ポラロイドカメラとは何かと言えば「カメラから写真がべーっと出てくる」が最たることで、昔は主にカメラ前面から出てきていたが、近頃のは他のところからも出てくる。
しかし当たり前だが、最も重要な「写真出てくる」はどのポラロイドカメラでも共通の特徴なのである。
そしてもうひとつ重要な事に「出てくる写真は現像前」がある。
これらの順序立ててみる。
写真を撮る
↓
写真が出てくる
↓
待つ
↓
じわじわと画が出てくる
このように「画が見える」前に写真が「出てくる」わけで、それは例えば以下のような可能性を私たちに与える。
「ポラロイドカメラで写真を撮ったら、写真搬出口から髪の毛が出てきた」
これで、私たちは画を待たずとも、それが確実に心霊写真であることがわかるわけである。
「写真搬出口から韓国海苔が出てきた」
韓国海苔を写そうとした念写が、強力に成功。
「写真搬出口から取扱説明書が出てきた」
誰かのいたずら。
「写真搬出口から婚姻届が出てきた」
「写真搬出口からCAN YOU CELEBRATE?が聞こえてきた」
撮られた二人は結ばれる。
「写真搬出口から煙が出てきた」
この写真は自動的に消滅するだろうから、逃げろ!!。
カテゴリー: 楽したい
ワンコイン見栄
100円均一の店でおもしろいものを見つけた。
「レンズのない伊達メガネ」がそれ。
メガネの、本来レンズのある空間が空虚で、すかすかである。
これでまず思い出すのがキャイ~ンの天野氏が装備しているあれ。
今、「キャイ~ン」の「イーン」が一発で「イ~ン」に変換された事にひどく驚いている。
手取り足取りな変換である。
それは置いておいて天野氏。
彼は確かレンズのない伊達メガネであって、そこに指を通しておもしろおかしくしてくれた。
しかし僕はこの伊達メガネを見たとき、そのこと以外にも2つばかり気になる事があった。
● 伊達メガネなのだから、そもそもレンズはない。だからこの商品は「レンズがないことすらない伊達メガネ」なのではないか。
● なんか、伊達すぎるのではないだろうか。
最初のは自分でも半分何言っているのかわからないが、ひとつだけ分かるのは、こんなこと言っているから友達があまりいないんだろうなということで、僕の友達。
今後ともよろしくといったところ。
2番目のは、伊達のとらえ方で変わるだろうが、レンズ風なものすら省いてしまったところに、伊達すぎる感じを受ける。
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めがねの伊達っぷりランキング
1:ちょうど額にあたるところにもレンズが一つ、ついている
2:めがねのふちが空洞で、静脈の一部扱いになっている
3:片方ずつ、しぼりで光量を調節できる
4:めがねのふちから新芽が顔をのぞかせている
5:箸置きになる
6:各レンズ左下に、ちっさいテレビがついている
7:表側がモニターになっており、気を抜くとスクリーンセーバーが起動する
8:ばねで飛び出ているようにみえる目玉のおもちゃがついているが、床まで届いている
9:ばねが面前で結んである
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ほんと、今後ともよろしくといったところ。
4分割の幸運は、分け前が少ない。
園芸店や雑貨屋さんで見かける事があるだろうか。
「幸運のよつばのクローバー」
品種改良なのかもともとそういう種類なのか。
その葉の多くが「よつば」になっていて、それは伝承的に伝えられている「幸運」というものの、まさにそのものなのだった。
しかしこの商品を見るたび、僕はなんともいえない気持ちになる。
「そういうことじゃ、ないでしょう?」
よつばのクローバーが幸運を象徴することに文句はないが、それは「よつばのクローバーは珍しい」という事柄が根本であるがゆえのことだ。
その「幸運のよつばのクローバー」は、よつばがわっさーなっているため、珍しさが損なわれている。
そこに何かしらの希少さを見つけ出そうとしても、それは叶わないのである。
ただこの「幸運のよつばのクローバー」と「幸運」というものが結びつかないかというと、そうでもないだろう。
幸運は希少であることが条件であるが故、どこにでも存在するもの。
みつばを探しだそうとすることに、話題性がないわけじゃない。
不吉な4のイメージアップ2
昨日からのつづき。
【あらすじ】
