多少は包丁を扱える。
ここではもちろん「にんじんを切る」だとか「じゃがいもの皮をむく」という意味での扱えるだが、考えてみると「扱える」という言葉では少々範囲が広過ぎる。
こちらが意図しない内容も「扱えてんでしょ?」と思われなくもない。
「UFOキャッチャーの500円を入れる方の穴には、500円が入ったかどうかを判定できるでっぱりがあり、それは包丁の先にも反応する」
本来こんな機構はないと思われるが、とにかくこうだとしよう。
そのとき、店員さんの目を盗んで包丁を500円の穴に突き立てること。
これは「扱える」という言葉の範疇に含めていいのか。
少なくとも、「カレー」と銘打った話の中での包丁の「扱い方」としてはふさわしくないのではないか。
そしてそんな機構がなくとも、単に「UFOキャッチャーの500円の穴に包丁を突き立てる」こと自体がもう異常。
その場にいたら、UFOキャッチャーにそういう機構がないわけであるが、どうせならあってほしい。
親のかたきがUFOキャッチャーの500円の穴に逃げ込んだことを子供の時見たにちがいない。
そのくらいに思う。
異常な行動というのは、何か理由づけされれば少しは安心できる部分があるから。
ということで何がいいたいかというと、僕は「規定量の1.5倍くらい多めにカレールーを入れるとおいしい」って思ってること。
投稿者: nimbus7942
リンケージ、キャンプ。
町内のイベントなどにキャンプというものがあったが、僕は小さい頃からあれは嫌いだった。
とにかく、話す事がないのだ。
今でもだが、そういう事については僕は子供のままで、どうも相手のことを思う気持ちというものが足らない。
幼少時は何も喋らず、今ではすごく喋りすぎ。
最近の僕を見るものの幾人かは「nimbusさんがずっと喋っていて終わった」という、思い返すと申し訳ないという言葉しか浮かばない飲み会であったり、「身のない話をするところには高得点を付けねばならぬ」といったあまりうれしくない評価。
どちらであったとしても、キャンプのあの「テントの設置などの時間が終わって一段落付いたときの感じ」には合わない性格である。
しかも、いるのだ、キャンプには。
はりきっちゃうやつが。
そういう人がいると、彼に仕事をゆずるべきなのか追随していくべきなのか。
あるいはまったく違う事を効率的にやるべきなのか。
これが全然分かんない。
一度、みんなでカレーを作っているときに僕は「川辺に石を並べて小さい池を作る」仕事をしていたが、これはあまり評価を得られなかった。
むしろ遊んでいたと思われていた。
それについて否定はしないが、一方でそんなにカレーにみんな一斉に向き合わなくてもいいのに、と池を作りながら思っていた。
俺は池を作り、その中にアメンボを投入したのだ。
ほらみんな、カレーもいいが池もどうだい?。
特に苦手なのが「異性がいるからはりきっちゃうやつ」で、そういう人がいると「その方面は彼に任せておくか」と川に大きな石を投げてどれだけ水を高く跳ねさせることができるかをやる仕事をやってしまい、これは生物として僕はよくない。
異性がいるのならはりきるべきなのだが、僕にしてみれば川が近くにあるというのはなかなか魅力的で、石をひっくり返して変な虫がぞわぞわ石の裏を這うところも見てみたくなるもの。
ほらみんな、異性もいいが変な虫もどうだい?。
そういえば国連食糧農業機関(FAO)というところが最近(現在20130520)、昆虫食を勧める見解を示していた。
そして結構最近でも、僕自身が「変な虫がいるからはりきっちゃうやつ」であるらしいことを思い出した。
リンケージ、呪う。
何かを呪うということは一見、許しがたい卑劣な行為であるが、程度によってはどんな人でも日常的に呪ってしまっているのではないか。
「えっ、今みんなキャンプ行ってんの?」
もう耳を塞ぎたくなる人がいるかも知れないが、これである。
「えっ、今みんなキャンプ行ってんの?」
誰しも昔経験した、あの感じの事象である。
こんな経験はした事ないという人を、僕はあまり好かない。
さて、このとき「なんだよー僕も誘ってけよー」という感情を「呪っている」と感じる人は少ないだろう。
しかし考えようによっては「自分を呪っている」という点で、呪うことは行われている。
なんで俺はキャンプに必要な、あるいは誘いたくなるスキルがないのだろうか。
確かに、自分を呪うくらいしかない。
一方で、「あいつらなんか」という負の感情を持つ人もいるだろう。
単にそれを直接的な行動に移さない限りは、他人との関係に不具合が生じるとも思えず、どこかしらでそんな考えは発生してもおかしくはない。
ただ、先ほどの「自分を呪う」というやつに比べるとだいぶ「呪い」っぽくていい。
