無断で超越

かねてより、僕は「ハッピーバースデーを歌うマリリン・モンロー」のモノマネが、もっと市民権を得てもいいと感じていた。
それは、一度見たことある人は必ずと言っていいほどできると思うくらいユニークで、まねしやすいものだ。
このあいだ、久しぶりにまねしてみた。
そうしたら、驚いた。
まねしているときの感じが、なんだかバナナマンのやる貴乃花に似ているのだ。
あの、バナナマンの、名前は出てこないんだけど、濃厚な方がやる、貴乃花。
そういえばあの貴乃花のモノマネは秀逸だ。
見る人はこう思う。
「もう、これは貴乃花とか、モノマネとかじゃない。シンボルだ。」
そう。
バナナマンの脂質な方がやるモノマネは、幼い日の貴乃花の、数少ない映像から得られたあらゆる情報を蒸留、凝縮した、貴乃花エッセンスだ。
そのため「幼い日の貴乃花」という観点からすると、バナナマンの何かが噴出していそうな方は、貴乃花を超えた貴乃花となった。
他人が本人を超えてもいいのだろうか、という疑問も生じるが、とにかくバナナマンの「リバウンド」の言葉が似合う方のやる貴乃花のモノマネは、そこまで昇華したのだ。
それに比べて、僕のマリ・モンは、なぁ・・・。
そして、バナナマンの名前はなんだっけなぁ・・・。

僕はくぎった。

神「最近、物事をまとめだした神がいるぞ!!」
神々「邪魔してやろう。邪魔してやろう。」
神「そこで、物事をくぎって、細かくすることにしました。」
神々「いいぞ。いいぞ。」
神「犬なんだけど。」
神「犬は、チワワからセントバーナードまで、かなりくぎりやすそうだぞ。」
神「そうだ。そうだ。」
神「僕の友達が、犬は片手で持てるか持てないかが分かれ目だって言ってた。」
神「手のひらに乗るってこと?。」
神「いや、犬の前足の間、後ろ足の間に腕を通して持ち上げるらしいよ。」
神々「おぉ…。」
神々「なんか、その愛くるしい感じのと、「くぎる」っていう言葉のギャップがなぁ…。」
神々「なんか、だめだよね。」
神「じゃあ、「くびる」は?。」
神々「おまえ!!。怒るぞ!!。」
神「なんだよー。くぎるのは賛成してくれてたじゃんかよー。」
神々「ぜんぜん違うじゃないか!!。いいことと悪いことがあるぞ!!。」
こうして、この神はくぎられた。
神はその後「サターン伯爵」と名乗り、数々の「くぎりによる細分化」(服のサイズ、雑貨、お笑い文化など)を巻き起こしたことは記憶に新しい。

僕はまとめた。

ついてないらしいよ。

「どんなに勧誘の人に声をかけられてもいいが、マクレーン警部補だけには声をかけられるな。」
ろくなことにはならない。
「No」などと言うような状況にしてはならない。
というのをいつか書こうと思っていたら、ダイハードの4が今度やるらしい。
時事的な話題は避けるのが当ブログの考え方なのだが、そうも言っていられない眠たさだ。
その証拠に、みてごらん。
今日の内容は、これで終わりみたいだ。

イメイジャーズその2

昨日からの続き
【あらすじ】
人は、本を読むとき、登場人物に何かしらのイメージを投影してしまうらしい。
それは一体何なのかを考えてみる。
ぶっちゃけ、そのイメージとは、幼いころの母親、父親像とか、そんなんです、たぶん。
まぁ、後は好きなコとか、グラビアアイドルとか、最近よく目の合うクラスの人気者、藤本くんとか。
そして、いろいろな経験から生み出された理想の男性、白馬の王子さま、同じく理想の女性、純真無垢な少女ですわ。
だから、映画を見て「原作のイメージとぴったりだった!!」というのは、「私の理想の男性とぴったりだった!!」ということになり、
あなたの、白馬の王子様はキムタクであり、オダジョーとなります。
現存してよかったネ。
白馬の王子様。
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結論が当たり前かつテキトーで申しわけないが、
本を読むというのは、自分の内側の一片を読むことに他ならないのかもしれない。
ちなみに。
僕が本を読んでいるときの登場人物の声は、男であろうが女であろうが、全部僕っぽい。
「っぽい」がつくのは、本を読んでいるとき、そんなことは気にしていないからである。
「本を読んでいるときの登場人物の声を録音できる装置」があったら。
…この設定って、結構いぢれる内容ではないかと思うが、どうか。

