僕はそれほどモノマネのレパートリーがないと思っていたが、結構な頻度で「スーパーファミコンのスターフォックスのカエル」のモノマネをしていることに気づいた。
誰もいないところで。
さらにいうと「グラディウス3のラスボス」のモノマネもしている。
誰にも知られないところで。
誰にも公表しないモノマネというのは、悲しい。
モノマネである以上、オリジナルは決して越えはしない運命であるから、せめて誰かに知ってもらうということが、その供養になるというのに。
ということで、あまりモノマネをしないようにしたいところなのだが、今日は「何かの中国映画のオープニングで流れていた曲」のモノマネだ。
これは、後ろを歩いていたおじさんに聞かれてしまったから、供養済みである。
投稿者: nimbus7942
イヤホンジャックについて
幸運にも携帯電話を落としたことはない。
だが、それを失った時のめんどくささはなんとなくわかるため、ストラップをつけて首から吊り下げるようにしている。
これで落とさない。
しかし、不安の種はさらに上を行く予想を僕にさせ、すなわちストラップのリング金具部分、合わさっている部分から奇跡的に離脱。
落としてしまうかもしれない。
そこで僕は長さの短いイヤホンを購入し、音楽を聴く体で過ごすようにしている。
イヤホンが、ストラップと同じ安全性まで保持しているとは思わない。
ただ、ある程度は携帯電話落下の危険性を下げてくれるだろうし、もう落下させてしまった場合、「あれ、志ん生の落語が聞こえない」などの異常でそれを察知させてくれるかもしれない。
ところで、今カバンの中を見てみたら、外れたイヤホンが入っている。
携帯電話がない。
家の充電器につけっぱなしだ。
最初に「携帯電話を落としたことがない」としたが、危ないところは何度もあったのかもしれない。
気をつけなければ。
それにしても、カバンの中のイヤホン。
昨今、最新のやつはイヤホンジャックがなくなるかどうかの話題があるようだ。
これでiphoneの落とし物率がダウンするのなら、新しいイヤホン差し込みのところが固いと言え、今のイヤホンは3DS用になる。
一方、アップするのなら、差し込みのところが緩い。
アダプタを介して今のイヤホンを使用しても、結局アダプタと携帯間が緩いため、緩い以上の性能アップは別のルートを考えるしかない。
そしてイヤホンは3DS用になり、差し込みが緩いのは、スタンダードになる。
どちらにせよ、今のイヤホンは3DS用になるが、それは悪いことではないし、まだわからない。
買い替える予定がないから。
しんにゅう
やっぱり「遊ぶ」という漢字の、「しんにょう」のところには乗りすぎな気がする。
「測」など、横並びに多いやつもあるが、乗ってない。
「遊」は横並びも多くて、しかも一番左のやつにみんな乗っているというのがポイント。
ときには骨が降りることもあるが(髄)、「しんにょう」の懐の深さを感じる。
そして通り名が複数あり(しんにょう、しんにゅう)、その漢字内位置から全体のバランスをとるのが難しく、小学生の時にチラシの裏で誰もが練習しただろうこと。
「しんにょう」はかなり特殊な部首と言える。
調べてみると、本来の正しい形は「迄」などに見られる点が2つある型(こちらは4画)らしく、もうどっちでもいいじゃんというくらい、独特。
仲間っぽいのに「延」などにいる「えんにょう」は「えんにょう、しんにょう」と呼ぶらしく、この換算方法を使えば「しんにょう」も「しんにょう、しんにゅう、えんにょう、えんにゅう」と夢の4通り名になり、もう1年くらい、「しんにょう」ってひらがなを見たくない感じ。
背比べ
近所で「たけのこの里」と「きのこの山」(おなじみサイズ箱のやつ)が、100円で売られることがあるため、両方を比較しやすい環境に、僕は住んでいる。
で、知ったことには「たけのこの里」のほうが少し内容量が少ない、ということで、たぶん知っている人は知っているだろう。