もっと真っ向に「あーもう呪う!!」という人もいるだろうか。
キャンプで火種をなかなか見つけさせない呪いなどは、この場合実用性が高そうだが、やはりそんなことで人を呪うのはどうか。
人を呪わば穴二つというはひとつは自分の墓穴のことらしい。
火種を見つけにくくした呪いの代わりに、自分には「永遠に耳かきのカーブがフィットしない」という呪いであるかもしれず、これはあまりに差がありすぎるが、どこかにいるだろう「呪いマイスター」としてはどちらも呪いであることに変わりはないと判断するだろう。
多少なりとも呪うというのは止めておいた方がよさそうだ。
僕はどこかで粗相をしたのか。
耳かきのカーブの点について「以前書いた事を忘れてしまってまた書く」という呪いがかかっている模様。
リンケージ、ラムネ。
何度も書いているため恐縮だが、僕はラムネが好物で、与えられたら与えられた分だけ食べてしまう。
それゆえ数多の種類があるラムネにはうるさい。
さて、諸君はあの駄菓子、ラムネごときに「うるさくなる」要素などどれほどあるんだと、そのカラカラ鳴る頭をかしげている事だろう。
当方空洞の頭の中に「カラカラ鳴らす」物すらない者だが、その要素の意見に同意見。
ラムネにそんなたくさんの要素を見出すのは普通、必要ではない。
ただ、ない訳ではない。
これも以前書いたと思うが、主に食感。
特に水分に溶けるさまについてはラムネの種類によって結構違う。
それは僕にとって「ラムネにうるさくなる」、数少ない要素のひとつである。
そんなラムネ会社に表彰されてもいいと思っている僕だが、最近気になるのは「歯が痛いような気がする」という人類にとって避ける事のできない事件の予兆についてだ。
ラムネの食い過ぎで歯が溶けてしまっている気がする。
ラムネにはあるのだ。
「何か酸っぽいから、何かを溶かしていそうだ」という面が。
多少溶けるのなら、むしろ歯がぎざぎざになり肉を挽きちぎりやすいという面で有益かも知れないという、超ポジティブシンキングもありえる。
しかし実際に歯が痛くなっては、ただラムネとそればかり食べてきた僕と、表彰してくれたラムネ会社を呪うばかりになってしまう。
それではいけないので、ちゃんと歯磨きをしよう。
ラムネも控えよう。
ちょうど昨日、業務用のラムネの一袋がなくなったのだ。
カレンダーについて
考え中(2013年05月12日現在)。
おおみそか
来年も、よい年でありますように(2013年05月12日現在)。
リンケージ、空腹。
恐ろしい事に、最近は夜ご飯しか食べない。
一日一食で済む計算になり、これは一種の病気か。
あるいは悟りがひらけたのか。
確か宗教法人法の何条かになかったか。
「食べ過ぎないこと」
「食べ過ぎない」を突き詰めると「無食」ということにでもなるのかも知れないが、それは光合成だとか、体内で他の生産能を持つ生物と共生関係にない我々ホモにとっては難しい事だ。
なんとなく意味ありげにホモサピエンスを表現してみたが、ともかく難しい。
そのうえ何か誰かに怒られそうな感じで恐れおののいているのだが、ともかく食わない。
しかも、あったらあったで食べてしまうので、悟りってるわけでもなさそうで、こうブログにでも書いて終わり、という小食さである。
ただ、これは意図している訳ではないが、自分の体に「空腹」というものを経験させたい、という妙な願望がある。
トマトは与える水を少なくすると甘みが増すというじゃないか。
甘みが増す、かどうかはともかく、一種の飢餓状態を経験すると何か体にいいことあるんじゃないか。
と、ここにきて「ほとんど食べてない」と話している最中で何なのだが、この「食べてない」という状態にはラムネのことは入っていない。
今、大量のラムネが僕のところにあり、それを毎日浴びるように食べていることを思い出した。
ラムネを食っている分には飢餓状態、じゃないよね・・・?。
リンケージ、よだれ。
幸か不幸か、僕はおいしいものを見たときや結構空腹であったとき、よだれを垂らす事はない。
もしかしたらよく漫画などで見る「おいしいものを見たときや空腹のとき、口から垂れているもの」はよだれではないあるいは「おいしいものを見たときや空腹のときのシンボル」なのではないか。
そんなことは気にする事なく、こう生きてきた訳です。
ただ、よだれを垂らした事は何度もある。
それはたいがいぐっすり寝ていたときで、あるときは寝室で。
あるときは電車の中で。
電車のなかでの「ぐっすり寝」はなかなか危険で、詳細を知る者の話だと僕は大口を開けて眠りこけていたらしい。
そしてそこから一筋のシンボルが流れ出ていたのを座席の前で立っていたおばさん達に見られ「あらあら」「疲れたのね」みたいに評されていたというのだ。
恐ろしい。
できれば「詳細を知る者」にそうなるまえに起こしてもらいたかった。
