※当方咽頭炎の為、手抜きの契約書に血判。
その人は「次のエヘン虫が待っている」と言った。
家族のものも咳がひどいため、一緒に病院に行った。
その際、彼が医者に自分の症状を問われたときにそう言ったのだった。
咳が止まらないことはわかる。
僕もそうだ。
いったん咳が出ると、その動作に連鎖して次の咳が出て往生する。
しかし咳をエヘン虫に言い置き換える意味がわからない。
医者はその全てを「咳」と言いなおし、エヘン虫と咳の融合を最後まで認めなかった。
※今回は案外、エヘン虫の詳細が重要かもしれないが、省く。
とりあえず細菌学者サパテルの考えてた水虫の絵みたいなものであり、ネット上に情報が見つからずこの説明も怪しいことを謝罪しておく。
さて、とにかくこのセリフには味がある。
「次のエヘン虫が待っている」
油断していると、また病気になりますよという、戒めにも似ている。
しかし重要なのが、もうCMもやられておらず、その存在が危ぶまれているエヘン虫に対して、その次の咳まではエヘン虫であるという認識の予約。
次の咳が出るまでは、エヘン虫がいなくなることはないわけである。
「さっきまでエヘン虫が喉にいたんだけど、実際出してみたら咳でした」
まああるかもしれない。
しかしそれは開封していない森羅万象チョコ、時期の書かれていない予言のようなもので、ことの前までは何がどうなるかはわからないし、何も約束されていない。
それならば、「次のエヘン虫が待っている」と言っている以上、次のはエヘン虫であると考えた方が、夢はなく、現実的でもないが、なんだかそう言ったじゃない、っていう感じである。
そういった意味でも「次のエヘン虫が待っている」は、エヘン虫感涙必至のセリフなのだ。
ちなみに当方、現在エヘン虫をぽろぽろ吐いてます。
投稿者: nimbus7942
うがい
※当方咽頭炎の為、手抜きにつぐ手抜きを実施。
うがいである。
現在すこぶる喉の調子が悪いため、よくうがいをしている。
がらがら。
しかしよく考えてみるとこのうがい、どのようにして教わったのか、よくわからない。
その知名度に反してやたら個人プレイで、「模範的なうがい」というのも、よくしらない。
蒙昧である。
たぶん、小学校に上がる前にでも、こう教わっていただろう。
「口に水をふくんで、上を向いて、がらがらしてみようね!!」
・・・僕らは一直線に「うがい」に到達できたのだろうか。
まず、水をふくんで上を向くと、必然的に水を飲んでしまう。
そのため、僕らは本能的にのどを舌で塞いだはずだ。
そして「がらがら」。
なんと抽象的なことか。
近くに神社の鈴(鈴の緒という模様)があったら大変だ。
間違ってしまう。
「がらがら」と言おうとしてしまったら大変だ。
噴火してしまう。
しかし僕らは、そう寄り道をすることなく「うがい」に達していたはず。
「水を口にふくんで上を向いてのがらがら」は、そう揺るがない方向を示す。
オノマトペの持つ潜在能力には計り知れないものがあるのだ。
とはいえ、このようにして習得された「うがい」。
曖昧な教育環境であることが多いため、個人に差異があってもおかしくはない。
あなたのうがいは、ちゃんとうがいだろうか。
「調子悪いからうがいするよ」と言って、ピアノなど弾いていないだろうか。
うがいのとき、その効果が最大限に発揮されるように、ちゃんと舌の形をBタイプに変えているだろうか。
結局のところ、僕のがらがらはみんなのがらがらと違わないか。
それが心配なのである。
精彩
※当方咽頭炎の為、驚異的な手抜きを観測。
○精彩:生き生きとした感じ。活気ある姿・ようす
精彩という言葉を使う以上、使われたものはそもそも精彩を持っているもしくはウリでないといけない。
「あのママチャリ、精彩を欠いているな」
ここでの「精彩」が、「前輪だけ異様にでかい」「多脚」「サドルとハンドルが直線上に存在」を指摘しているとしたら、ママチャリに精彩は必要ではなく、そもそも精彩という言葉をあてがっていいものでもなくなる。
一方、「精彩」が「かご」「異様にサドルが低く、がにまた走行」「サドルにスーパーの袋がかぶせてある」についてのものであるなら、そのママチャリは確かにママチャリとしての「精彩」を欠いているのではあるが、改善可能でもある。
かごがないのならつければいいし、足が届かないのでガードレールがある地点でしか停車できないのならサドルを下げればいい。袋もかぶせればいい。
