兎馬の件について。

「王様の耳はロバの耳」の結末を知らない事に気付いた。
俺は今まで何をやっていたんだ。
悔しいので検索をしないが、一体どうだったのだろう。
王様の耳がロバの耳で、その秘密を吐露したくて仕方のない床屋か誰かが洞窟だか穴に向かってそれを叫ぶ。
誰にも聞かれまいとするための行動だったが、結局それは超漏れていました、みたいな話だったか。
床屋か誰かはどうなってしまったのだろうか。
秘密を暴露した罪は発生したのか、そして王様は人外の者としてどうなるのか。
それとも「ばれちゃいました、おわり」なのか。
ただ、この話は結構救いがあり、まず「ロバの耳は案外かわいい」というのがある。
それに、王様の人格を否定するような秘密でない事も助かる点だ。
「王様はエビの背わたを取り除いていないと箸をつけない」
これがどう、人格否定に繋がるかは各個よく考えてもらいたい。
しかし、「王様はいたって普通の人だが、エビの背わたを取り除いていないと箸をつけない」のと、「王様の耳はロバなのだが、エビの背わたとか気にしない」。
どちらがいいんだとすれば「ロバの耳は案外かわいい」のだからもちろん後者。
「エビの背わたを取り除いていないと箸をつけない」王様や「王様はエビの背わたを取り除いていないと箸をつけない」と穴に叫ぶ床屋か誰か。
彼らの器の小ささを鑑みれば、ロバの事はそんなに卑下する事はないのである。

酒池肉林ネクスト

先日「酒池肉林」と聞いて、久しぶりな言葉だなと感じたのだが、今考えてみるとどんな日常会話でそれが発せられたものなのか。
その方が気になる。
ところで「酒池肉林」は確か、食事や宴会がすごく豪華なさまを意味した気がする。
となると、「酒池肉林」な食事より、さらにすごい食事が出てきたら、というドラゴンボール的な発想が浮かぶのも仕方がない。
普通に考えれば「酒湖肉森」で、その次が「酒海肉山」、そして「酒空肉地」になるだろう。
「酒天肉地」でよいかもしれない。
「酒天肉地」はなんとなく言った感じが「酒呑童子」に似て、その点もよい。
しかし、普通じゃない方を考えるとなると立ちはだかるのが「酒と肉」の扱いである。
これらは嗜好に近い部分もあり、要は人によって好き嫌いに差がある。
故に、ここを変更するのは難しい。
例えばベジタリアンの方を考慮するなら「酒池肉林」は「酒池菜林」が適切であると思われるが、もちろん肉好きな人から見れば「酒池肉林」でよい訳である。
そして、これは「酒」にも言える事だが、「酒」なり「肉」なりはただ言い換えるのでは「酒池肉林」の豪華さが失われてしまう気がする。
「菜」は「肉」よりもこう、豪華さというか、欲っぽさがない。
清貧というイメージになってしまう。
さらに「菜林」というとなんとなく畑を連想させてしまうため、より質素な感じ。
「酒」などは、それよりも豪華さ、欲っぽさを出す飲み物があるだろうか。
例えば「石油」はどうだと考えてみたが、確かに豪華かも知れないが欲っぽさはなく、むしろそれを飲む事による「びっくり人間っぽさ」「ウルトラ怪獣っぽさ」の方が目立つ。
「大海原」も考えてみたが、これは豪華というよりは豪快であろう。
以上の点により、「酒池肉林」よりすごいのは「普通に考える」のがいいのでないかと思われる。

茶沼

ペットボトルのお茶をまだ残しているときに、ふたを落としてしまった。
幸いな事に、そこは床がびっちゃびちゃでなく、毒の沼でもなかったため、そんなに汚れてしまったとも思えない。
しかしこの時、気になるのが、「あの人はふたを使用するのだろうか」と興味深げな周りの目。
もしかしたら、そんな目はないかも知れない。
しかし一旦そう考えたら、試されている気がして仕方がない。
おそらく正解は残った茶を飲み干すという「残茶の消化」であろうが、その量によってはなかなか難しい。
しかも、「あの人、ふたを使用するかどうか試されてると思って、慌てて茶を飲んだわ。自意識過剰」と思われるかもと考えてしまい、結局すっきりしない。
もちろんふたを使用すると、落としたふたを使用したことを好奇的に思われていると、滅入る。
もう、ペットボトルの茶でふたを洗いたくなるが、これはこれでかなりイレギュラーな行動だし、床がびっちゃびちゃになるし、そもそも水道水で洗えよ、となる。
なんでふたを落としただけでこんなに悩まなければならないのか。
こんなことなら、茶の沼で飲んでいればよかった。
となると、そもそもペットボトルのお茶なんか買わないわけでして。

