すれちがい、こんにちは。 その2

昨日、3DSの「すれちがい通信」について記したのだが、なんとなく「自分しかいない部屋で突然すれちがい通信が始まる」というのは怖いな、と思えてきた。
確か、「すれちがい通信」が発生すると3DSのどこかが明滅。
通信している事がわかるのだが、それが全く誰ともすれ違わないシーン。
自分の部屋や、深夜で誰も歩いていないアパートなど。
突然ランプが明滅するのだ。
これは怖い。
完全に霊である。
しかし、考えようによってはこう捕らえることができる。
「霊とすれちがい通信の電波?は同じである」
霊がすれちがい通信で「ひっかかってしまう」のなら、もはや3DSがすれちがい通信で出すもの自体が霊のようなもので、3DSは霊ですれちがい通信をしているわけである。
これは3DSの付喪神的な面を想像させるもので、あんがい興味深いが、一方で私たちは次の事に気づかねばならない。
「3DSからは、よく霊が出ている」
3DSこわっ。

すれちがい、こんにちは。 その1

ドラゴンクエストモンスターズというゲームをやっていると、なんとなく「人とすれちがう」ことが気になってしまう。
というのも、3DSには「すれちがい通信」みたいなものがあり、近くで3DSを持っている人がいると、その人と情報がやり取りされる。
ドラゴンクエストモンスターズの場合は、お互いが作ったキャラクターがやり取りされ、それらと対戦できるというシステムになっている。
家に帰ってきて3DSを見た時、こんだけの3DSを持っている人と今日、すれちがったのだなあと感慨深くもなるのだ。
ところで、このやり取りには「相手の作ったキャラクターを仲間に入れる事ができる」というメリットもあるため、気分的にはどんどん「すれちがい」あいたい。
となるとどんな方法が最も良いかという考えが生じてくる。
まずは大規模な駅、空港などが思いつく。
人がたくさんいるところ。
それは「3DSをすれちがいをするために持ってきました」という人もたくさんいるのである。
あとは効果があるか分からないが、以下のような方法もあるだろう。
=====
すれ違う人すれ違う人それぞれに対して一人ずつ、1回周りをまわる
存在しない、しかし大都市が関わっていそうな住所へ、3DSを送付
ゼッケンのように、3DSを衣類表面に貼っておく
岸和田だんじり祭りのおみこしに3DSを隠しておく
東北に暮らす友人に向けて、3DSをぶんなげる
=====
それぞれ、「すれちがい通信」の機会をより逃さない方法、多くの人に接するようにする方法、いろいろある。
ただ、ものによってはすれ違いではなくクリーンヒットの場合もあるためか、すべてニンテンドー非公認だと思う。

本カバーについて。

一昔前は「本カバー」というのはどこに売っているものかいまいち分からず、かといって本屋にあったかというとあまり記憶がない。
間違いない。
けっこうちゃんと本カバーを探し続けてきた僕が言うのだから。
たぶん。
しかし昨今、いろんな場所で本カバーを見かける事ができ、本も一安心といったところか。
本カバーがある事で、本屋でわざわざ紙のカバーを付けてもらう必要もなく、表紙を裏っ返すこともいらない。
まことに本カバーである。
ところでこの本カバー。
その機能は極めてシンプルだ。
それは本をカバーする事。
それで何を読んでいるのか周りに知られなくて済むし、汚れもつかない。
例えば、これに「ボールペンをさすことのできる輪っか」が内側についていたらどうなるか。
それはもう本カバーではないし、それがかぶせられた本はもう本ではない。
多機能なにか、だ。
例えば、これに「まち針をさすためのふわふわしたクッションのようなもの」がついてたりしたら、多機能にもほどがある。
このように、本カバーはシンプルでなくてはならないわけだが、唯一あったらいいのは本を買ったときについてくることのある帯を収納できるポッケだ。
これはいいし、既にあるだろう。
ここには帯はもちろん、購入したときのレシートを入れておいても面白い。
まあ、本カバーは多くの本を渡りある事になるだろうから、ポッケが膨らむ前には整理が必要だろうが。
ただ、このようにシンプルであるが故に、最近の電子書籍ブームには柔軟ではいられないのが本カバーのつらいところだ。
ここばかりはまち針の件が悔やまれる。
「でも、kindleだとまち針しまうところないじゃん?」
こういうのがないのである、本カバーには。

