ペガ

ペガサスなのか、ペガススなのか、それが問題だ。
調べてみると英語読みなのか、ラテン語読みなのかの違いらしく、これはもう言語間のゆらぎ。
仕方ない差異なのだろう。
でも気になるのがやはり「スス」のところで、なぜかこのせいで「ペガサス」の神話性が失われている気がするのだ。
そう、僕は断然「ペガサス」派で、ペガサスの話題になったときにわざと「ペガスス」と発音、相手が「ペガサス」派なのか「ペガスス」派なのかを見極めようとしたりする。
「ペガスス」派のやつを、俺は認めない。
ところで「ペガスス」と表現している「ラテン語」は生物の学名に使用されている事で有名である。
「ペガサスの学名がペガスス」と言えなくもないが、空想上の生物に学名が付けられるのか。
ペガサスの 飼料にレッド ブル混ぜる 狙うはトンボ みたいな天馬
全然分かんないので歌を詠んでおいた。

僕らの29200日間戦争

唐突に「僕らの七日間戦争」の曲が聞きたくなってきた。
ずいぶん昔の映画だが、結構有名。
曲も、聞いたらなんか知ってるという、ジェネレーションギャップを埋める手段の一つとして、浸透はしていない。
あまり内容を覚えていないのでナニなのだが、とにかく「学校の生徒が厳しい校則や縛りに反抗し戦ったりするが、最後は花火を上げていい感じに終わる」映画だった。
そしてその反抗の最たる「廃墟に警官だか自衛隊かが侵入するシーン」で、特に印象深いことが起きる。
侵入を阻止するため、くぎみたいなものを床板に張り付けているのだが、まんまと侵入者はそれを踏み、倒れこんでしまうのである。
シーンとしては「学生が仕掛けた罠に、青春の敵たる大人が引っかかりました」くらいの意味なのだろう。
しかし映像からして、釘の乱立したところに倒れこんだ侵入者はひどい傷を負ったはずだ。
僕はこの映画を最初見た時から、あの人は大丈夫だろうかと気になっている。
もちろん大丈夫なのだが、あの「釘に倒れこむシーン」の心配さは半ばトラウマみたいなことになっている。
ほぼアイアンメイデンじゃないか。
今、アイアンメイデンが「アイアン名電」になってしまい、このパソコンが鉄の処女に慣れていないことがわかった。
ともかくちょっと衝撃的な映像なのだ、「釘に倒れこむシーン」は。
今なら確実に炎上する。
「厳しい校則、ルールに反抗した青年たちが自分の居場所を勝ち取るため、立ち上がる」という表現ではなく、「補導するために突入した捜査員を負傷させた」籠城犯、と今ではなるだろう。
いくら最後に花火を上げたとしても、「あらきれい。子供たちはこれが見せたかったのね」という感じでは終わらない。
「花火を上げて、さらに炎上」。
これはいらないか。
最近はよくネットの世界で「安易な公表」「行き過ぎた制裁」という話をよく聞く。
今「僕らの七日間戦争」を思い出したとき、その評価は当時のものとはかなり異なるものになるかもしれない。
常識や文化の意味が、そう長くない期間でもコロコロ変わるのはよく知られているが、今は「戦争」という絶対値の極めて高い素材すら、そうなのだろうか。
意味どころか、本質すら変わるのだろうか。
ちょうど今、変えているのかもしれない。
やだ今日の内容、ちょっと社会派。
この手の話題に勧善懲悪なんて見いだせないが、ひとつの方法として「登場したもののなかで、完全無敵、善なるもの」をあえて悪役にあてがうことで、全体がまとまるという考え方がある。
花火、お前が悪い。

ドアをしめて

尾崎紀世彦氏の「また逢う日まで 」がテレビでやっていて、久しぶりに聞いた。
今聞いても迫力があり、とてもいい歌だ。
さて、ブログタイトルにもあるように、この歌の重要なところは「ふたりでドアをしめて」のところ。
「しめて」の「め」と「て」の間をいかに空けないか、だろう。
とりあえず今、カラオケで「め」と「て」に間を空けないシーンを想像してみる。
気持ちいい。
間違いなく気持ちいいので、よかった。

