスの容器」が送られてきた。
これで風を遮断し、たんぽぽを観察しろということらしい。
なぜハワイにまで容器を持参していたのかは不明だが、僕はさっそく近所にあった、綿毛みちみちの検体を採取し、容器で鉢を覆った。
=====
1日目
変化なし。
風がないから揺れもしていない。
2日目
変化なし。
3日目
変化なし。
4日目
変化なし。
このままかれてしまうのではないだろうか。
今日が5日目だ。早朝。
鳩に餌をやるために、トランペットでそれをおびき寄せ終えたあと、容器を見た僕は、あることに気づいた。
綿毛のひとつが浮いていたのである。
はじめは何かの拍子に外れてしまったのではないかと思ったが、それにしてもおかしい。
ずっと浮いている。そしてゆっくりと漂いだしてもいる。
どういうことだろう。
これまでと同じように、写真に収める。
6日目
鳩に餌をやるために、トランペットでそれをおびき寄せ終えたあと、容器を見た僕は愕然とした。
綿毛という綿毛が容器内を漂っていたのだ。
これまで、綿毛は風によって受動的に「流されている」と思われてきた。
しかし、それは間違いだった。
あれが軽く、身近な植物であるが故に気づかれていなかったが、彼らはかなり能動的に動くことができる。
どうも、風に乗って飛んでいるのは、エネルギーをあまり使わないようにしているのだろう。
それにしても、綿毛は容器内をつんつん動いている。
少し不気味だ。
7日目
鳩に餌をやるために、トランペットでそれをおびき寄せ終えたあと、容器を見た僕は思わず隠れた。
容器の中が白くなっていた。
どうも綿毛がすごいスピードで飛び回っているようなのだ。
近づいてみると、かさかさ乾いた音がする。
おそろしい。
容器をはずしたらどうなるのだろう。
8日目
鳩に餌をやるために、トランペットでそれをおびき寄せ終えたあと、容器を見た僕は思わず息を呑んだ。
採取してきたばかりの状態で、たんぽぽがあったのである。
綿毛がひとつとしてくずれておらず、落ちてもいない。
あのまんまるな状態で、そこにあった。
「飛び回っていた綿毛が格納された」のだ。
これが今回に確認による、結論だった。
綿毛は飛びまわった後、エネルギーがなくなったからなのか、充填を行うために親体に帰還した。
そんなハイテクロボの新兵器のようなことが、綿毛には隠されていたのだ。
僕は昨日から、ずっとおそろしい。
9日目
僕は1日目と今日の写真を封筒に入れ、竹次郎に送ることにした。
「おじさん、特に何も起きなかったよ」と。
12日目
返事が来た。
「俺は竹次郎だ。竹三郎じゃねえ」

くま未満

里山からくまが出没したことで環境破壊を持ち出すというのなら、環境破壊はくまから始まるものなのだろうか。
ちがう。
くまから始まっているのは「近くにいたら危険」だ。
すなわち、人間というものは危険が身近に現れることでやっと根源的な問題に気づくもしくは取り組むものなのである。
くまより前から、環境破壊を感じなくてはならない。
公園のベンチで読書に夢中になっている女子の鼻の穴を、ありが出入りしている。
環境破壊である。
ありにとって、鼻孔は致命的に生産的でない場所だと思われる。
「はなくそは?」と思われるだろうが、僕は「せっせと巣穴にはなくそを運ぶあり」というものを知らない。
ありにとって、程度のよい大きさである鼻の穴は、罠に等しい。
また、鼻の穴が故意ではないところに「ありの巣穴に水を流し込んだ」などのベーシックな破壊よりも重大な汚染が存在している。
ありの減少はその勤勉さに感銘をうけていた人々を堕落させ、ポイ捨てとかが多くなる。
洗濯機のなかに、あめんぼがいた。
環境破壊である。
あめんぼは水の流れに逆らってつーんつーんと動くが、それを惑わせる水の動きである。
しかも界面活性剤が入っていることが多いため、おそらく溺れ死ぬ。
あめんぼの減少はあめんぼ見たさに田んぼに集まる人々の失望を買い、GNPが下がり環境どころではなくなる。
シロツメグサで、ネックレスを作った。
環境破壊である。
一見その物質的な面での環境破壊と思われがちだが、ちがう。
ネックレスという装飾品に仕立てたことで、人々にブランド志向を根付かせ、シロツメグサがごっそり取られてしまう。
生産者のネックレス化は、生産者にやる気を失わせ、食物連鎖の底辺を揺るがすことになるだろう。

印象変遷

昨日からのつづき。
【あらすじ】
第一印象から始まってある程度その人の「目安」が決まるまで、おおよそ三段のステップがある、と昨日定義した。

無愛想で高圧的でいやなヤツ

でもやさしいところもあったりして

くやしいけれど気になるアイツ
今日はこんな「印象変遷」はいいよなあ、の流れ。
=====
?
すごく男前

結構髪薄くなってたな

ピーナッツ
?
まるみえ

隠すようになってきた

まるみえ
?
別れた女房に似ている

すっごい眉間にしわ寄せてたけど

あいつ、元気かなぁ
?
汗がミントの味しそう

二重すぎてまぶたの間にカス詰まってそう

ピーナッツ
?
めちゃくちゃかわいい

しかも気が合う

要注意人物
?
めちゃくちゃかわいい

しかもドジっ娘だ

生きてたら、何歳になるかなあ
?
ジャックナイフ

血をすする妖刀

ぱんぷきんちゃん
※なんか例、あだち充みたい。