ただし、冒頭の精彩ということばの本来の意味を鑑みると、ママチャリ自体が、どうもいけない。
では、しびんではどうだろう。
「あのしびん、精彩を欠いているな」
こう聞いたら、どのように感じるだろう。
多くの人は「もう、しびんとしての機能を果たさないのではないか」と感じるのではないだろうか。
しびんは、その機能がシンプルであるがゆえ、何かが欠損したとなるともう役にたたなくなってしまうのでは、と考えられてしまうのである。
じゃああればいいのかというと。
「あのしびんは精彩に富んでいる」
少なくとも、僕にはぐねっぐねの、「なんとかの森美術館」で野ざらしにされそうなフォルムのものしか思いつかない。
これでは、しびんの「機能美」が失われる。
すなわち、見た目悪いし、使い心地悪い。
どうやらしびんも、精彩をどうこう言ってはいけなさそうなものなのである。
そのうえ
※当方咽頭炎がとにかく治らない為、鋭意手を抜き中。
なんとなく、洗濯機で洗って壊れてしまった携帯電話のことを思い出した。
僕のことだから、携帯が壊れてしまったことを人に説明することになったら、こういうだろう。
「いやー、洗濯機で洗っちゃったうえに・・・」
本来、このセンテンスの「うえに・・・」はいらない。
なんでかというと、洗濯機で洗っちゃった時点で、たいていの携帯電話は悲しいお知らせすらお知らせしてくれなくなるから。
例えば、これが「落としちゃったうえに・・・」などなら、「うえに」の価値がある。
落としちゃったよりも同等もしくは強いパワーの持つ何かがいるからだ。
「落としちゃったうえに、轢かれた」
携帯電話も大往生である。
このように、「うえに」「さらに」には使用方法がちゃんと決められており、それをここでは「泣きっ面にハチの流れ」と呼ぶことにしよう。
このことわざは「泣いていた→そのうえハチに刺された」というほぼまんがな展開を示している。
一方、「ハチに刺された→そのうえ泣いていた」では、どうしてもハチ刺されが強すぎるのだ。
さて、この流れを踏まえると、さきほどの「洗濯機で洗っちゃったうえに・・・」は、人に何かを考えさせる。
それとも、その携帯電話は防水加工でもしていたのか。
「うえに・・・」は何か、「エーン」など、悲しみを表現する新しい擬音「ウェニー」なのだろうか。
何よりも、どんなことをすれば確実に携帯電話の息の根を止めることが出来るのだろうか。
「洗濯機で洗っちゃったうえに、次の日台風だった」
「洗濯機で洗っちゃったうえに、うすがどーん!!」
「洗濯機で洗っちゃったうえに、洗い中(荒井注)にアラームが作動」
「洗濯機で洗っちゃったうえに、ラードをすり込んでしまった」
「洗濯機で洗っちゃったうえに、たまたまその日の洗剤がアリエールじゃなかった」
「洗濯機で洗っちゃったうえに、とろねばスタミナソースをたっぷりとかけます」
うーんいまいち。
頭痛いし。
サンキュー引き
※当方咽頭炎で発熱、ふらふらのため、絶賛手を抜き中。
今、ケンタッキーで「日ごろの感謝を込めて390円引き!!」となっているが、サンキューを引いちゃだめだろう、という内容がどれほどネット上に氾濫するかで、みんなのケンタッキー力が試されるのだ。
手伝っちゃったな、本日。
お料理しやすいらしい
キッチンをのぞくと、古びた容器にこう書いてあった。
「おかあさん」
ハナマルキというメーカーが出しているお味噌の商品名だ。
非常に残念で、これに触れるのは僕にとって、そこはかとなく敗北感を感じてしまうものなのだが、しかたない。
お味噌の商品名が「おかあさん」である以上、それはこうなっているのである。
「だし入り おかあさん」
少々ホラー漫画タイトルである。
風呂からなかなか出てこない母親を心配した家族が目にしたもの。
それはいい香りのする湯船なのだった。
なお、この商品にはこんなフレーズがついている。
「とけやすくて、お料理しやすい」
となると、こうなるわけだ。
「おかあさん とけやすくて、お料理しやすい」
「おかあさん とけやすくて、お料理しやすい」
なんとまあ、派生しやすいこと!!。
珈琲十連・十連終夜
今でこそアレだが、ユニコーンファンである人間からすると、釣り番組でナレーターが奥田民義というのは、ちょっとあんまりな気持ちにさせることだったのだ。