がんばれジャンヌ

「アナと雪の女王」の曲と言えば「レット・イット・ゴー」かも知れないが、僕は「雪だるまつくろう」が好きだ。
聞いた事のない人に概要を説明すると、幼少なアナが姉のエルザと遊びたくて歌うが相手にされず、それでも明るく歌っていたら少女くらいになったり両親が恐ろしくあっという間に亡くなり、テンションがた落ちで不安な心境を歌い、結果的に雪だるまはつくられない。
そんな歌。
この曲で気になるのが「両親が亡くなる」っぽいシーンの前後の歌詞を入れ替えると怖い、という点だ。
そのシーン前までは元気なので、入れ替えたあとの歌詞がいくらか暗くても、救いはある。
しかし、本来そこにあった歌詞「寂しい部屋で柱時計見てたりするの」を、テンションがた落ちで歌われると非常に怖い。
やはり、ある程度の年齢になったら「寂しい部屋で柱時計見てたりするの」は止めておいた方がいい。
「アナと雪の女王」は僕にとって、そういう映画である。

メス

やはり手術開始時の一声は「メス」であってほしい。
こないだやっていた医療系ドラマを見ていて、心底そう思った。
その端的な指示は「これから手術をやるぞ」という意気込みを感じる。
もちろん、本当の現場では開始時に「メス」を使わない手術だってあるだろう。
もう、素人には分からない謎の器具を使う事もあるだろう。
また、そもそもドラマの「メス」のシーン自体が実はあまり見られない、ドラマの演出なのかもしれない。
それでも「メス」と言うことは、もう我々の手術シーンから切り離せないものであることは間違いない。
さて、そのとき思ったのが「えっ、これが手術開始の第一声?」と思われてしまうものはないか、ということである。
例えば、昨日行った居酒屋の話をいきなりしだすとどうだ。
「これからXXX手術を行います。」
「で昨日さあ、居酒屋で出された刺身の醤油が薄くてさあ、塩っ気が足らないの」
「普通ある?塩っ気の足らない醤油」
局所麻酔でこの会話が聞こえた、クランケの心中はどうだろう。
・緊張しすぎず、リラックスして手術が行えている。
・ちょっとフランク過ぎやしないか、手術中に。
考えが、この2点を行ったり来たりすることだろう。
しかし僕がこの醤油のくだりはまだ救いがあると思う。
何の話だが分かるから。
僕はこっちの方が嫌だ。
「塩っ気が足らない」
手術開始直後に、ぽつりと医師が言うのである。
まだ開腹もしていないのに、何の話だ。
俺の血の話なのか、あるいは何かの隠語で、すごい事になっているのか。
もう心配で仕方ないのだが、いかんせん手術中なのでどうすることもできない。
生きた心地がしない。
でも、僕が一番嫌な手術開始時の一声は「汗」だ。

CD

小学生のころ、夏休みのほとんどを祖母の住む田舎で過ごしたことがあった。
自然には事欠かない環境で、生き物の多くは机上の図鑑でしか見た事ないものだった。
飲みたくなるような色の青空、視界の半分を占めて動く海。
恐ろしいまでのインパクトを僕に与えた期間だった。
そのときの思い出は多過ぎて乱雑で、どうにもまとめられないものばかりなのだが、その中でもかなり上位に入る思い出をひとつ紹介する。
それは「祖母はジュースとしてオロナミンCを出してくる」。
僕はそれまで、オロナミンCはリポビタンDと同じようなものだと思っていた。
これは今考えても仕方ないと思う。
ビンの大きさや色が似ているし、少なくともその頃の僕はリポビタンDを飲んだ事がなかった。
そしてやはり、オロナミンCは小さい。
故に「選んで買って飲む」という機会も少なかった。
CにもDにも触れることが少なかった僕にとって、オロナミンC10本パックが冷蔵庫に入っていることは結構衝撃的だった。
そして祖母にとってジュースとは、まさにオロナミンCだった。
海から帰ってくると冷えたオロナミンC。
もちろんそのときもおいしかったし、今でもおいしい。
しかしまだわからない。
オロナミンCはジュースなのか、あるいは栄養ドリンクなのか。
夏の小学生の僕の脳裏には、おいしいと思いながらも、似ているリポビタンD、崖から落ちそうになったあとに飲む滋養強壮のあれがちらついていた。
そしていつも、もう少し多く入ってたらいいのに、と思っていた。