カラフル

初めて入るラーメン店では、一番オーソドックスなものを注文するに限る。
そう考えているのだが、そんな場面のとき、僕はいつも「ぜんぶのせ」みたいなものを頼んでしまう。
こないだもそうだった。
評判らしいエビ抽出のつけめん。
しかし僕はその日、久しぶりだったからか大量の朝マックを食べており、しかもラーメン前にサイダーを飲んでしまった。
その上で「ぜんぶのせ」的なやつを注文したのである。
そうなると、あたりまえ。
もちろんおいしいのだがそれ以上の「もう食えない」感情が発生する。
それは、結果おいしさが薄れるのを意味している。
これだけなら自分で閉じている話でまだましなのだが、重要な「おいしさ感情」が薄れてしまった事で、例えば誰かにその店のコメントを求められた時。
「まあ普通だったよ」となってしまうのである。
これはいけない。
おいしかったのだから。
「あそこのラーメン、どうだった?」
本来はこう言うべきだ。
「お腹いっぱいだったよ」
相手が「あれ、量が多いの?」と勘違いしたとしてもかまうものか。
「いや、それはお前の腹のさじ加減で、それは俺には関係ないから」と冷えていてもかまうものか。
今、気に入っていた白い帽子が、カラフルになって洗濯機から出てきた。
「あそこのラーメン、どうたっだ?」
「カラフルになって帰ってきたよ」
ざんねんである。

コード

僕は「ミセスロイド」という言葉はかなりエロいのではないかと常日頃より考えているが、じゃあ何がエロいのかと問われると困る。
それは回答できないというよりは「回答するものがない、あるいはありすぎる」のどちらかになってしまうから。
であって、要は「回答に最適なひとつ」が用意できない。
誰しも「ミセスロイド」で何かしらエロファクターを見出せと言われれば、いくらかは出てくるだろう。
僕も同じくらいだが、人は人生というものを歩んできた。
そのなかで、他の人には見出せないエロファクターを探し出せる経験もそれぞれ積んでいるだろう。
それゆえに、「回答がありすぎる」というのは十分に考えら得る事なのである。
ただそれを全て示す事。
例えば誰かに詳細に理由を話すのは、「回答がありすぎる」故にかなり個人の濃密な部分にも触れなければならないだろう。
それは自分のQRコードを渡すようなもので、あまりゾッとしない。
どうしてもっていう場合だけ、ささっとすませる程度にとどめておきたいものだ。
「え、何がエロいかだって?」
「いやあ、特に理由は、ねえ」
「でもどうしてもって言うんなら、じゃあ今夜、雀荘予約しておこうか」
僕は麻雀ができないのである。