イメイジャーズ

原作が映画化なんかされると、必ずこういう話が出てくる。
「主人公のイメージが、原作と違う」。
別によいことだが、この事象によって、定義できる事実がある。
「本を読む時、人は登場人物のイメージを作る。」
先ほども言ったが、決して悪いことではないはずだ。
原作者も「俺のポルニムにそんなイメージのせやがって」とか言わないはずだ。
もちろん、僕が今回言いたいのはポルニムのことではなくて、生み出されるイメージの方だ。
これは、一体何なのだろうか。
上記の「主人公のイメージが、原作と違う」では、原作の既読者は、もう自分なりのイメージを主人公に持たせていることとなる。
ここで重要なのは、
多くの物語では、主人公がキッチンタオルや爪切りではないという点である。
原作の主人公は男、もしくは女であり、そうでなくても中性的であったり、人でなくても人間的な感情を持ち合わせていたりして、それほど今回の話題から遠く離れるものではない。
もし、そういったものを持ち合わせていないキッチンタオルが主人公だったら、おそらく文学界とキッチン業界に波紋を投じる。
だいたいの作品は、文学界に波紋を投げかけたいとしても、キッチン業界に波紋を投じたくないと思うので、こういう主人公は立てないであろう。
したがって、我々は「キッチンタオルのイメージが、原作と違う」というシーンに対して気をとられることはないと言える。
僕が気をとられるのは、たとえば男の読者が物語の女性パートを読むとき、どういうことになっているか、ということである。
読者が、異性のパート部分において何かしらのイメージを持つとするなら、そのイメージはどこからのものなのだろう。
本来、異性のパート部分なんて、読者は持っていない場合が多いはずである。
よって、そのイメージは外来であるはず。
何が起因なのだろうか。
明日に続く。

アルティメット就寝

言葉というものは、その有用性や汎用性がゆえ、どこでも見ることができます。
一見言葉がなさそうな場所でも、水の溜まった空き缶があれば、大量にわきます。
ちょっと前、検索されないだろう言葉について書きました。
ポメッロ
ぴんこもち
昨今、検索されやすい言葉への関心が尋常ではありませんが、
逆に「ありそうだけど検索に引っかからない」言葉を考えることに脚光が集まらないのは、ちょっと意外。
だいたい何かしらのメディアで出てそうなんだけどなぁ。
既に誰かやってたら、ごめん。
僕、後発であることを、ここに宣言します。
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「ありそうだけどなさそうな言葉」を考えてみました。
【制約】
・基本6文字以内(漢字は一文字とする)
・「ぎょり値踏み」など、明らかになさげなやつはだめ
・基本、そのときの気分によって基準は上下する
・生まれたて、もしくは使われることに慣れていない言霊なので、やさしく接する
検索で、なさそうなキーワード集
・虫みそ
:文字どおり。
・ブログっち
:これも文字通りだけど、ありそうではあります。
・鳥岩肌
:なんだろうねぇ。
・コンパクティー
:使っている人はいまい。それにしてもコンタクティーと似てる。
・マリッジピロー
:これはいいとこついているのではないでしょうか。
それにしても、後半は制約越えてるねぇ…。
気になる人は検索してみよう。
僕はあんまし気にならないので、シングルピローで寝ますわ。
ちなみに「ぎょり値踏み」は、二人の男が電車に乗っていて、片方が向かいのドアに立っている女の子をじろじろ見る。
それに対してもう片方が「お前、ぎょり値踏みするなよ。」
こんな感じで使われる言葉だと思います。