なんせ「たけのこの里」と「きのこの山」の話なわけであるから、それは「盛り上がる」。
たけのこ、きのこだけに。
ともかく、内容量は少しきのこの山に分があるんである。
これを「きのこの山の強み」とみるのか、「たけのこの里の高価さ」とみるのかは人によるだろう。
僕はどちらも好きだから、ありがちだが甲乙つけがたいところ。
ただ、「きのこの山」「たけのこの里」どちらも、開封後数分ですべて平らげてしまう。
それは明記しておこうと思う。
なお、私的には以下のようなメリット、デメリットがこれらのお菓子には存在する。
■たけのこの里
・メリット:おいしい、クッキー部分が粉ふいてて面白い
・デメリット:チョコとクッキー部分が分離しにくい
■きのこの山
・メリット:おいしい、チョコ部分を取り除いたクッキー(ビスケット?)が大腿骨みたいで楽しい
・デメリット:割れて石づきだけ、傘だけになっているものがある(ただし、これは最後にひときのこと複数の石づきを食べることによる「チョコ割合の低いきのこの山」という別風味を楽しむ」メリットでもある)
時間モザイク
最近は撮影機材の進歩も著しいのだろう。
鮮明なスロー映像がよくバラエティ番組や教育番組で流れている。
風船の破裂する瞬間や、素早い動物の映像。
もっとすごいものになると回転が分かるくらい、スローな状態で弾丸がこんにゃくみたいなものに突き刺さっていく映像など。
これらの何が面白いのかというと、やはり「いつもは早いのに、ゆっくり見える」という点だろう。
今まで早くて気づかなかった動きや細かな点など、人間の目にも認識できるくらいのスピードで見えるから。
また、ゆっくりとした動き自体が面白いというのもあるだろう。
しかし僕としてはもう一つ、面白さがあることを付け加えたい。
それは「スローになっているものに触ったらどうなるか」という好奇心をぐりぐりする疑問であり、そう思っている人も多いに違いない。
例えば前者の弾丸。
いつもの環境ならぎゅーんいってこんにゃくに突き刺さるわけだが、スロー映像では今にも触れそうだ。
目の前を流れる回転ずしよりも遅いくらいで、簡単に箸でつまめる。
もちろん、弾丸がそんなスピードで「飛行」することは、それ自体に動力がなくて難しいだろうから、それだけで非日常的で楽しい。
また、ゆっくりなこと自体もかわいくて楽しい。
ハエなんかがそのくらいのスピードでしか飛べなかったとしたら、そのトロさがかわいく見え、もっと人類と鳥類に人気が出る。
そして触ったらどうなるか。
弾丸の横っ腹をつついたら、どれほど軌道が逸れるものなのか。
こんにゃくに当たる前に指を先端に当てたら、指が破壊されるのか。
要は弾丸の持つエネルギーが、スロー状態ではどうなるのかということになる。
ゲームの世界では「敵をスロー状態にして、動きをトロくする」というのがよくあるが、実は攻撃力も下がるんじゃない?ということでもある。
さらに、「時間の流れが違うものに触れる」という、様々なSFやホラー、漫画で扱われている事象も興味深い。
特に何もジレンマに陥るようなことはないのか。
触れたところだけが、触れたものの時間の流れに相当するのか。
SFの醍醐味を考えると、「弾丸とその周囲10cmくらいだけ時間の流れが遅い」という感じのが面白い。
特殊相対性理論では「早いものは時間の流れが遅い」となっているらしいが、どういうわけか、とにかく「弾丸とその周囲10cmくらいだけ時間の流れが遅い」ということで、これでは弾丸に触れようとした右手だけにウラシマ効果が発動。
末永く手タレとして活動できて、よろしい。
クワガタムシなどの昆虫に「雌雄モザイク」という、左半分がオス、もう一方はメスみたいな、いったいどうしたんだという個体が存在する。
遺伝学的に異なる性質の細胞が両在している状態を指しているわけだが、先ほどの右手はいわば「時間モザイク」の状態と言え、例えば例の弾丸を大きくして、その上にまたがっていれば、足:20歳で足以外:50歳の時間モザイク個体が完成。
