「桃太郎」を知らない人に、そのストーリーを説明する。
「桃から生まれた人が、犬、猿、キジを連れて鬼退治する話だよ。」
「桃太郎」を知っている人の幾人かにとっては、もうちょっと詳細を加えてもいいと思うような説明である。
詳細
・おじいさん、おばあさん
・鬼を殺すため、木刀を振り続ける日々
・きびだんご
・おばあさん手作りのオール
・鬼ヶ島
・必殺・真空鬼殺斬(しんくうきさつざん)
・幽閉されていたお母さんに出会う
・必殺・真空鬼殺斬(しんくうきさつざん)
でも、単純な方が、相手に伝わる。
詳細はその後でもいいのだ。
しかし、ここで相手が「桃」と「犬、猿、キジ」、「鬼」と「退治」というものだけを知らなかったとすると、どのように説明すればよいだろうか。
「桃太郎について説明します」
この段階で「桃」が分からないのである。
私は断言する。
多くの人が「あんず太郎」と例えるだろうことを。
そして、この例えで我々は気付く。
つくづく「桃太郎」は「桃」から生まれてきてよかったなぁ、ということである。
「あんず太郎」
明らかに駄菓子的な商品名である。
※もちろん、逆説的には「我々はよく桃太郎を刷り込まれているなぁ。」となるが。
そんなこんなで「桃太郎」は「あんず」から生まれることとなった。
桃太郎が生まれた「大きな桃」に対し、「大きなあんず」が私に与える違和感はかなり大きい。
保守的な証拠である。
とにかく、これで「あんず太郎」が「あんず」から生まれたところまでは説明できただろう。
つづきは明日だな。
追記
ここまでの留意点は、桃のニュアンスを伝えたい場合のケースをあまり考えていないところだと思う。
桃があんずに変わっても大丈夫だと思うけど、実はストーリー上、もしくは個人的な理由で「桃でなくちゃ!!」の場合は、相手に桃を見せてあげよう。
投稿者: nimbus7942
火に、入る。
とある夜。
とある建物から出たいと思った僕は、塀の前に立っていた。
そこは正門にさえ行けば、どんなに深夜でも通過できるのだが、いかんせん遠いのである。
※駆け落ちした妻のお母さんが病気になってしまい、もう長くはないとの連絡が来たのが、土曜日の明け方だった。
「どうしても私達夫婦のことを見てもらいたい」と、妻が15年ぶりの帰郷を望む。
「あれから、ほとんど連絡してなかったっけ。」
電話があっても、あまり取り合わず、ないがしろにしてきたお義母さん、お義父さん。
駆け落ちだから、という負い目もあるけど、いい機会だ。会いに行こう。
こういうときの、妻の実家と私(夫)の距離くらいに、遠い。
したがって、めんどい輩は塀を乗り越えて外界へ行くという手法を取るのだ。
※上記の例でいうと、頻繁にメールのやり取りをする感じ。
もちろん僕もそう。
徒歩で正門に向かうくらいなら、足をくじいた方がマシだ!!、と思っている。
※上記の例でいうと、野球クラブに入ったはいいが、どうしても行きたくないときに、わざと布団をかけず、お腹を出したまま寝ようとする感じ。
ということで塀の前。
なかなかに高いんだ、これが。
※上記の例でいうと、網走での日々。
でも、慣れているので大丈夫。
その日も、塀に手をかけ、颯爽と飛び越え、警官の前に着地した。
警官。
何の因果か。
巡回中のおまわりさんの前に着地してしまったのである。
たいていのシーンで、間が悪いことをしてしまうと感じている僕だが、このときばかりは自分を「天才かも」と思った。
観客がおまわりさん2人だけというのが、癪だったが。
深夜、塀を乗り越えてきたサンダル姿の僕に、おまわりさんの一人が
「きみ、とりあえず怪しいよね。」とたずねた。
僕は「そうですね。」と答えた。
つむじ風、舞う音も。
日曜日のテレビは、何故かゴルフが多い。
ルールとか分からないので、あまり見ないのだが、こないだ、たまたま見ていると気になることがあった。