らせん

DNAというのは、ほぼ刑事ドラマによって広められた、身元判明や犯人探しのための物質である。
誰しも幼い頃、「おもちゃを取ったの取らないだのといった他愛のないいざこざ」の最中に「DNAとったら分かるんだぞ」と脅すのが、妙な有効性を持っていたことだろう。
持っていないか。
ともかくDNAで気になるのが、遺伝子としての機能の一面とも言える「構造」。
いわゆる「二重らせん」である。
もちろん構造自体も何十年も前から現在でも研究されており、それはえらく興味深い。
そもそも「らせん」という構造は均整が取れていて、美しい。
しかしDNAのくだりに関しては、何より「らせんのひらがな感」に注目せざるを得ない。
あるのだ、「螺旋」という漢字は。
だが、たいていDNAの構造については「二重らせん」。
ひらがなである。
なぜなのか。
もう「螺旋」という漢字は、ライトノベルでしか見た事がない。
ごめんうそ。
ただ、あんまし見ないのはほんと。
何か「二重螺旋」だと、「かっこいいだろ?」と言われているような気がして、恥ずかしい。
そうだ、たぶん「漢字の形」が異質で格好よすぎ、鋭すぎなのだ、「螺旋」というのは。
「螺旋鳴門」
ほらかっこいい。
ラーメンのスープがすごい勢いで吸い込まれそうだろう?。
「螺旋とっくり」
ほら怖い。
首が超伸びてそうだろう?。
「螺旋ライトサーベル」
ほら悪い。
フォース真っ黒だろう?。
「螺旋万華鏡」
ほら横溝正史。
なんか横溝正史だろう?。
とか調べていたら、かなり怖い「螺旋」がある事を知った。
「螺旋骨折」
怖いなこれ!。

なきどころ

普通、弁慶の泣き所というと「すね」であったり急所の事を指すわけだが、弁慶の事をもっとよく考えてあげてみると、もしかしたらこれも「弁慶の泣き所」と言えるかもしれない。
「グリーンマイルの最後のほう」
勘違いしがちなのは、いわゆる「泣けるもの」の一般論ではなく、あくまで「弁慶の泣き所」を考えたいということである。
すなわち、誰もが認める「グリーンマイルの最後のほう」の「泣き所っぷり」であっても、弁慶が見ていない以上、憶測の域を越えない。
ないのである。
どんなに歴史をたどってみても「弁慶、グリーンマイルの最後のほうで涙す」という事実は。
いけない。
事実と書いてしまったが、僕としては、ちゃんとバックグラウンドを理解してもらい、現代の生活を2年くらいしてもらえば、十分「弁慶の泣き所」に値すると思うのだ、「グリーンマイルの最後のほう」は。
言い換えればあったのだ、「弁慶、すねをうって涙す」が。
話を戻すが、「弁慶の泣き所」を考える場合、当時の資料や本人。
それに着目した研究がおそらくない以上、レパートリーを網羅する事はできない。
ただ、分からない故に、あらゆるものに「弁慶の泣き所」であった可能性は存在し、例えば「寝る」という一見泣く事とは関係ないことでも、我々が知らないだけで「弁慶の枕はびっしょびしょ」ということがあったかもしれないわけである。
なんて広大な可能性なのだろう「弁慶の泣き所」は。
恐ろしいのは、複合技により、擬似的な「弁慶の泣き所」を産み出す事ができる点である。
「葦でカゴを作っている弁慶のすねを叩く」
弁慶がカゴを作った事があるのか、葦でカゴを作るものなのかはわからないが、これでうまくいくと「カゴを作る」ことは「弁慶の泣き所」と伝えられる可能性は十分に高い。
そう考えるともう、「弁慶の泣き所」は全ての事象そのものであると考えて全く差し支えないだろう。
ついでに「弁慶の鳴き所」とかにすると、動物も範疇に入れられて、それはもう色々考えられて面白いのである。
最後に。
「あくび」なんかを「弁慶の泣き所」と表現すると、こいつやるな、という気がする。

流れ星

テレビのチャンネルを変えたくなる時といえば、お色気シーンと相場が決まっている。
今、「流れ星」というお笑いの人が面白いギャグをやるということになったため、チャンネルを変えた時にそう思った。
お色気がトリガーでなくて申し訳ないのだが、ところで僕が別に「流れ星」のことが嫌いであるとか、ギャグが面白くないとかは思っていない。
むしろ思い出すのが、「なんとかレッドカーペット」みたいな昔の番組で、だんとつに面白いことをやっていたことだ。
それがどんなことだったか、あれから今までいったい何をしていたのか。
それはわからないのだが、とにかく面白いことをやっていたことだけ印象にある。
そんな流れ星だ。
で、話を戻すと「テレビのチャンネル」のくだりなのだが、こんな感じではないだろうか。
1位 砂嵐になってしまい、他のチャンネルもそうなのかと確かめたくなる時
2位 正義の味方が一時的に疑われてしまうとき
3位 どんなに待っても貞子が出てこない井戸の映像が続くので、画面が焼け付くのを恐れた時
4位 テレビとゲームを両立させたい時
5位 「カメラのフラッシュに注意してください」とテロップが流れるが、そのフラッシュ量が著しい時
いっけねお色気忘れてた。
もう、これからはテレビのお色気は正座してみることにする。