末永く足タレとして活動できて、これはもういいか。
また、そんなことを考え出すと次は「老化」というものも無視はできず、確か一部器官のみ老化が著しく進行するという病気があったはず。
もちろんそれは、時間の流れどうこうというよりも遺伝工学の世界の話だろうが、例えばその病気の特効薬が開発。
その名前が「光の弾丸」だったりすると中2っぽくてかっこよい。
ところで、難しいことは分からないが「早いものは時間の流れが遅い」ということは、相対的に「静止しているものが一番時間の流れが速い」ということでいいのだろうか。
そうなると時間の流れが、より遅くなる分には余裕がありそうだが、より早くなることは難しそうである。
時間の流れをより早くすることは、「より静止」しなくてはならないから、これは少なくとも僕には難しい。
まずは外出をやめることと、静止する旨を通知しなくてはならない。
それから冬のように布団から出なくなり、あとはもう身じろぎせず、「固くなる」ことを絶やさないくらいしかできないだろう。
トランセルか俺は。
ヒユ プリミティブ2
【昨年のあらすじ】
比喩の例えは、自然物の方がいいのか、人工物の方がいいのか。
=====
本来、比喩で用いる「例え」の方に、自然のものか人工物かなんてことを気にする必要はなく、よほど「一般的にうまいこと言えているか」の方が重要だ。
「こないだの忘年会、吉田さんの一発芸が面白かった。さるまっぺくらいに。」
このとき、いくら一部の人間にとって抱腹絶倒の比喩だったとしても、さるまっぺは著しく市民権を得ていない。
その時点で、この比喩は成功していない。
調べてみると比喩というのは修辞学における技法の一つに数えられるそうで、それは言い換えると弁論に用いる技術。
相手がさるまっぺを知らないとなると、弁論以前の、ちょっとそこはどうにかしておいてよ、という問題になってしまうわけである。
しかし、それでも考えてみることにする。
「光陰矢の如し」
ことわざだったと思うが、これは月日、時間の流れは「矢」のように早いよ、ということである。
おそらく当時、矢以上の速さのものは光陰以外知られていなかったのだろう。
早いよね、光陰。
ところで、ここでの例え、「矢」は人工物である。
あの、弓でびゅっとやる、あるいは破魔の力のある、あるいは先端に吸盤がくっついている、あるいはモンハンで長い敵に貫通させると気持ちいい。
光陰という自然の現象に対して、人工物の例え。
全く問題ないが、もし無理にでも問題を生じさせるとすると、こんなことは思いつかないだろうか。
「例える相手が自然の現象ならば、その例えに用いるものも自然現象の方がいいのではないか」
国際的に何かルールがあります、とかは知らないのだが、個人的には全然そうは思わない。
今回は「速さ」に注目していることであるから、むしろ「自然現象と人工物」で性質的にも相対した方が「すごい感」が出ていいのではないかとすら思う。
もちろん、「矢」が発明される前は自然物が「光陰」と比喩関係にあったこともあるだろうし、今では矢よりも早いものはいくつも存在する。
でも、どうしても我々西暦っ子は、「光陰矢の如し」で来てしまった。
「光陰」の「光」そのものの正体が反映したにもかかわらず、「矢」で来てしまった。
こうなると「自然物の方がいいのではないですか」という質問をする者に対しては、「実はここで使っている矢、海に生息するイモガイが放つ毒針のことなんです」と新しい矢の概念を持ち出すくらいしかない。
しかし、これで一安心とはおそらくいかず、質問者は次に「その矢は貝工物だから、自然物ではありません」などとくるかもしれない。
これではもはや自然物と人工物なのか、さらには生物由来なのかと定義付けがそれぞれに必要となり、いや人類を含めた生物すべては自然のものだしなどと、もうゴッドガンダムの世界であり、まさに神のみぞ知るというところだろう。