グリーン上、選手の打ったボールが穴に落ちる瞬間、
「かんからかん」と聞こえたのである。
その音がすること自体は問題ないのだが、それを拾っているマイクはどこにあるのだろう、と思ったのだ。
もちろん、グリーン上に音声さんや、あの、大きいつくしのようなマイクは映っていなかった。
まず考えたのが、「穴の横」あたりにマイクが仕込まれているというものである。
テレビでは、ボールが穴に入ったかどうかが見づらい場合があるのかもしれない。
したがって、その世紀的瞬間を逃さぬために、穴にマイクを仕込み、視覚以外の感覚機器でもホールインスリーとかが分かるようにしたのだ。
しかし、この考えは、穴との距離が結構ある選手がボールを打った瞬間に「こつ」と聞こえたことで、再検討が必要となってしまった。
ボールが穴に落ちるときも、選手がボールを打つときも、音がひろわれた。
第一打を打つような、強いショットではないと思うので、本来の音はそんなに大きくないはずだ。
これは、選手かキャディさんがマイク係も担っていると考えて、間違いないだろう。
※ちょっと意外なところでゴルフクラブに仕込まれていることも考えられなくはないが、ボールを打つときに単三乾電池がぼろーっと出たりすると思われるので、可能性は低いだろう。
また、ボール自身にマイクもありえそうだが、ナイスショットが空中分解し、ボタン電池がきらめいた、という話は聞かないので、ありえないだろう。
でも、この「選手・キャディさんマイク所持案」にも、疑問点が残る。
選手とキャディさんの会話が、ひろわれていないのである。
いや、ひろっていても、それをうまいこと放送しないだけかもしれないが、少しくらいは「あれ、帽子変えた?」くらいの会話が聞こえたっていいではないか。
いや、たまたま僕が見たヤツでは、会話が入っていなかっただけで、いつもの放送ではバリバリ「めちゃイケ」についての会話が入っていたりするのだろうか。
当たり前かもしれないが、選手とキャディさんはそんなに喋らないのかも知れない。
打つときはなおさらだ。
うーん分からない。
もちろん、会話でなくても、独り言をマイクがひろっていてもいいのだ。
「風は、と・・・。」とか
「生きろ、生きろ、生きろ・・・」とか
「もう、20ワットだな・・・。」とか
「鈴木、間違えて逆方向にショット打て、打て・・・」とか。
もしマイクが選手に仕込まれていたとしても、独り言がこんなんばかりだったら、確かに放送しないようにするな・・・。
まぁ、結論が出ないので、アフレコということにしておく。
技術の進歩である。
「そろそろ和名で呼んでくれ」
「おっと。そんなことしたら、俺のにゃーにゃが許さないぜ。」
こんなフレーズが沸きました。
幼い子が、猫のことを「あ、にゃーにゃだ?。」とかいうと、ほほえましいものがあります。
しかし、なぜ「にゃーにゃ」なのでしょうか?。
彼、彼女らは、あるとき認識しました。
「猫はにゃーん」っていうぞ・・・。
「猫はにゃーん」っていうわ・・・。
こうして、猫と遭遇したのち、すぐに「萌え」の意識が植え付けられるのです!!。
カッコや句読点の位置って、重要ですよね。
とにかく、
猫は「にゃーん」と鳴くことを知っているがため、
「にゃーん」というやつ→「にゃーにゃ」となったらしい。
でも、僕が疑問に思うのは、なぜ「にゃー、にゃ」と呼ばれ、「にゃ、にゃー」とは呼ばれなかったか、という点です。
とりあえず分からないので、発音してみたらひらめきました。
ポイントなのは、抑揚です。
ちょっと、口に出していってほしいのですが(恥ずかしかったら、耳をふさいで、近くの人に聞いてもらうとか、録音もよし)、なんだか2回目のにゃーの方が強く発音してしまいせんか?。
そして、そのせいか、なんだか何か、迫力あるものが登場しそうな感じに。