出瀬潔

ついこないだ、「似ていると言われたら嫌な芸能人ランキング」みたいなやつがやっていたようだ。
タイトルしか見ていないため、どのようなメンツがランクインしているのかは分からないが、芸能という世界は世知辛いものである。
あるいはそんなランキング聞かないでもいいじゃないかと思うが一方、ランクインした人はほぼ人気があることでもランクインしているのはよく知られていることだから、まあいいか。
僕が「似ているね」と言われたら絶対いやなのが「ハイスクール奇面組の出瀬潔」だ。
知らない人もいるかもしれないので補足すると、漫画で非常に特徴的な、絵に描きやすそうな、定規で描くと良さそうな、あたりめを食べたら全歯の隙間に挟まっている、そんなキャラクタ。
性格もあまり良くなく、ただエロへの姿勢が尖っていることだけ覚えている。
正直、幼少の頃に見かけてからずっと恐ろしい風貌であると認識していた。
だから彼に似ているなんて言われたら、全てを否定されているような気分になるだろう。
自分では似ていないと思っているが、他人がどう思っているか分からない。
心配だ。
ついでにもう一つ、これは言われたくないことを思いついた。
僕の顔を見ながら「あれ、奇面組って6人組だっけ」である。

フラワー

最近めっぽう暑く、ちょっと困る事が発生している。
「股間に塩が、粉をふく」
そんなに代謝が良い方にも思わないのだが、気付けばふいている。
汗をかいたのだろうか。
塩が貴重な時代だったら、たいそうもてはやされたかもしれないが、現在、股間に粉ふいていることでマイナスになることはあっても、もてはやされることはない。
湿ったハンカチでどうにか払おうとしてもうまく行かず、もうこれは「昼飯食ってたら店員さんがこぼしちゃってさ、フラワー粉」とか言うしかない。
「ほら、知らない?フラワー粉。日清の。それにしてもフラワーって、ね。小麦粉のことだってのは分かるんだけど、ちょっと華やかな感じすぎるよね、日本人としては」
股間にフラワー。
90年代のギャグ漫画過ぎる。

期語2

久しくブログを書いていなかったら、前回「続く」で終わっていた事をすっかり忘れていた。
「期語」とか書いている。
思い出したのは、俳句における「季語」に相当するような、ある期間を表す「期語」というものを新しく考えてみよう、ということだ。
僕が覚えているのは「ボディコン」。
この、バブリーな懐かしい言葉を使って俳句を作れば、「季語」で季節を感じるように、「ボディコンという期語」を用いる事で土地高騰、お札を燃やして暗闇の玄関を照らすような時代を感じることができるのではないか。
そう展開しようとした訳だ。
しかし近頃動いたり歩いたりで、すっかりブログ更新を忘れていた。
故にもうこの「期語」「ボディコン」に熱を上げる事ができなくなってしまった。
では何を書こうかと考えると、「亀をぶん投げる」イメージが出てきた。
これはもうずいぶん昔にやっていたある特番だったか。
干ばつ甚だしいアマゾンだかナイルだかの地域で、ボランティアの人があとは死を待つばかりの魚や両生類、そして亀などの爬虫類を保護。
水豊かな場所へ運ぶというナイスを放送していたものである。
もうお分かりだと思うが、魚や他の生物は川岸から放流されていたのだが、なぜか亀だけがボートからぶんぶん投げられていたのである。
もちろん川に投げているのだから亀にダメージはないのかもしれないが、あんなに亀をぶん投げている映像はスーパーマリオブラザーズ3くらいでしか見た事がない。
普通に放流すればいいのに。
その亀はガメラのように、あるいは水切りの石のように、ギューン回りながら落水していった。
ところで「亀をぶん投げる」が季語であるとすると、それはどの季節だろう。
おそらく「夏」であるが、前回のブログも考えると、最適なのは「乾季」に違いない。
恐ろしい事である。
「乾季」を「亀をぶん投げる」で詠うためには、五七五七七の7文字くらいは固定値なのである。
できれば「投げ亀」とかで少なめにしておきたいが、それを決めるのはあなただ!!。