なぜか嫌われる数字の「4」。
その尊厳を取り戻すため、どのようなことをすればいいのだろうか。
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1:「4位」が、一番よい商品が獲得できるようにする。
おそらく一番人気のある数字は「1」であろう。
それは「1番」「1位」に見られるように、優れているという意味が込められているから。
そこでその威光を「4」に適応するべく、とにかく行政的な対応から「4、最高」という認識獲得を目指してはどうだろうか。
「ベスト3にわざと入らない順位として、最高位」であるという位置づけでの「4位」。
「能あるタカは・・・」ニュアンスでどうだろうか。
2:人気アイドルが15秒間、ノートに「4」と書き続けるCMの作製
なんだかんだいって、未だテレビの影響力は絶大である。
その観点から「4」への悪印象を払拭する狙いのCMである。
ただ「4」を書き続けるところに何か病的なものを感ずるのであれば、例えば新作映画のCMに見られるような「すっごく感動しました」みたいなことを素人風の出演者に言ってもらうやり方なども考えられる。
「今まで気にしていなかったけど、よく見てみたらすごくよかったです、4」
3:ピカチューの背中の模様が「4」になっている
ある時点から、ピカチューの背中の模様を「4」にする。
子供の頃から「4」に対する印象を良くすることが狙い。
確かに「4の模様」へ移行した場合、違和感や抵抗がないとは言えないが、政府(4イメージアップには政府の全面的な協力が必要)としては「え、今までずっと4でしたよ」という姿勢をつらぬく事で解決できるはずである。
5:新作ドラマで登場人物たちが「愛してる」の隠語として「4」を使用する
ピカチューが子供たちへの情報操作なのだとしたら、こちらは中高生をターゲットにしている。
イメージとしては、別れた恋人が残す最後の封筒に入っていた「4」の手紙である。
6:「3」と「5」のイメージダウンをはかる。
相対的に「4」のイメージをアップさせる。
人生における、多くの「3~5のいずれかを選ぶシーン」において「4」を活躍させることができるのだ。
「この花壇には、パンジーが5株くらい植えられる」
4株になるのである。
なお、「3」と「5」のイメージダウンには「3あるいは5を書くときは、血がたれる感じを出すこと」という条例の制定でいけるだろう。
7:リモコンや携帯電話の「4」のボタンを押すときのみ、クイズの正解音がなる
確実に印象よくなるだろう。
しかし一方で「なりすぎ」による憎悪感が発生する可能性があるため、「運がいいとなる」くらいにするとよい。
8:ポーカーのルールを「4が出たら一律勝ち」にする
「4」はどんな数にも置き換える事ができるというルールにする。
数を引く事すらできるので、21を目指す事が容易。
「ポーカーフェイス」という言葉が「4」のためのみにあると変化するくらいの劇的な方法である。
ただしポーカーは世界的に知られているトランプゲームなので、この方法には世界的な「4」運動が必要。
9:一般的なカップ麺の待ち時間を4分に設定する
新しい麺の開発さえできれば実行可能。
・・・
今まで挙げた例は、効果は高いだろう。
しかしその実現度にはいささか疑問が残る。
まずは「4、悪いやつじゃないよな」という考えに補正していく個人レベルでの努力が必要となるだろう。
以上。
不吉な4のイメージアップ
昨日からのつづき。
【あらすじ】
なぜか嫌われる数字の「4」。
その尊厳を取り戻すため、どのようなことをすればいいのだろうか。
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「4、嫌われる原因を考慮してイメージアップをはかる」を考えてみよう。
実は、なぜ「4」が避けられる数字なのか、よく知らない。
「シ」と読める事で「死」を連想させる。
これしか思い出せない。
正直、小学生の下校中話題のひとつくらいにあるもので、だじゃれである。
以前書いたかもしれないが、1文字のだじゃれというのは、もう自然発生的な何かであり、それをユニークなものとしてとりあげることすらはばかられるべき。
他に何か決定的な「4、やだよね」感を発するものがあるはずである。
ここで、生物の本能とも言うべきある性質に注目してみよう。
「鶏は弱い個体をみんなでいじめる」