そう、「にゃにゃー」は、ちょっとアクシデントというか、脅威というか、そんなものを感じさせるものなのです。
子供たちが猫に脅威を感じてきたならば、おそらく猫のことを「にゃにゃー」と呼び、身構えるはずなのです。
よって、子供たちが猫を「にゃーにゃ」と呼ぶことは、猫を脅威と感じていないことを示しているのです。
猫よ。
「にゃにゃーだ!!、逃げろ!!。」と呼ばれるまで、がんばれ。
もしくは、
「猫だ!!、逃げろ!!。」と呼ばれるまで、がんばれ。
もしくは、
「イエネコだ!!、逃げろ!!。」と呼ばれるまで、がんばれ。
それにしても、冒頭「俺のにゃーにゃ」が依然として解決しないのです。
ぬる豚ハチミツフォークロアの心象
以前、「ぬる豚」について書いた。
(酢豚の酸味がぬるくて、ざんねんだった話)
この後、その店では酢豚を食べていない。
お店の第一印象がぬる豚になってしまったからね。
ということで今日はいつかも書いた、「第一印象」について。
例えば、初めて会った人に、いきなり「見る?、背中の袈裟斬りあと。」と言われたら、心象が悪いだろう。
新発売のウーロン茶の缶に、「微炭酸」とか嘘を印字されていても困る。
心理的なことは分からないけど、第一印象が大切だって事くらいはわかる。
上記の例が見られないのは、やっぱりみんな気にしているのである。
袈裟斬りの人も、だいぶ慣れ親しんだ人以外には見せないし、言わない。
ウーロン茶の会社は消費者にメッコール的な印象を与えてはならないと思っているのだ。
だが、この世界。
予想だにしない事象も存在する。
例えば、はじめて通る道で、突然ヘビに出くわしたら、その道はもう「ヘビの道」となって、あなたを情報の中心として地域へ拡散していくだろう。
でも、考えてみてほしい。
ヘビはいつもスタンバっているわけではないのです。
ヘビも、けっこう驚いたのです。
ヘビは、ねずみを食べてくれます。
また、
その道は、駅への近道だったりするのです。
その道は、仲のよい老夫婦が道端にパンジーを植えているのです。
なのに「ヘビの道」。第一印象で決まってしまった。
ざんねん。
もひとつ。
電車の中で誰かと目が合ったときに、たまたまその人が両手をきつねの形にしていたら、その人は「両手をきつねにしている人」となり、中央線フォークロアとなる。
でも、考えてみてほしい。
彼女はただ、影絵の練習をしていたのです。
今日は髪型を少し変えてみたのです。
音楽はチャットモンチーが好きなのです。
しかし、もう彼女は戻れません。
ほとんどの人にとって、第一印象が「両手をきつねにしている人」であり、かなり良くても「整った髪形の、チャットモンチーが好きな、両手をきつねにしている人」なのである。
ざんねんだよね。
だから、第一印象も大切だけど、余裕があったら第二、第三も視野に入れた方がいいのかもしれない。
そうすれば、
「ヘビの出る、パンジー咲き乱れる道」
「ちょっときつねの手つきをしているけど、チャットモンチー好きの彼女」
とかなる。
もちろん、第二を視野に入れたら「ぬるぬる豚」の可能性もあるのですが。
うまいこといかないもんだねぇ。
世界も、ネタも、ぬるぬるも。
今日もぬるく終わり。
ローテーション
今日が6月の26日なのに、ブログとしては6月30日。
先週の土曜日にいくつか書いたので、一挙に上げてしまったのです。
確か、いっぺんにたくさん更新よりも、ちょこちょこ更新したほうが、まぁ色々と良い、という話を聞いたことがあります。
でも、のせてしまった。
何よりも書かなくていいぶんの時間を、過去に書いた内容をもう一度見てみる時間に当てられるのがいい。
よって、ここ2?3日にカウンタが増えているのは、ぼくのせいです。
それにしても過去の僕。
我ながら、よく分からないことを書いている。
また、1週間くらい先まで書いているので、その間はせいぜい3日に1回くらい書けば、のんびり小旅行な感じなのです。