冒頭にあるように、比喩の例えは自然物であろうが人工物であろうが、比喩として完成されているならば問題ではないだろう。
強いて言えば、比喩を使用してきた相手に対して「なんくせ」をつけるには案外いいかも知れない。
ヒユ プリミティブ
「まるでリニアモーターカーのようだ」
ごめん。
今思いつく最先端のものがリニアモーターカーだったのだが、このように「比喩」というものは例えたいそのもの、ではない何か別のニューフェースが必要だ。
この場合はリニアモーターカーで、おそらくこの人は「えっ、付き合ったり別れたりを繰り返してたけど、こないだ結婚したの!?」みたいな前置きがあったのだろう。
僕が最近気になるのが「原始人の比喩」のようなもので、大きくは「例え対象が人工物か自然物か」。
深く考えると「比喩の例え対象はどこまでシンプルになるのか」というものだ。
例えば、先ほどのリニアモーターカーを、その速さを鑑みての例え対象として使用するとき。
そのリニアモーターカーがなかった時代はどうだったのだろうか。
「まるで未来の列車、名付けてリニアモーターカーのようだ」
「まるで電車のようだ」
「まるで蒸気機関車のようだ」
先見の明ありすぎの例もある。
しかし一つ言えるのは、いつか人工物から自然物に代わる時代的、文明的タイミングがあるはずである。
それは時代をさかのぼればもちろん例え対象はより古くなり、複雑な道具がなければよりシンプルなものになるということ。
「まるで未来の列車、名付けて蒸気機関車のようだ」
「まるで飛脚のようだ」
「まるで未来の職業、飛脚のようだ」
「まるで矢のようだ」
「まるで馬のようだ」
比喩の歴史を追うと、よりシンプルな道具になったり、人工物でなく生き物になったりするに違いない。
となると次に気になるのが「比喩を使うとき、人工物、自然物どちらのほうがナイスか」という点だ。
次回へ。
親ら
「一親等」というように使う「親等」は、親族の遠近な関係を数値で表しているもので、ちょいちょい目にする。
確か子供から見て親が、親から見て子供が一親等なのだが、そうなると気になるのが「零親等」の存在で、一般的にはそんな言葉はないようだ。
しかし、むりくり何かを表現するものだとして考えると、普通は「自分自身」だと考えるんじゃないだろうか。
ところがサイトによっては、こう来る。
「配偶者のこと」
もちろん「もし意味を持たせるなら」という前提ではあるが、どうも「親等」というものを「自分以外の親族のこと」として考えたとき、「自分ではないが一親等よりも近い存在」として配偶者が最適ではないか。
そういうことらしい。
遊びの範疇であれ、零親等というものが自分自身のことと勝手に考えていた僕にとって、配偶者もその権利があるかも、という考え方は衝撃だった。
一心同体。
結婚式でよく聞くこの言葉どおりじゃないか。
で、この流れになるともちろん「3/5親等、5/3親等」や「マイナス一親等」。
虚数の「i親等」などの夢が広がってくる。
「マイナス一親等」なんて星みたいだ。
なんとなくそれらについての僕の見解は、以下だ。
・3/5親等:子供から見て、子離れできていない親。親から見て、親孝行な子供。
・5/3親等:子供から見て、よく二人で旅行に行く親。親から見て、あまり似ていないなと思う子供。
・マイナス一親等:子供から見て、背後霊。親から見て、背後霊。
・虚数i親等:子供から見て、二乗すると背後霊になる親。親から見て、二乗すると背後霊になる子供。
だってさ!!。
柿と倫理
うちには柿の木があるのだが、今年もたんころりん発生やむなしの数、実がなっている。
熟して落ちては近隣にも迷惑、枝を落として実を回収、素人ながら干し柿にするのだが、その時思った。
「枝についたままの柿を干し柿にできないだろうか」
干し柿は枝から外して、変な紐につけて干すのが一般的で、うちでもそうしている。
