ちょっとそこまで。20

南天に知った人がいる。
とは言っても面識がほぼないという、サプライズを仕掛けるには少々難敵というのが、気になるところだった。
しかしその人は、突然現れたあまり面識のない僕を快く迎えてくれた。
おじゃまと思いつつも上がり込み、他愛のない話を長々としてしまった。
しかしどうしたことだろう。
その人には既に親戚の方が訪問していたのである。
これがサプライズというものだ。
こっちがびっくりした。
こりゃ申し訳ないと、お菓子を渡してほうほうのていでおいとました。
親戚の方の中には僕を知ってくれている人もいたが、こちらはあせるばかりで思い出せず。
知らないやつが突然訪れて、マドレーヌを置いて去っていくという、よくわからない訪問となってしまった。
結構不審者で、あわてて退散するさまをみても、親戚の方には詐欺をやるものに見えただろう。
ごめんなさい。
しかし考えようによっては、知らないやつが突然マドレーヌを渡して去っていくというストーリーに、何かときめくものを感じる人もいるやもしれない。
そして今、何かマドレーヌって言葉がひっかかっていたのだが、それが「マタドールに似ている」ことである点についてひっかかっていたのだと分かった。
知らないやつが突然マタドールになって去っていくというストーリー。
ぜんぜん面白くないが、気になる点はある。
知らない人とマタドールというのは、どうもイコールで結びづらいところだ。
というのも、知らない人だがマタドールであることは分かっているのだから、「知らなさ」という点においては「知らないだけの人」よりも格段に「知っている」ことは明白だ。
そしてそもそも「突然マタドールになる」というのも難しい。
衣装や赤いマント、そして牛がいないことには、マタドールになるというのは難しいのではないだろうか。
そして牛を去らせろよ、お前が去るな。
マタドールについては、この程度だ。
しかし、牛はいないが豚はいる。
南天には豚を飼っているところがあるのだ。
おいとました僕は、そこいらを散歩することにした。

ちょっとそこまで。19

そこにはバス停があるはずなのだった。
南天。
しかしネットで調べてもいまいちな反応。
ネットとしても不安なのだろう。
「そこ、ほんとにあんの?」
牛深市を目指している理由というのは、その南天の場所がいまいち絞れないからであって、とりあえず街へ出てから考えるか、という軽い気分だった。
しかし市街へ到達するずいぶん前から、なんとなく見覚えのある町並みへと車を走らせていることに気づいた。
南天が近いのだ。
魚貫(オニキ)を通り過ぎると、僕が小学生の夏休みに過ごした岩だらけの海岸が少しも変わらず現れた。
今日は引き潮。
間もなく、バス停が見える。
たぶん恐ろしく錆びているだろうが、おそらく南天のはずだ。
小道に入る。
おそらく何もかわらない、お地蔵さんがまつられているはずだ。
何もかわらない空き地に車をとめる。
「炭坑で栄えた町」という言葉がぴったりな、ごく小規模の集落が見えるはずだ。
後ろが山で、前が海というプレイバリューあふれる立地。
近所のお店は20年ほど前に閉店して、それ以降ない。
炭坑はそうなのだろうか。
えらくもろくて崩れ落ちそうな山肌。
でも、今回はいることができないけど、ここの星空のすごいことを、僕は知っている。
南天、到着。
12時過ぎ。

ちょっとそこまで。18

牛深市へ向かっている道中、見覚えのない道のりを少々不安に思ってきた僕のまえに、デパートの「イオン」が現れた。
どうやら、今までの混雑の何割かは、こいつの駐車場待ちが原因としてあるようだ。
しかしそんなことはどうでもよく、僕はうれしくなった。
というのも、以前牛深市へ向かうとき、このイオンがあったはずなのだ。
ということは、道は合っている。
そして何よりも、ここいらの地域で、唯一と言っていいほどの娯楽施設が、このイオンだったことを思い出したのだ(やや失礼)。
イオンに通いまくっていたあの頃を思い出す。
目の前には海があった。
裏には山があった。
しかしそんなナチュラルアミューズメントにも食傷気味になってきた僕らの前に現れたのが、イオンだった。
牛深市街ならともかく、僕らが泊まっていたそこはコンビニも外灯も、知り合いもなく。
星はきれいだが夜は暇で仕方がなかった。
そんななかで、煌煌と輝き人の集まるイオンは、アリマキにとっては最高級草汁間欠泉、アリにとっては最高級草汁間欠泉、アリクイにとっては最高級草汁間欠泉みたいなものだった。
しかし、今はとりあえず牛深市へ行くのである。
思い出のイオンを通り過ぎ、そう遠くないころに目的地に着けそうだという期待が膨らんできた。
10時半。