正しさニッチ

俺は正解なんて、ひとつも知らない。
だが、間違いは知っている。
例えば暇なとき、電話を誰にかけるかなんてものに、正解はない。
だが、電話自体に話しかけるのは、間違っている。
だって、電話はレスポンスないだろ?。
どこの国の主張が正しいかなんて、知らない。
だが、多くの人を傷つける行為が間違いだってことは、知っている。
だって、自分に置き換えてみたら、当たり前だろ?。
週刊誌に載っていることが全て正しいかなんて、知らない。
だが、子供向け週刊誌「そーなんだ!」の、以前やっていたCMで「そーなんだ!」と言っていた女の子の、はきはきし過ぎた笑顔は、間違っている。
だって、はきはきし過ぎた笑顔の子供は、ちょっと背景を考えさせすぎだろ?。
・・・あぁ、もちろん。
最後に取り上げた話題のセレクションが間違っているなんてことは、既に把握済みだ。

天使何人とまれるか

ドライブをしていると、お年寄り介護関係の建物があった。
「天使の○○」という名前だ。
姉はそれを見て「ちょっと、ニアピン過ぎる」と言った。
僕も同感だ。
だが、姉には、他にも思うところがあった。
知人に聞いた話によると、介護関係の仕事は人手が少なく、大変なのだそうだ。
だから、そのイメージと天使のギャップに違和感を覚えたらしい。
そんな調子で、またポツリとつぶやいた。
「天使があんな殺風景な家に住んでんの?。」
おそらく訪問タイプの介護サービスが主な仕事なのだろう。
確かに、大きな看板に反して、寂しげな、二階建ての一軒家だった。
でも、その一軒家を見た僕は、確かに天使が来ているかも知れないなぁと感じた。
一階に、出入り口が見当たらなかったのである。

ぶら下がるのが、やめられない。

うちの玄関には植木が置いてあるのですが、そこにみのむしがぶら下がっていました。
それも2個。
ならんで。
なかなかいい具合なので写真に撮りたかったのですが、あいにく出かける途中。
兜の緒を締めながら、父親に「撮っといて」と頼みました。
さて、帰ってきてからそのことを聞くと、驚愕の真実が。
父親は「取っといて」と解釈したらしい。
幸運なことに父親は「取っとくこと」を忘れてしまったため、みのむしはもがれずにすんでいました。
みのむしは、そのイモムシライクな風貌を隠してくれているので、案外いいやつだと思っていたけど、嫌いな人もいるようです。
確かに木とかを食い荒らすのかもしれないけど、一般家庭にとってはそれほど深刻な問題でもなさそう。
やつらがぶら下がっているのを見ると、なんだが楽しくなるんですがねぇ。
何で嫌いなのかな、と考えたら、2秒くらいで答えがわかりました。
みのむしが嫌いな人は、小さい頃、近所のお兄ちゃんに教わったのです。
「あの、木とかにぶら下がってる、あれな。中にかっぱえびせん入ってんねんで。今度開けてみ。」
これは嫌いになります。
悪いヤツがいたものですね。
でも、ホントはそんなことないヨ。
あとひくうまさ、かっぱえびせん!!。
お子様のおやつに、おつまみにもどうぞ!!。
広範囲にフォローしといた。

チッチ

「舌打ち」が、嫌いだ。
怒っている。
いらいらしている。
それを「舌打ち」によって表現しているわけだが、たいていそんな人は、舌打ち前から十分に表現できている場合が多い。
相手を責めるような口調。
同様の意味を持つ無言。
眉間に寄せられた、しわ。
ジャンプ大K→しゃがみ中P→真空波動拳。
本当は、これらだって嫌いだ。
もちろんやってしまっている本人も、嫌いに違いない。
ちゃんと考えれば、責めるのは何かそういう遊びに興じていたとき、無言は「結婚しよう」とか言う前の段階、寄せられるのはおたより、真空波動拳は何かそういう遊びに興じていたときの方がいいって思うはずだ。
そこにきて「舌打ち」である。
怒ってますよパワー、いらいらしてますよパワーを増長させ、相手を困窮させる効果しかないではないか!!。
そんな舌打ちに対して、僕は「お前は小鳥か!!。」とよく言ってあげている(言える人にだけだが)。
舌が打つのは鼓くらいでよいのだ。