ある社会的構造において、何かのバランスを保つシステムとしてそういったものがあるらしいのだ、にわとり。
「しっぽの切れたトカゲは村八分あつかい」
とかげに「村」があるのかどうかがかなりアヤシいが、まあ話としてはそんなこともありますか、という感じ。
話を戻すと、いまいち嫌われる原因の見つからない「4」という数字は、もっと些細(死に通ずる発音、などよりもより些細)なことが原因で嫌われるようになってしまったんじゃないかと思えるのだ。
「4は他の数字より弱かった」
にわとりの件である。
数字に強い弱いかを定義するのは難しい。
その用途が多岐に渡っていて、数字の存在意義自体がその用途そのものなので、数字唯一の個性である大小を強弱に合わせる事はあまりに無理があるわけだ。
ということで見た目で考えてみると、僕個人として「4」は結構強い部類に入る気がする。
なぜかと言われても困るが。
「4のしっぽは、いつも切れている」
とかげの件である。
ここで難しいのは「数字のしっぽ」がいったい何なのかという点だ。
「数字のしっぽ」。
これだけだと、解釈しやすいように書かれた数学書のタイトルみたいになってしまう。
さらには数字の強弱を考える以上「各数字のしっぽ」「各数字の、しっぽが切れた状態のかたち」なども知る必要があり、もはや収拾がつかない。
やはり見た目で考えるべきだ。
と、これまた僕の見た目印象だが「4」は他の数字よりもしっぽが多いくらいなんじゃないかと思う。
しっぽ、切れてないよたぶん。
「4、嫌われる原因を考慮してイメージアップをはかる」のは、その嫌われが何に由来するのかがわからないため、軽く頓挫した。
ここはとにかく4が好まれるような活動を行っていく必要があるようだ。
次回へ。
なんて不吉な、数字だ4。
眠れなくて、目を覚ます。
ケータイを手に取ると4時44分。
不吉だ。
今日は4日で、やはり不吉。
ケータイを置こうとして、そこにはちょうどめがねも置いてあったようで、それもろとも床に落ちて大きな音を立てる。
早朝に大きな音を立ててはだめだ。
落ちる瞬間、ケータイへ「すまんお前もうすぐ落ちるぞ」と教えてあげられたなら、少しは心の準備ができただろうか、ケータイ。
眠れそうにないので机に向かう。
指先が痛い。
寝ている間に爪でも噛んでしまったのだろうか。
それともダークフォースみたいなものが指先から勝手に放電したのだろうか。
ふとんは紫色に染まっていない。
ベビーローションを手に取ると、必要以上にどばっと出る。
出過ぎたクリーム、あるいは歯磨き粉をうまく容器へ再注入することはできないのだろうか。
あれ、歯磨き粉って言い方古そうだ。粉のところが。
今のチューブのやつはなんて言うんだ。
話は全然違うけど、歯磨き粉をフリスクの容器にみっちり詰め込んでおいたら、「ウォータリングフリスク」として認識できなくはないんじゃないだろうか。
朝5時。
何か、運を使い果たしてしまったような。
叶わないものにここ数年の運をベットしてしまったのような。
なんだか、4時44分から不幸の連続である。
そしていま、朝5時。
5時に寝ていないってのも、どうも。
ということでまずは4を不吉なものではないという考え方にシフトする予定。
次回
「4」のイメージアップ戦略
画鋲その2
昨日からのつづき。
【あらすじ】
画鋲を落とした。
そのとき、なんか気づいた。
「画鋲を落としたとき、人は2つ、探し物をする」
=====
画鋲を探し出したとき、人はもう一つ、探し物をするんである。
「画鋲の刺さっていた壁の穴」
壁の質にもよる。
頑丈な壁なら、画鋲の刺さっていた穴に再度画鋲を投入することができるだろう。
だから探すのである。
一方で、ちょうど壁のやわい箇所に穴があった場合は、そこに画鋲を刺しても十分な固定感を得られない可能性がある。
壁の穴は増えてしまうが、新規開拓が必要な時期なのである。
ただし、こういう人もいるかもしれない。
「画鋲を探し出した。せっかく画鋲が見つかったのだから、何かピンナップでも貼るか」
この場合の「画鋲をなくしたときの、2つの探し物」は、以下の通り。
画鋲
ピンナップ
先日書いたように「画鋲を落とすシーン」はたいてい既に何か貼られていたものをどうかするときであり、それを差し置いての、いきなりのピンナップ登場はいささか唐突すぎる。
しかしその何かに飽いた上での画鋲落としなのであれば、心機一転、ビールを手にした水着女性のポスターを探そうという気にもなるわけである。