ちょっとそこまで。17

行く先は天草、牛深市。
ここにかろうじて知った人がいるのである。
今泊まっている宿から目的地までは、カーナビ換算だと2時間程度。
しかし熊本駅で「道が1本しかないから、くそ混む」的なことを聞いている。
故に8時半出発。
相手には訪問を知らせていないため、あまり朝早くてもどうかという大人的配慮と、突然訪れたったろうという子供的配慮がすばらしく融合した、いい時間だ。
ほんのり道を間違えたりしたものの、松島有料道路まではかなり順調に進捗した。
運転中はいらいらするようなシーンもなく、音楽も楽しめた。
しかし有料道路を降りて少し進んだ所あたりから、だんだんと混み始める。
こういうとき、自分の入る道路の先が遠くまで見えてしまうことは、苦痛以外の何者でもない。
確かに道は1本。
ずっと先まで車が詰まっているところを目の当たりにすると、工事などの単発的な渋滞原因ではないことに気づかされ、がっくりしてしまうのだ。
仕方がないので大声で歌い、それを対向車線の人に見られても気にすることなく。
そしてかなりぐねった合流車線を越えたあたりから、どうにか混雑も収まってきた。
と同時に、道が山に囲まれだす。
不安だ。
向かっている所は海に近い所なのに、山だ。
以前も同じ道路を通ったはずなのに、見覚えがない。
確か、5つ橋のあるところがあった。
あそこはもう通っただろうか。
紳士服の店が2件、近立している。
なぜだ。
もしこのあたりの紳士の密度が全国平均の2倍だったとしても、紳士服の店は1件でいいはずだ。
そもそも紳士の密度を計算するには、紳士の何たるかが数値化されていなくては出ないはずだ。
何気にそういうデータがあるのだろうか。
まずは坂道でオレンジをたくさん転がすのだろうか。
胸ポケットからぴこっと白いハンカチが出ているのだろうか。
雨の日、カサを持たずにバス停で待ってみるのだろうか。
あんまりこういうの、好きじゃないな。
このあたりのバス停は、なかなかのモラトリアム感を出している、ような気がする。
帰りに写真を撮る、と心に決める。

ちょっとそこまで。16

不思議なもので、「この時間に起きるぞ」と考えてから寝ると、その30分前くらいに目覚めることができる。
便利だが、単に眠りが浅いだけのような気もして、差し引きゼロ。
結果、日常を過ごしている。
朝食の少し前に目覚めて、さっさと浴衣から普段着に着替える。
昨日、宿に到着した僕を見て、仲居さんがあわてて持ってきてくれたMサイズの浴衣。
どうも僕の名前は、ガタイが大きい人のような印象を与えるのか。
部屋に用意されていた浴衣はLサイズだった。
浴衣というのは、大きさもさることながら慣れていないと、朝たいへんなことになってしまうことは有名である。
確かに、たいへんなことになっていた。
たいへんなままで食堂へ向かっては、食堂がたいへんなことになってしまうため、普段着に着替えるのだ。
食堂では既に幾人かの宿泊客が食事を取っていた。
年配の方が多い。
普段、僕は朝食を食べず、そのときはコーヒーを飲むくらい。
あまり健康的ではないと思われるため、その習慣を脱却したいが、どうにも胃が食べ物を受け付けない。
前日たらふく食っただとか全く食べなかったかに関わらず、少しでも物を食べたら吐いてしまいそうにすらなるのだ。
しかしせっかくの朝食を食べない訳にはいかない。
仲居さんが炊飯器前でじっと僕が茶碗を持っていくのを待っている。
待ち伏せている。
お前まだ来ないのかと待ち伏せしている。
なんとなく、今彼女のもとへ行ったらFF的にはバックアタック判定になりそうだ。
もちろん彼女の元へは後ずさりしながら行ったわけでもなく、普通にごはんをもらい。
そしておいしいなりにも苦手な朝食を、どうにか進めていく中で、伊勢エビの入ったみそ汁の強敵っぷりを目の当たりにしたのである。
おいしいが強敵という、デレツンなみそ汁をやり終え、今日の予定を再考する。
8時半、天草方面へ。