ポンチョ

日本人にとってはどうも抜けた感じだ、ポンチョという言葉は。
しかし、なかなか便利なところもあって、最近よく着ている。
まず、袖に相当する部分がなく手を外に出しにくいため、日常生活の多くの動きを制限される。
少なくとも鍛錬に時間を要する。
この点は、便利ではない。
そしてあまり着ている人を見ない。
なんかだらしなく見える。
これも便利な点とは離れているか。
あれ、あんましないな便利な点。
僕が便利だと思う唯一無二のことは、「手の動作がばれない」である。
これはポンチョがマントのような構造だから、例えばポンチョの中で上着のボタンを開けようと、あやとりしようと、寒さを凌ぐために腕組みしようと、汗の具合を確認するため脇に手を入れようと、外見では気付かれないのである。
いや、少しポンチョがこんもりするかも知れないが、少なくとも「自分今脇に手を入れてます」を全面的に押し出さなくてすむ。
これはいい。
こないだ助かったのが、たまたまその日は「勝手にチャックが開いてしまうズボン」を履いていたのだが、計3回、誰にも気付かれる事なく、ポンチョの中でチャックをクローズする事に成功した。
もちろん、これはクローズの回数であって、「チャックが開いているかどうかを確認するため、股間に手を当てる」動作も含めると、なんて多くの「普通やっていては恥ずかしい事」を気付かれる事なく行えたか。
素晴らしいの一言に尽きる。
これが僕のポンチョに対する便利な点の話である。
ただ、もう一つ何か挙げるとすれば、「ポンチョ着たガウチョがガスパチョ飲んでてほしいな」って思ったりする。
なんかずるいな、チョは。

十一戒

何だか朝が寒い。
寝るときは半裸なので、まずそれをどうにかしろという向きもある。
しかし何かに負けてはならないという人間の根源的な本能のため、毎朝布団から出られなくなっている日々である。
ここで気になるのが僕の布団事情なのだが、3枚である。
内訳は羽毛布団的なやつの下に、毛布が2枚。
これがオーソドックスなパターンなのか、国民の支持を得られるスタイルなのか。
よく分からないが、とにかくそうである。
ところで、実は朝寒いのには理由がある。
半裸の件は既に触れたが、それ以外に「毛布が左右にきれいに寄せられている」のである。
状況としては左にふんわりタイプの毛布、右に薄いアシストタイプの毛布。
それぞれが寄ってしまって、体に掛かっていない。
最近の寒さに羽毛布団一枚では太刀打ちできない。
羽毛布団は暖かいが、隙間ができやすい。
大きく暖かい羽毛布団。
その隙間を埋める毛布。
誠に理にかなった連携である。
連携の話は置いておいて、毎朝この残念な毛布配置転換が起きている。
僕はこの現象を、例の海割りから連想して「モーセ」と呼ぶ事にしている。
今朝もモーセが起きた。
なぜなんだ。
十戒に「寝相を良くする」など、何か寝相を律する何かが書いてあっただろうか。
半裸か。
半裸が肉欲的な、何かか。
ともかく、朝のモーセはなぜ起きてしまうのか。
ついでに、「モーセ」なのか「モーゼ」なのか、あるいは日本語だと発音しづらい「セ」なのか。
分からない事が多すぎる。