虫盛り

毎年書いているかも知れないのだが、近くに森林を利用した公園があり、そこに沿う形の小道をよく通る。
秋から冬にかけてあたり、この小道に「お椀一杯くらいの毛虫が山盛りになっている」ことがあるのだ。
少ない年は数回、多い年だと週に一度くらいは新しい「盛り」を見つける。
できたての「盛り」だと毛虫がみんなもぞもぞしていて、戦々恐々とする。
今年は多い。
昨日も、それまでなかった「盛り」ができていて、散り散りばらばらになっていた。
そう、彼らは越冬というよりは自殺行為。
たいがい「盛り」は自然にあるいは雨にうたれて毛虫が散乱。
誰一人助からない「盛り」行為なのであるのと同時に、僕が「虫盛り」と呼ぶそれは我が家の冬の季語にもなっているのである。
あれは一体何なのだろうか。
図鑑でも調べてみたがよくわからず、ごめんそれほどちゃんと調べてない。
ともかく「盛っている」。
翌日「死んで散らばっている」。
理由としてありそうなのは、やはり越冬だ。
何か、その小道には越冬に最適な何かがあったのだ。
それを何らかの形で知っている毛虫達は、それを利用とする。
しかしその「越冬に最適なもの」はもう利用する事ができなくなっており、ただ死ぬのを待つばかり。
それがこの惨劇の背景としてあるのではないか。
惜しむらくは、この繰り返される現象に生き証人に値する登場人物が現れない点である。
例えば、毛虫間で何かしらのコミュニケーションができたとしても。
毛虫達はみんな死んでしまうものだから、誰かが「あそこで盛ってみても越冬できないよ」と伝えることはできない。
虫盛りは自殺行為。
「越冬に最適なもの」は知っているが、虫盛りの惨劇を知らない毛虫達は、毎年小道に大挙するのだろう。
先日も、虫盛りのあとの惨状の上に、新しい虫盛りができていた。
惜しむらくは生き証人がいないこと。
本当に毛虫間コミュニケーションはないようだ。

水換え

いつものようにカメの水を換えようと水槽に近づくと、そのうちの一匹が水面近くで大暴れしている。
これは「誰か近くに来たから、えさがもらえる」と思っているから出る行動らしく、うちで飼っているネコが近づいてきたとしても同じ行動をとる。
飼われているカメは、「何か近づいた」→「えさ」という至極簡単な構図から成っている。
ゆえに、誰もいないときにいきなりカメが水面近くで暴れ出したら、それはもう霊が来ていると考えて間違いなく、こうなると「カメにしか見えない霊」というのは霊としてどうなのか。
あるいは案外幸福を呼ぶ霊なのではないかと考察することもできなくない。
カメは猛烈に暴れ水をかき、もう少しがんばればそのまま宙を泳げるのではないかというくらいだ。
体の半分は水面から出ている。
そのさまをみて僕は、カメが空中を泳げなくて本当によかったと思った。
近づいてきてくれても困るのだ。
これはカメもそうだろう。
近づけても困るのだ。

気さく吹きすさぶ。

僕の家族はそろいもそろって優柔不断なので、誰かが生け贄になる必要がある。
それはたいがい「どこに食べにいくか」というもので、そのなかでたいがい僕が「なんか分からない、行った事のないとこにしよう」と提案するわけである。
その日は誰かの誕生日で、そうケーキを買ってこようかというとき、またそれが発生した。
どこのケーキ屋がいいのか。
最近我が家で評判のあそこにするか。
あそこはいつぞやのイベントで食べたぞ。
なんてことになりながらも決まらず、結局僕が「なんか分からない、行った事のないとこにしよう」と提案。
目的なく車を走らせたのである。
人間には、どれほどの「よく通るが入った事のない店」があるのだろうか。
それが「よく通るが入った事のないケーキ屋」になると少しはしぼられるだろうが、どちらにせよ多数。
多摩川の河川敷にあるグラウンド数よりも多いだろう。
そんななかの一店にてケーキを所望しようと思ったのである。
僕らが思いついたのはそう、まさに「よく通るが入った事のない店」で、とにかく「よく通るが入った事のない」ことで我が家で有名だった。
喫茶店らしきそこは、ケーキも売っているらしく、とにかくらしいことしか分からない。
今回のようなケースにはうってつけの分からなさだった。
台風の中、我々はケーキが買えるのかはわからないそこへ向かっていった。
道路は水浸しで、なんとなくケーキを買いにいくような天気ではない。
それでもそこに到着した。
そして妙にそこが混んでいることに気づいた。
駐車場が満車なのである。
案外有名なのかもしれない、台風なのにこんなに混んでいるなんて。
搭乗者が雨の中、喫茶店の中へ入っていく。
そしてすぐ出て来た。
なんと、ケーキは先ほどの客で売り切れてしまったのだという。
なんだ、「よく通るが入った事のない店」は「よく通るが入った事のない、ケーキがうまいらしい店」だったのだ。
仕方ないと車を発進させようとすると、店内からマスターらしき人がずぶぬれになりながら走ってきた。
ケーキの買えなかった我々に申し訳ないと思い、売り物ではないがケーキの切れ端をロールしたものを持ってきてくれたのだ。
それは甘さ控えめで、しかも「ケーキの切れ端」という、それだけでおいしさが見出せそうなもの。
実際、非常にうまい。
よって、この店は「よく通るが入った事のない、ケーキがうまくマスターが気さくな店」と、けっこう希有な存在となった。
台風に誕生日の人が家族にいて、よかった。