ちょっとそこまで。15

宿に1泊。
明日は朝が早いので就寝することにしたが、なんだかんだいってこの部屋をちゃんと見ていないことに気づいた。
じっくりと見回してみる。
何の変哲もない、和室風の部屋だ。
ガキの使いの罰ゲームで松本氏が肝試しで使用していた部屋に似ている。
若干「避難はしご」の位置を示すプレートが傾いている。
ほぼ90度傾いている。
僕の部屋は火災などの緊急時、逃げ遅れた人が向かうべき場所として、廊下に矢印が振られている部屋だった。
避難はしごがある部屋は限られているのだろう。
実際にそうなったとき、僕は逃げてきた人にはまず首を90度曲げてとアドバイスしなければならないのかと考えると、眠たくなってきた。
掛け軸がある。
以前書いたと思うが、オカルト好きな人間にとって、掛け軸の裏を確認するというのは宿泊先に対する礼儀みたいなものである。
ただ、ここで確認してしまうと「なんか怖いことが起きました→掛け軸の裏にお札が貼ってありました」の黄金順序が頓挫してしまう。
「掛け軸の裏にお札が貼ってありました→でも寝たら、怖いことが起きました」
「部屋を替えてもらえばよかったのに」という指摘に、僕はなんら反論できない。
掛け軸の裏に何が貼ってあると面白いかというのはなかなか興味深いが、とにかく明日は早い。
ふとんに潜り込む途中、机の上の灰皿が目に留まった。
重厚な灰皿。
よくある、ドラマで誰かの頭を殴りつけてしまうタイプの灰皿だ。
掛け軸の裏、確認しておくか。

ちょっとそこまで。14

風呂上がりに一杯。
その文化に憧れていないと言えば、うそになる。
CMで汗を全身にかいたあいつは、それはビールが得意でなかったとしても、うまそうだ。
CMってすごい。
で、この温泉にはその文化に遅れている人間に対して、少しばかりの救済処置が用意されている。
温泉入り口に自動販売機があるのだ。
洞窟温泉は楽しかったが、僕の気分は沈んでいたんだ。
それは、温泉が熱過ぎだったりとか、洞窟がほぼ浅瀬だったことに起因している訳じゃない。
熱いくらいでも気持ちよかったし、お湯の浅瀬というのも面白かった。
ただ、洞窟的なものの中を全裸でうろついたことを客観的に考えると、なぜか少し、沈んだんだ。
「男の方の生殖器は、なんかギャグだ」
そう言った先輩を「こいつかなりやるな」と内心思ったけど、そのときのことが鮮明に頭によみがえる。
「俺はなんだって、ギャグをぶらぶらさせながら洞窟のなかを・・・」
今、本ブログでそのことを昔書いていやしないかと、内容を全件検索したところ「見つかりません 生殖器」と表示されてそりゃたいへん。
面白かったわけだが、確かにこの洞窟うろうろのとき、文化がなくても風呂上がりの一杯をやってみようじゃないかという心意気にさせるくらいのギャグが発生していたわけである。
さっそく金庫に入れていた財布を取り出し、自動販売機でモルツを買う。
モルツがビールの中でどのくらいうまいものなのか、そもそも発泡酒とかでなくてビールなのか。
あまりよくわからないが、今日、僕は文化を得る。
夕食のとき、「何かお飲物は」と聞かれてコーラを頼んでしまったのに、そのあとで缶ビールを飲んだことがばれると、宿の人が傷つくだろうか。
そんなことを考えながら、何か悪いことでもするかのように自室に滑り込み、座椅子にスタンバイ。
何か面白いことをやってくれていそうなテレビもついている。
ipodからは山田晃士が流れてきた。
何か、雰囲気いいんじゃないだろうか。
僕の風呂上がりの一杯デビューはかなり洗練されたものになったようだ。
本日のまとめ
このあと、強かにビールを床に落としました。
待ちました。
でも開けたらぶっしゅーなりました。
コーラの方がおいしかったです。