このポスターを貼るとき、前の画鋲のあとを利用するかどうかは、気分次第。
また、こういう探し物もあるだろう。
画鋲
画鋲をまとめているケース
画鋲がお役御免になったとき、私たちは家のどこかに「画鋲をまとめているケース」があったことを思い出す。
しかしこれがなかなか見つからないことは、みんな経験ずみ。
見つからない場合、どうするか。
画鋲だけを、もともとついていた壁の穴に戻してしまうのである。
それは画鋲としてかなり残念な、意味のない状態。
そしてこの意味のない状態が、より「画鋲が落ちたときの存在感」の増幅に一役かっているわけでして。
画鋲その1
カレンダーをはがすとき、それを止めていた画鋲が外れ、床に落ちてしまった。
「画鋲は、落ちたときが一番存在感ある」
今まで気づかなかった。
壁あれば画鋲は当たり前のようにあるわけで、それを注目しようとなんて思わなかった。
あるときは「ああ画鋲がついているな」くらいだったし、またあるときは「はえがいるな」くらいだった。
それが落ちたとたん、とにかく画鋲しか見ないようなモードになるんだもの。
「画鋲が落ちているらしいエリア」
その捜索に労力を割かない人間はいない。
いたとしたら無休ではだし生活をしていて足の皮が大変な事になっている人か、その後そのエリアに人が立ち入る心配がないことが分かっている人。
あるいは痛みを快感に変換できる人だ。
僕は快感コンバートできないし、足の皮は人並み。
たいがい毎日そのエリアに立ち入るから、もう、すぐ画鋲探しを始めた。
「画鋲が落ちているらしいエリア」なんかに寝てられないから。
次回
「画鋲を落としたとき、人は2つ、探し物をする」
企て
今年のはじめ、「時計じかけのオレンジ」の舞台を見てきた。
銘打つ「パンクオペラ」というものが普通のオペラとどう違うのかわからないが、おもしろかった。
ラスト近く、怒濤のミュージカル調になっていたけど。
この舞台で目を見張るシーンとして思い出されるのはインターミッションのところ。
舞台上で、主人公が拘束衣を着せられてコマい部屋の中で苦痛にもだえつづけるという演出があった。
映画のシーンで言うところの「ホラーショーな映画を見せられるが投薬されているので見たくないよー」とつらそうな場面。
それが舞台だと、本当の休憩中、ずっと行われているわけ。
ただ、舞台上の個室の中は微妙に見れないようになっていて、叫び声だけ聞こえる。
僕が気に入ったのは「休憩中なのでそれを見に行く人たち」だった。
叫び、嗚咽が漏れる舞台上の個室と、それを見ようと集まる人たちの対比が、すごくよかった。
これも演出の一部として企てたんじゃないかと思う。
あと、僕の隣の席の人がきれいな人だった。
これも演出の一部として企てたんじゃないかと思う。
シーク音
「お前は何かおもしろいことを考えるとき、頭のところからシーク音がなっていそうだ」
なんとなく光栄である。
ただ、結構まえに言われた事であり、今後はちょっと古くなってくるのかなシーク音というのも、という気もする。
この流れでいくと、考えるときにどんな音が頭から出ていたら「あの人は真剣に考えているんだな」と思われるのか。
それでいいかもしれない。
そんなことを考えて夜中の1時。
いいかもしれない。
オルゴール、流れていいかもしれない。
考えだすとオルゴールの何かの曲が流れ出し、考えをやめると止まる。
電話のおしゃれな呼び出し音みたいで、いいかもしれない。
でも実は、その人は脳の手術をしたことがあって、そのときの医療ミスでオルゴールを脳内に残したまま縫合されてしまったのかもしれない。
「あたまのなかのオルゴール」って、なんかノスタルジックでいいかもしれない。
てんぷらの揚げる音というのも、いいかもしれない。
あの、ぎりぎり体中を平手で叩きまくっているような音が考え事をしているとき、周りの人には聞こえるのだ。
不思議の国のアリスでいなかったっけ。
「考えごとをするとき、頭からてんぷらを揚げる音がするおじさん」。
ただ、てんぷらの音では「真剣に考えている」というのはどうもつながらない。
せいぜい「てんぷらのことを真剣に考えている」だろう。
てんぷらのことを真剣に考えているときに、てんぷらを揚げる音がしちゃったら、いわゆる「サトラレ」だ。
「サトラレ」って見た事ないから、これといってないんだけどね。
今宵も、頭からはからりとも音がしないんだけどね。