あやかし

最近のテレビ番組はいつからそうなったのか。
ぼやかしやモザイクがいろんなところにある。
広告的な何かに触れるのだろうか。
町並みの映像でも、メーカーロゴの入った看板などは軒並み見えなくなっている。
人間とはあさましいもので、どちらかというとその消された方が気になるものだが、ともかく消す明確な理由が分からない限りは、なんとも妙な気持ちになるものだ。
しかし、例えばこれはどうだろう。
「グルメレポーターが何かを食べているが、その口元にモザイク」
以前も触れたかも知れないが、ある有名な芸人は物を食べるという行為を恥ずかしいものと考えた。
あんがい、そう感じている人は多いかも知れない。
口元のモザイクを見た場合、そういうことを思い出す人もいるだろう。
しかし一方で、何の変哲もない「口のもぐもぐ箇所」をなぜ隠す必要があるのか、疑問に持つ人もいるだろう。
このグルメレポーターの口は横に開くのだろうか。
舌が二枚あるのではないだろうか。
夢広がるのである。
ぼやかし、モザイクは本来、隠す目的があるのだろうが、このようにむしろ想像を膨らませてしまうこともあるわけだ。
首元にモザイクがあれば、ああマフラーのねじれがうまくいかなかったんだな。
両脇にぼやかしがあれば、ああ汗かいちゃったんだな。
正露丸にそれがあれば、ああどこのやつか判明してほしくなかったんだな。
コーラ状の飲み物にモザイクあれば、ああペプシの提供なのか。
しかしコーラ状の飲み物にモザイクがかかると、むしろ炭酸感が出ていいなだとか。
どうであれ、こう支離滅裂に列挙しているのは、そうまとめる気がぜんぜんないからなの。

たいてい口内炎

口内炎ができていて、もう何を食べても、その50パーセントくらいしか良さがわからない状態だ。
氷で冷やしたりモンダミン的なもので痛みを麻痺させたりもするが、それは一過的な効果しか見出せず、まあモンダミン的なものは治癒にも役立っているかも知れないが、とにかく痛い。
下唇を噛んでしまったのだ。
口内炎は上の歯と下の歯のあととして2つあり、どうも上の葉の傷が悪化してしまったようだ。
こう、口内炎の痛さを実感していると、なぜ吸血鬼が上のキバをわざわざ人に見せるようにしているのかが何となく分かってきた。
あれはキバの収納スペースがないのだ。
そして無理に口の中にしまおうとすると口の中を傷つける。
本意ではないキバ出しなのだろう。
おそらく、彼らのキバから吸血鬼である事を指摘した時、彼らはあわててキバを隠そうと口を閉ざすだろうが、そのとき「つっ」と言うに違いない。
「いつっ」かもしれない。
どちらにせよ吸血鬼には吸血鬼なりの不便なことがあるようで、それなら「口内炎にイソジンを付けると治りが速いよ」とか教えてあげたいところ。
だが、吸血鬼とイソジンを考えた時、これまた「吸血鬼には吸血鬼なりの不便なこと」に触れたりやしないかと、どうも異種間のコミュニケーションは難しく。