ちょっとそこまで。13

食べ過ぎで緩んだ気分とふくれた腹をもてあそんでいては、旅行の何たるかを冒涜しているような気持ちにもなってくるというものである。
温泉に行ってみることにした。
入り口の「時間によって男湯と女湯が入れ替わります」の札に何となく心躍らせながら更衣室に入ると、時間も遅いせいか。
人の姿はなく、着替えの衣類も2点ばかりしかなかった。
今でも、他人に裸体をさらすことがひける。
かといって大得意という人もいないだろうが、修学旅行じゃないんだ。
この気分はどうにかならないものかなあ。
なんてことを思いつつも、前を隠すことだけはせずに浴場へ。
予想に反して人はいないが、そのかわりでもないんだろうけど、なんか湯がぼこぼこしていた。
湧いている演出だろうか。
やや熱いが、入れないことはない。
その、赤く濁った湯船に肩までつかると、ありきたりだからとこらえようと思っていた「あー」というやつがつい口に出る。
「あー」だか「ふー」だか。
さっき、無理して大量の夕食を食べてからというものの、こんな調子だ。
言葉を成さない言葉ばかりだ。
「あー」も「ふー」も飽いて、「うぇんー」とかになってきたころ、よくわからない扉から全裸が出てきた。
忘れていた。
ここは「洞窟温泉」だった。
あーふー世代を脱却しようと、僕は彼に話しかけた。
その扉の先って、どうなってました?
「なんか、袋小路でしたよ」
全裸が袋って、なかなかセンスいいですね。
もちろんこれは言わなかったけど。
小路もなかなかですよ。
これは、思いもしなかったけど。

ちょっとそこまで。12

料理を大量にもてなすことが最良とされた時代があった。
もちろんいいことなのだが、無理にそれをすすめることは一種の暴力あるいはヘンゼルとグレーテル的な、またはフォアグラのような、畜産のような。
そんな一面も、あることはある。
だから程度を考えるべきなのだ。
しかし、本来程度を考えることが最優先であるはずなのに、別の理由を持ち出すことでそれを考慮しない方法が、なぜかおばはんによく見られるのが、人間の不思議なところだ。
男の子なんだから、たくさん食べなさい。
若いんだから、たくさん食べなさい。
育ち盛りなんだから、たくさん食べなさい。
こう来る訳である。
先日書いたように、夕食はすてきでおいしいものばかりだった。
おいしいものが周りにあり、しかもそもそもそれ自体がおいしく感じられるくらいだったから、サザエ、アワビもどうにか食道フリーフォールにかけることができた。
ところが、とにかく大量に料理が出てくるのである。
やはり海が近いからだろうか。
刺身が多い。
板前さんが腕によりをかけたんだそうである。
確かにうまい気がする。
「腕により」の「より」が一体なんなのかは分からないが、とにかく彼の好意を無下にする訳にもいかない。
この日ほど夕食を大量に食べたことは、今までないのではないだろうか。
あーとかゔーとか言いながら、食後座椅子で動けなくなってしまった。
確かに僕は男であるから、さきほどの「形を変えた料理大量もてなし法」のひとつ、「男の子なんだから、たくさん食べなさい」は該当してしまう。
しかし若いだの、育ち盛りだのは、結構前にお上へ返上している。
あんなに大量に食事をくれる理由はないはずなのだ。
ただ、僕はちっこいので、宿側の方針「育ち盛りへの支給方法」には引っかかったのかもしれない。
あるいは「こいつ体小さいな。どんくらい食べるか試してみない?」という実験が水面下で、主に賭け事を主として行われていたかもしれない。
小さくったっていいじゃないか。
ガンダムF91だって、小さくなってん!!。
ともかく食事から1時間、僕は「お腹が一杯なので、あーとかゔーとか言う」というひどく平凡な人間になってしまっていた。
東京でもやっているようなテレビも、だらだら見てしまった。

ちょっとそこまで。11

海産物が苦手な人は、案外多い。
そんな人たちにとって、海沿いの宿に泊まるということは何か。
それはサザエ、アワビの肝そのものである。
「苦手だが夕食として出されるだろうサザエ、アワビの肝との格闘」とかではない。
「サザエ、アワビの肝そのもの」だ。
楽しい旅行が全て「サザエ、アワビの肝そのもの」になってしまう。
旅行のことを楽しく友人に話しているときも、頭の中は「サザエ、アワビの肝そのもの」になってしまう。
来年の年賀状の写真も「サザエ、アワビの肝そのもの」になってしまう。
覚悟はしていたが、宿の料理はひどく豪勢。
とても喜ばしいことではあるのだ。
温泉の湯で炊いたというごはんもおいしい。
しかしミニ鍋と、その台の中に鎮座する固形燃料の鮮やかなピンク色を見たとき、ああアワビが丸ごと出るのだと思った。
ほどなくして並べられた他の器にサザエのつぼ焼きを認めたとき、ああサザエの肝をちぎれないようにくるくるしなければならないのかと思った。
坂を転げ落ちるチーズよりも速く転げ落ちている自分に気づいたとき、ああ今回ばかりは「チーズ追い祭り」じゃなくて「俺追い祭り」にはならないかと思った。
もちろん、せっかくのおいしい料理なので、すべていただく所存。
だが。