「詳細を知る者」には「詳細を知る者」になってほしくなかった。
ただ、やはり眠っているときのよだれはちょっと防ぎようが思い当たらない。
僕は鼻がよく詰まっているため、寝ているときはよく口を開けて呼吸するのだが、そうなると余計によだれチャンスは増えてしまう。
どちらかというと、睡眠時のよだれを防ぐのではなく、睡眠時に流れ出たよだれを以下にさりげなく処理するか。
こちらのほうに興味がある。
やってしまうのだ。
寝起きなものだからティッシュを用いるということを忘れてしまい、手で拭うというブラキディオスみたいなことを。
または啜ろうとしたりと、誠にさりげなくない。
さりげないよだれの処理方法を今考えてみたら「出ていたよだれを厳かに小ビンに取り分ける」で、周りから見たら「あ、この人はよだれの成分を研究している人なんだ」とか思わせれれば、まあさりげなくはないですね。
リンケージ、さつまいも。
さつまいもが昔から好きで、特に熊本県の天草地方の名産「こっぱもち」は非常にうまい。
これはさつまいもをうまい事もちっぽくしたもので、上手に焼かないと「レンジの受け皿をこっぱもちでコーティングしたの?」という感じになるが、まあともかくうまい。
近所の八百屋で売られている焼き芋が「あまいよっ」とか流れている割には恐ろしく甘くなく、何となくだまされた気になる。
さつまいもで嫌な思い出といったらこのことくらいしかない。
僕の祖母はこっぱもちと同じところ出身なのだが、さつまいものことを「アメリカいも」と言うときがあったことを思い出した。
確か、さつまいも全般の事を指す言葉なのではなく、いもの中身が鮮やかなオレンジ色のもののことをそう言っていた。
「アメリカいも」は普通のよりも甘く、彼女が幼いころなどは珍重されたのだろう。
「アメリカいも」と口にするたび、よだれがほとばしっていた。
ごめん、ほとばしるのはうそだが、「アメリカいも」という芋カテゴリが彼女にあったのは事実。
そして、僕もそのオレンジ色のものや、もっと大変な濃い紫みたいなさつまいもを見た事がある。
これらはおそらく細胞内の色素がそうさせているのだろうが、それはさておき「土に埋まっている部分なのに、何をそんなに色づく事があるのか」という疑問が生じる。
甘い大根という、ただ想像すると恐ろしいしか頭に浮かばないビートと呼ばれる野菜も、結構紫だった気がする。
うどやホワイトアスパラは色素があまりなくて白かったような。
他の、地中にある植物も色素がなかったものが多い気がする。
なぜ鮮やかなんだ。
人に、土から引っこ抜いたときの感動を与えるためなのか。
あるいはまな板で切ったときの感動を与えるためなのか。
たまたま鮮やかな色素ができちゃって、それの置き場がないだけなのか。
どうであれ、人に感動を与えようとしてくれている方がいいっちゃあいい。
そっちにしよう。
となると次の疑問はなぜ「アメリカいも」という名前なのかということだが、こちらはアメリカに任せよう。
リンケージ、たき火。
昔はたき火をしていたはずなのだ。
目の前が森林を利用した公園というタタズマイであるがゆえ、アラブの石油王における石油のように、精霊界の落ち葉王における落ち葉。
必要性はなかったのだが、秋の終わりと冬の始まりを告げる精霊界の広瀬香美的な人、落ち葉王を創作してみた。
とにかく落ち葉には事欠かなかったというか邪魔だったため、集めて燃やしていたはずなのだ。
しかもその中には、さつまいもを入れて!!。
しかし現在、たき火なんかしていない。
確かに、以前よりも落ち葉が少ない気もする。
誰かが掃除してくれているのか。
車の交通量の増大などにより、あまり溜まらなくなったのか。
ただ、落ち葉があったにしても、もうやらないだろう。
それは以前に比べて、近所に家がたくさん建ってきたという理由が大きいだろう。
何だか最近、洗濯物が汚れるんです、なんてことがあった日には、はいそれ我が家のたき火のせいですごめんなさい、となる。
焼き芋は魅力的だが、それで誰かの洗濯物を汚すんであればたき火なぞせず、いもはどこかで既製品を買ってくるわい、という感じだ。
しかし一方で、あのたき火の暖かさというものはなんかよかった、という感慨もある。
たき火で感慨とくれば童謡かなにかで「たきび」という歌があるでしょう。
あの歌の「たきびだ、たきびだ、おちばたき」ってやつね。
あの「おちばたき」っていうのが確かほぼたき火のことのはずなんだけど、なんで言い換えたかね、3回目のところで。
ということで調べてみたら、どうも「秋に落ち葉を燃やすこと」を「おちばたき」というらしく、それは四則演算にしてみると「たき火 + 秋」ということらしい。
季語なのだろうか。
ともかく、この結論については特に感慨は起きない。