ただ、それが面倒くさくなったから「枝についたまま」を考えたわけではなく、何か芸術作品のように見えるのではないか。
そう思ったのである。
枯れた枝に飴色の干し柿がついている感じである。
干し方によってはもっとみずみずしく見えるようにできるかもしれない。
それが、それっぽい「まな板皿」に供されていたら、あら魯山人。
魯山人じゃない。
さっそく調べてみると、こう説明されているサイトがあった。
「渋柿の皮をむいて干すと、表面に膜がはる。こうして酸素を通さなくすると渋みと結合する物質ができ、結果渋みを感じることがなくなる」
結構かいつまんだが、要は酸素を通さなくすればいいのである。
これはいい。
柿の木全体を食用油にひたせば、柿の木に干し柿が実っているという、桃源郷に生えていそうなやつができちゃうじゃん!。
味と倫理に問題ありそうだが。
飛び出せ2
昨日からの続き
【あらすじ】
「仕掛け絵本」は面白いが、内容はどうしても「絵本に向いている物語」限定になりがち。
一方、日曜のテレビ番組「サンデーモーニング」では、絵本に向いてなさそうなニュースを「仕掛けて」いる。
=====
いつからだっただろうか。
サンデーモーニングで「もう中学生」がブレインとして参加したのは。
いや、参加したのかどうかは知らない。
しかし、とにかくあるトピックに対して図画工作が行われるようになり、それは今でもあるらしいのだ。
これには、僕だけでなく、多くの人が「なんか手作り感出てる」と気にしたに違いない。
おそらく、あのギミックは、「難解であったり触れがたい内容のニュースであっても、分かりやすく、あるいは刺激を和らげつつ物事を伝える」方法なのだろう、たぶん。
しかし見方を変えれば「分かりやすさを重視したため、問題の重要性、深度が薄れがち」ということでもある。
どちらも正論で一概にどちらがマズい、などとは決められない。
しかし、「サンデーモーニングがテレビ番組である」という点は見逃せない。
すなわち、「仕掛けることで分かりやすい一方、ゆるくなりがちなニュースについて、キャスト陣がフォローする」ということ。
ゆるくなったままではニュース番組としての意義が危ぶまれるわけだが、そこは動的に対応できる関口さんや、知的なメガネの女性の存在が、「磁石ギミックでずるずる動くオバマ大統領」でゆるくなった雰囲気を締めるわけである。
特に知的なメガネの女性のニュースきびきび感はすさまじいものがある。
僕自身も、かなりメガネが好きだ。
このような理由により、サンデーモーニングでは、「一見仕掛けるのが難しそうなのを仕掛けつつ、重要性は失わず」が成功している。
このような構図は、仕掛け絵本側には難しいだろう。
一方、上記の「仕掛け絵本側には難しい」部分について、実は僕らが、仕掛け絵本に採用されている「絵本に向いている物語」を、ゆるいものと軽視していること自体が間違っているという可能性も否定できない。
要は、仕掛け絵本とサンデーモーニングに「仕掛ける対象に差が出ている」と思うこと自体が間違っており、仕掛け絵本の内容もニュースの内容も同じ重さである、という考え方である。
「探査機はやぶさ」のギミックが紙をスライドさせながら地球に戻ることと、わらの家をオオカミが壊すことは等しい重要度とみる。
これはなかなか奥が深くて、この考え方を持つと「わらの家を壊された子豚の悲しみ」「さらに食べられてしまうことの残酷さ」などがすごく重要なことで、もはや自己のことと同化すらし、感慨深いものとなるだろう。
このように、仕掛けることを生業とする「仕掛け絵本」「サンデーモーニング」のことを考えてみたら、物事の重要性を損なわずに分かりやすく伝えるやり方や、他人を思いやる気持ちがはぐくまれる可能性が示唆できた。
情操教育にもいいのではないか。
僕もこれらを鑑み、より人間性を高めいくつもりであるが、ところで最近、サンデーモーニングで知的なメガネの女性がいないような気がするのだがどうしてくれるんだこのやろう。