あんまり歌を出さないと思っていたら、こんなところに出ていたのか。
釣り番組を契機に復活するのではないか。
そういったことを思い出させ興奮するが、すぐに民義(以下呼び捨てしてごめんなさい)であることに気づく。
民義も因果な名を持ったものだ。
ところで突然だが「褐色の恋人」というのをご存知だろうか。
スジャータのコーヒー用クリームのコピーであり、なんとも因果な名だ。
ポイントは、やはり「褐色」である。
確かにコーヒーは褐色、なんだろう。
しかしコーヒークリームが「褐色の恋人」とはどうだ。
1.褐色がコーヒーのことで、その恋人としてクリーム
→コーヒーを褐色呼ばわりである。
2.褐色の恋人がコーヒーのことで、その相手がクリーム
→クリーム主体のとらえ方である。
3.人種差別
→どうしてもそういった忌むべき問題を思い出させてしまう
良くないよね。
うちでは、猫にこのコーヒー用クリームを与えていたことがあり、その点では「2」は問題として意識しづらい。
しかし普通に考えてみれば、コーヒーを褐色と言ってみることでそれは漠然としたものになってしまうし、クリーム無しコーヒーはあるがコーヒー無しクリームは需要がないし、差別は良くない。
スジャータはこの点を考慮し、例えばクリームの色を設定した「白の恋人」などというコピーに修正、某商品とは関係のないことを明記してもらいたい。
ただ、コーヒーを褐色の恋人とし、その相手は人間であり、クリームについてはそれを仲介するくらいのものです、と言った世界をこのコピーで表そうとしているのなら、大いに結構なのでOKとする。
とにかく、コーンスープについては、今後も引き続きおいしく作ってもらいたい。
以上。
と、そうこう書いているうちに、コーヒー関連の話10話は、本日の10連コンボ完成をもって終了。
よくもでっちあげたものだ。
そして当分、コーヒーについては書かないだろう。
正直ぱっつんぱっつんで、コーヒー以外の派生ができないのが大変だった。
そして今思うと、この10夜をコーヒーを飲みながら書かなかったことに、くいが残る。
そうしていれば、内容も詰むことなく、もっと面白いことが書けたような気がするな。
確か、奥田民生が「コーヒー」という歌を出しているのだ。
♪ コーヒーで 一息入れろと 言ってる
なるほど。
珈琲十連・銀色の風
エスプレッソマシンというものがある。
その名のとおり、エスプレッソを作るための機器である。
様々な種類があるのかもしれないが、僕の見たことがあるのは、挽いた豆をセットし、水をセットし、なにやらすごく熱くなり、そして滴る、そんなマシンだった。
この手の機器で絶えず議論されるのは、ジューサーや電動泡だて器に代表される
「人生で2回くらいしか使わない」
「洗うのが面倒」
という2大巨塔である。
毎朝バナナオレが習慣になってしまえばいいのだが、それがない場合、なかなかジューサー大活躍、とはいかない。
同様に、毎夜ホイップクリームを体に塗りますとかなってしまえばいいのだが、それがない場合、電動泡だて器皆勤賞、ともいかない。
ざんねんだ。
さて、くだんのエスプレッソマシンと言えば、毎日とまではいかないまでも、毎週土曜日の午後なんかに登場。
その持ち主も交えての、小さい茶会が思い出される。
エスプレッソの香ばしさと苦味で、FLOのキャラメルプリンタルトがよくすすんだ。
ということで、このマシンは「人生で2回くらいしか使わない」シーンを回避することができた。
しかし、もう一つの巨塔「洗うのが面倒」は、どうにもならなかったように記憶する。
確かけっこうな具合にバラして、管には水を通して洗ったような・・・。
そうしないと、マシンの細かいところに前回のエスプレッソ分(ここではエスプレッソっちと呼ぼう)が残るのだ。
※このことは、人によっては「人生で1回だけ、エスプレッソっちに会う」ということを表している。
すなわち、「人生で2回しか使わなかったが、しかも洗わなかった」である。
まあ、こういったイベントがあったせいか、僕としてはジューサーなどのざんねんさはエスプレッソマシンにはそう感じない。
エスプレッソっちにも会わなかった、というか会っていたとしてもそれがエスプレッソっちなのか、入れたてのエスプレッソなのか、判別はつかなかっただろうが。
とにかくコーヒーも飲めたし、タルトもおいしかったしで、僕のコーヒー好きには、この午後がいくらか影響しているのは間違いない。