そんなに、毎日毎日うまいこと書こうとせずとも、良いのです。
と、ここで反省しなくてはならないことが出来た。
一応、今回の内容はタイトル「ローテーション」というのと「3日に1回はローテンションで」みたいなのを、「オチ」的な要素として扱う予定だったが、活字で「ローテンション」の雰囲気を出すのが以外に難しいことが分かった。
よって、「ローテンション」を持ち出す機会を失ってしまい、こんな形で「ローテンション」を連呼することになってしまった。
すまない。
あやまりついでに、もう夜だし、寝るよ。
ちなみに、なんとなく思ったのだが、ものすごく「青、黄、赤」の切り替わりが早い信号機があったなら、そいつを「ハイテーションな信号機」と呼んであげたい。
そしてぼくが、あまおと。
だいぶ昔だが、「となりのトトロ」について、アンケートをとったことがある。
「となりのトトロ」の歌の出だしは、何か。
聞いた人は10人くらいだったが、
「 ♪ だれかが こっそり… 」という正解を答えられた人は1?2人だったように思う。
ほとんどの人が
「 ♪ あめふり バス停… 」が歌い出しと思っていたのだ。
なんでこんなことを思い出したか。
先ほど、なんとなく
「 ♪ だれかが バス停… 」と頭の中で歌ってしまった。
誰かが、バス停。
…
僕は、どうしたんだろう。
炭素源を手放さないぼくらへ
吉祥寺のとあるラーメン屋に、「栄養満点」みたいな感じのパネルが飾ってあった。
「お、ここのラーメンは栄養満点じゃないか。どれどれ。」
現代日本において、このようにのれんをくぐる人物は、どれほど存在するのだろうか。
僕は、ある話を思い出した。
昔、インスタントラーメンの袋には「スープに栄養があります。残さずお飲みください」という旨のコメントが印字されていたらしい。
しかし、現代社会では、インスタントラーメンのスープは静電気を帯びたビニール袋なみに忌み嫌われる存在である。
時間が、常識を根底から変える。
そのこと自体「常識」として、あらゆる情報源から、あるいは経験として我々は体得している。
そして、そのことに少しでも触れるとかなりの分野に飛び火し、大変だ。
高度経済成長や日本の食糧自給率、久しぶりにテレビで見て、なんとなく切なくなってしまう芸能人についてなど、様々である。
ただ、この「栄養満点」看板で僕が感じたことは、これを掲げているラーメン店側が、何を狙ったのか、というところである。
今となっては、この文句は逆説的に「スープくらいは残せ。」と言っているようにしか聞こえない。
また、「おまえらは、栄養に関してはもう危惧することはないよ。」ということも示唆していそうだ。
ここまで考えると、次はひとつ。
「おまえらは、○○に関してはまだ足らないよ。」についてである。
足りないもの。
とりあえず、僕にはいろいろ足りない。
2回目とはじめてのカンツォーネその2
昨日からの続きです。
【あらすじ】
クライミングをしている知り合いの邪魔をしよう。
競技中は壁に張り付いて、重力に逆らっている。
誰だってギリギリ状態だ。
だから、余計な事を考えさせたりするだけで、脱力させ、落とすことが期待できてしまうのだ。
<邪魔ワード集>
・「富士山」
ボルダは、つかみやすさの差はあれど、だいたい手ごろなサイズであるが、ときどき、明らかにおかしな形状をしたものもある。
そのひとつが、明らかに他のボルダよりも巨大なものであり、邪魔プロ(会員数約2名)の間では「富士山」と呼ばれるボルダである。
もちろん「富士山」もボルダのひとつなので、それを利用するシーンや、それ自身に小さなボルダがついていたりするが、とにかく利用するシーンよりもその印象の強さが光る人工物だ。
たとえば、あるレベルを挑戦していたとする。
そのルート上には、身近な「富士山」はない。