連名

高校の物理か何かで「ボイル=シャルルの法則」というものがあった。
確か理想的に振る舞う気体の体積とか圧力に関する、むずい式だった気がする。
ここで気になるのが「ボイル=シャルル」のところである。
この法則を発見したのが「ボイル=シャルルさん」と名字と名前だったらよかったのだが、確か別人。
ボイルさんとシャルルさんである。
このとき、多くの人は「なぜシャルルの方ではなく、ボイルが先なのだろうか」と考える。
この法則にたどり着くまでの労力が、ボイルさんの方が多かったのだろうか。
より重要な式を探したのだろうか。
五十音順ではシャルルなのに。
確かに、ボイルとシャルルの順番も気になるところだが、一方で「連名」である。
こういう風に表現したか、と感心する。
ところで話は変わるが、「ギャラン(ガラント)反射」というのをご存知だろうか。
これは「赤ちゃんの背骨の左右どちらかをなぞると、そっちの方向に尻を振る」という、原始的な反射の一つとして知られているものらしい。
何となく「宇宙刑事ギャバン」を連想させ、ああ確かにギャバンもギラギラ銀色で反射していたな、と感慨深くなる。
何かでこの「ギャラン反射」を知り、他にもそういった赤ちゃんが示す反射はないかと調べてみると、「モロー反射」というのもあった。
これは「落下や音に対して抱きつくような動きをする反射」のことで、おさるの時代を経験したほ乳類にみられるものなのだろう。
で、すなわち「ギャラン=モロー反射」とは「赤ちゃんの背骨をなぞりながら激しいダンスを踊ると、赤ちゃんが尻を振りながら何かに捕まろうとする」反射のことであり、なんだか、なぞっている方、尻を振っている方どちらもちゃんとしろよ、と言いたくなる事必至である。
ちなみに「ギャバンモロ反射」となると、もうこれはギャバンの体色である銀色が良くない、ということで何ら懸念点はない。

侵入2

【あらすじ】
サンタの格好をした人がこそこそしていると違和感。
こそこそとした挙動をするとマズい人たちがいるのではないか。
=====
まず思いつくのが新郎新婦や歌舞伎役者などである。
ウェディングドレスを着た新婦が「あ、ちょっと通ります」みたいな感じでカメラを横切ってはいけない。
いやお前、お前を撮るんだよ。
そう突っ込まれる事うけあいである。
と、ここでもう判明したように、結局「派手な目立つ服装の者はこそこそしてはいけない」のである。
派手な格好しているならこそこそせず、派手に立ち回るべきである。
一方、こそこそしたいのなら、派手な格好をすべきではない。
実は、この「こそこそした挙動をするとマズい人たち」を考えた時、まず思ったのが「SEKAI NO OWARI」のピエロであった。
もうピエロというだけでこそこそしてはだめだし、まずなんか怖い。
そして「SEKAI NO OWARI」と自ら名乗っている。
垣間見える終末思想の断片が、1999年7月に来る予定だったのはこいつなんじゃないかと思わせ、恐ろしい。
「サンタの格好をしたスタッフ」にそんな恐怖を覚えることはないと思っている方もいるだろうが、考えてみてほしい。
「クリスマス→サンタの格好」という構図は、ちょっとありふれすぎている。
ピザの配達員はコスプレしてバイクを運転しているし、コンビニのおばちゃん店員は帽子でさりげなくサンタを演出。
カインズホームのペットコーナーには、ブルドック用サンタ衣装が売られているわけである。
この一辺倒な「クリスマス→サンタの格好」志向は、本来のサンタの重要性を希薄なものにさせてはいないだろうか。
あるいは「サンタが本来やること」以外のことをしすぎてはいないだろうか。
ピザを販売し、男の目を狂わせ、犬。
これでは「サンタ本人」は自分の格好の恥ずかしさに、それこそ「こそこそ」しなければプレゼントも配れないことになってしまう。
恐怖ではないが、何か悲しみを感じさせる。
そしてこの悲しみは増大する。
こそこそすることになったサンタはまず服装を変えるだろう。
空き巣を生業にするものの多くは普通の背広姿でターゲットを物色するそうだ。
それが一番「まぎれる」のだという。
それを考慮すると、現代のサンタは背広姿の可能性が高いという事になり、ほらたかし、お前の身近にいるだろう背広姿のやつが!!という感じで子供の夢が壊れる。
と、いろいろと思った次第でございます。