ただひとつ、このことを思い出すたびに、少し納得ならない気持ちが出てくることもある。
そのときのメンツを思い出してみると、どうもマッドハッター担当は僕くさいのだ。
珈琲十連・待ち時間
昨日は「コーヒーを飲み去る」ことを書いた。
本日はその逆ともとれる「コーヒーを待つ時間」について考えてみよう。
かねてより、僕は「料理を待つ時間は厳かでなければならない」と考えている。
と、こう書くと「箸の先端1cmまでしか汚してはならない」とか「迷い箸で手首から先切り落とし」のような感じになってしまうが、何もそこまでは考えていない。
そして上記の例は厳かでない。
ここでの厳かとは、もっぱら「料理を望む気持ち」のことであって、例えば席についていて、料理のにおいがしてきて、そしてそれが運ばれてくる間くらいは料理のことを考えよう、といったものである。
その考えは「コーヒーを待つ時間」でも同じで、例えば店でコーヒーを注文したとき、なにやら厨房からこぽこぽ湯の音がしたり、店員さんがうろうろしたり、なんかクリームを何かの上に乗せようとしたり、そして香りがしたり。
そのときくらいは出てくるコーヒーのことを楽しむべきなのである。
「コーヒーが出されたとき、一生懸命コンセントに詰まったホコリについて考えている客」
確かにコンセントに詰まったホコリは気になる。
でも、やっぱりここはコーヒーを待ち望んで欲しいところ。
店員さんも残念に思うだろう。
ん。
でも、コンセントに詰まったホコリも重要だよな・・・。
例を変えよう。
「コーヒーが出されたとき、掃除したトースターの金具がうまくかみ合わなかったことについて考えている客」
確かにトースターがまだ掃除前の状態に戻されていないことは気になる。
でも、せっかくのコーヒーなのだから、まずはそのことを考えてもらいたいところ。
トースターのことを考えている客になんて、店員さんは出したくないだろう。
お。
でも、この気になることって、トーストを注文できる喫茶店ではけっこうあるのかも。
例を変えよう。
「コーヒーが出されたとき、このあとどこに行こうかと考える客」
これだ。
こんな客は、店員さんに怒られてしまえ。
「コーヒーを出されたんだから、コーヒーのことを考えろ!!」
すると、こう返されるわけだ。
「ここのコーヒーを飲んじゃったら、もうそれが目的だったってことで満足しちゃうんだよ!!」
良い、しかしめんどくさい店の誕生である。
珈琲十連・離脱症状
中島らも「頭の中がカユいんだ」には、酒を注文してそれを飲み干すと、何秒もせずして店を出て行く人の描写がある。
アルコールを体内に取り入れるためだけの行動、その殺伐とした雰囲気がよく出ているのだが、これはコーヒーではありえなさそうである。
まず、コーヒーは入れるのにほどほど時間がかかる。
そしてコーヒーを急いで体に取り入れなければならないことが、普通ない。
そんなこんなで、上記の酒のようなシチュエーションは、コーヒーにはないのである。
ところが、である。
入店すぐにブレンドを注文。
ブレンドを飲み終えたら颯爽と出て行く人がいるのである。
もちろん注文後、すぐにはコーヒーは出てこないため、新聞などを見ている。
しかしコーヒーが出てくるやいなや、すぐそれを口にし、一言二言したと思ったらもう出ている。
ダンディーである。
何を急いでコーヒーを飲むことがあるのか。
愚問である。
コーヒーを飲まないと倒れてしまうのか。
関節が痛むのか。
眠くてしょうがないのか。
やはり愚問である。
結局、コーヒーの好きな人には「あーもう、コーヒー飲まんとたまらん」というときがあるのだ。
それが人を、「コーヒー飲み去り」というハードボイルドな行動に走らせるのだろう。
日常のコミュニケーション、わずらわしい。
新聞?。焦点が合わん。
早くコーヒーを嗅がせてくれ!!。
こう書くと少々騒がしく、ダンディーじゃない気もしてきた。
でもとにかく「コーヒー飲み去り人」はこんな状態であり、はたから見る分にはやはりダンディーで、これから指名手配犯を逮捕したり、親の敵を討ったり、劣勢な裁判を覆したり、不可能と思われた時間内の荷物届けをやってのけたりするのだろう。
かっこいいのである。
と、無論ここまでくれば「実は僕でした」とやりたいところだが、残念。
当方、一度で長く効く方なんで。