挑戦者は的確にルートを踏破していくが、ある場所で行き詰る。
張り付いているだけで精一杯だ。
そこで、それを感じ取った邪魔プロは、開口一番「よし、次は富士山ね」。
「富士山」ボルダは、はるか彼方。
残念なことに、人間は考える葦らしいので、
どうしても「届かないやん」と、少しでも考えてしまうのである。
また、一瞬でも「富士山の頂に手をかける私」を想像してしまう。
「俺は天邪鬼か!?」。
結果、落つ。
・「いい仕事」
ルートのレベルが上がるにつれ、ボルダひとつのつかみ方で踏破成功が左右される局面が増える。
挑戦者はそのような場面になると、該当するボルダを、それはもういろんな風、いろんな角度で触り、確認する。
そのときである。
邪魔プロは、そんな彼を見逃さない。
「どう?、そのボルダ、いい仕事してる?。」
・「陶芸家」
「いい仕事」の類似パターン。
ボルダのつかみ方で迷っている相手に対し、
「○○くん。陶芸家になっているよ!!。」
と心無き言葉を投げかける攻撃法である。
※高名な陶芸家を実際に挙げてもよい。
・「迷い箸」
これも上記と同様のシーンだが、こちらは主に、どのボルダに足を置けばよいのか迷うところで使用する。
「足が迷い箸になってるよ!!。」と尋ねれば、まぁ落ちるよね。
と、我流をほうっておくと、こんな感じになる。
こんなんなので、クライミングのレベルは、一向に上がらない。
さらに僕の場合、このような所業に加えて、そもそもクライミングに行く時間が少なく、時間的な間隔まで空いてしまうのだ。
僕のクライミング経験はいつも、「2回目」の次は「はじめて」になってしまうのである。
2回目とはじめてのカンツォーネ
クライミングというと、何かしら社会におけるヒエラルキーになぞらえようとする人がいるかもしれない。
でも、いたって楽しいスポーツで、たまに登りにいく。
僕がやっているのは、室内でやるもの。
壁に、ボルダとかいう人工のでっぱりが無数に取り付けられ、それを利用してゴール地点(2?3m上とかにある)を目指す。
幼少時に崖のぼりみたいなことをしたことのない人はいないと思うが、あの感覚だ。
(崖のぼりをしたことない人は、いまからでも遅くないのでやっておくように)。
※ちなみにそのボルダ、以前にも書いたが、ただ闇雲に利用すればいいというものではない。
各ボルダはレベル付けがされており、たとえばレベル1のゴールを目指そうとするなら、レベル1のボルダのみを利用しなくてはならないのだ。
逆にいうと、レベルの差はあれど、ある程度のルートが既に決められているということだ。
私はかなり我流で生きてきたので、無論クライミングも我流だ。
「無論」というのがえらそうだが、もちろんブーだ。
特に僕はクライミングにおける定石みたいなものを知らないので、時々登り中に、壁に貼り付けられた前衛的な彫刻っぽくなる。
どこぞの美術館で、雨ざらしになっていそうな感じ。
ところで、クライミングを誰かと一緒に行くとなると、どうしても勝負というものが生じる。
「このスポーツで対戦者がいるとすれば、それは己である。」
とかいう流れは他方で十分だと思うのでそちらに譲り、こちらでは相手のいる、実戦を考えてみる。
対人戦で勝負を分ける要因は、上記の「踏破レベル」だ。
たとえばレベル3を僕がやって出来なくて、その後対戦者がクリアした場合、明らかに対戦者の方が勝ちである。
このため、僕は「対戦者が登っている最中に相手の邪魔をする」という、ほにゃシップにそぐわないテクニックを身に付けた。
ただ誤解してほしくない点は、物理的な邪魔ではない、ということである。
マジックハンドで臀部を集中的に狙う。
ボルダにローションを塗っておく。
これらは、らららシップにそぐわない、というかこれからの人生を棒に振る所業であり、さすがにやらない。
邪魔は、主に「言葉」によるものである。
明日に続く。