プレイヤー

こないだどこかのニュースで「すいか割り」をしている人のことを「プレイヤー」と言っていた。
それまで全然気にしていなかった。
それは、もともと「すいか割り」という行為が嫌いだったという僕の性質もさることながら、それほど「すいか割り」に着目していなかった。
ましてやそれをしている人なんて。
そんな日常のなかで、それまではアスリートな、武井壮的な意味を持っていた「プレイヤー」は、場合によっては棒を手に、目隠しして右往左往する人も包括する、寛大な言葉に生まれ変わった。
ただ、例えばすいか割りをしているそばでビーチバレーをしている場合、「プレイヤー」ではどちらがどちらか分からない。
そんなことをこないだ飲みながら考えていたら、どうしてもすいか割り側は「ウォーターメロンブレイカー」と呼ばざるを得ない。
仕方のないことだ。
そう結論づいた。
ついでに「すいわ割り」を「スイカ割」にすると、もうモバイルCM臭がしてハンパないことが、今分かった。

笑顔

「笑顔」というのは、顔がくしゃっと複雑に、非対称的に変化する。
それが妙に魅力的だということを、誰しも経験則として知っている。
一方で、それを心の底から生み出すことは時として難しいことも知られている。
「あいつの笑顔を取り戻すため、俺は来年のことを言い続ける」
あっ、鬼は簡単みたい。

三大珍味

俺たちが目指したいのは「世界三大珍味の統合」。
一種の生物で世界三大珍味すべてをまかなう、である。
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世界三大珍味
・フォアグラ:肥大しているガチョウの肝臓。おいしいが製造過程が残酷なので、いろいろむずい。
・キャビア:チョウザメの卵。数粒を意識を集中して食べたことがあるが、しょっぱい。
・トリュフ:まずそうなキノコ。消しゴムのカス程度のものを集中して食べたことあるが、覚えてない。
~~~~~
まずい。
とりあえずメモ帳に書いてあったから話を進めてみたが、動植物のレベルから違うやつがいる。
ともかく、フォアグラとキャビアはどうにかならないだろうか。
つまるところ、肥大した肝臓を持ったガチョウが、チョウザメの卵を産めばいいんである。
そのガチョウは世界三大珍味の2つを生産できる家畜となり、いわば「世界の珍味2/3」。
これは統合されている。
いや、確かに難しい。
鳥と魚をうまいこと、クローン技術とかバイオテクノロジーを駆使して混ぜ込まねばならない。
冒頭の「俺たち」は、オレンジとカラタチを細胞融合させて誕生した「オレタチ」をひっかけているわけだが、ただそれらの細胞同士をくっつけて混ぜ込むくらいでも、「世界の珍味2/3」は誕生しないだろう。
「ガチョウの細胞とチョウザメの細胞が混じった、何か」
内容物も差異が激しそうで、とにかくこれ以上の何物でもないだろう。
なんかかわいそうだ。
もし、これでキメラもびっくりの「ガチョウザメ」が誕生するようなら、インド神話においていろんなものを生み出した「乳海攪拌」というのが、結構まじで起きたかもと考えなければならない。
しかし我々は、とりあえずこの難題をも霞む「トリュフ」の統一が待っている。
トリュフはガチョウとしては、あるいはチョウザメとしては、いったい何なのだろうか。
あるいはトリュフにとって、ガチョウやチョウザメは何なのだろうか。
もはや哲学的な感じすらするが、今回はそうではなくむしろ欲丸出し、「世界三大珍味の統一」である。
かろうじて考えうるのは「チョウザメの卵を産む肝臓の肥大したガチョウが、トリュフを常に持ち歩いている」になるだろうか。
確かポケモンに「カモネギ」というやつがいたが、みなまで言うまい。
そして、統一という観点では少し残念だ。
あるいはこれはどうか。
「肥大した肝臓を持つチョウザメの脳の部分に、トリュフが寄生している」
ご存知の通り、マタンゴの発想である。
実は当方、マタンゴについてはかなり疎いが、なんとなく「脳に寄生」というのがトリュフの形状から、合っているのではないかと思う。
どちらにせよこれらのことができようものなら、もう何でもできそうである。
ただ、こないだ高コストながらも試験管で培養して作られた人工肉が報じられた。
上記のような「食われるだけの末端」にいるような生物を作るよりは、人工肉の改善を進めるほうがいい気もしないでもないが、これらの話は嗜好や食糧問題にとどまらず、思想や宗教にも関連しうる。
簡単な話ではないだろうなので、最後になぞなぞを出しておく。
「右手がフォアグラ、左手がトリュフ。頭がキャビアで左足が鮭とば、右足がウニで体がカニみそ。これなーんだ?」
僕が好きなのは右手と左足である。

木鶏イング

【なんとなく意味ありそうな1文で、テキトーな文章を締めてみるコーナー】
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もうさ、その夢で食べたスルメが、本当においしかったの。
夢だから場所とかわかんないんだけど、やっぱり海の近くみたいで、潮の香りがしていて。
小さい商店みたいなところで、お店の人はいないんだけど、そこにそのスルメがあったの。
小さいんだよ?。
見てくれは小さいんだけど、とにかく味が濃いの。
あんなスルメは食べたことがないねえ。
どんな種類かもわからないし、作り方もわからない。
まあ、スルメだから干せばいいんだろうけど、なんか難しいよね、スルメって。
いや、なんでかというと、あいつってイカを干して完成、みたいなところ、あるじゃない?。
その、おいしいってのが普通、海産物なら「新鮮さ」がその要素のひとつにあるじゃない?。
スルメって干してるから、なんかおいしさの要素に「新鮮さ」がないと思うのよね。
「新鮮なスルメ」って、聞かないじゃない?。
そんな、他の海産物と比べて「おいしさの要素」の一つがないスルメが、すごいおいしいんだもの、夢で。
すごいことよね。
それまで、スルメってそれほどでもなかったけど、あの夢のスルメのおかげで、最近スルメに目覚めたわ。
逆に言うと、興味なかったり、逆に魅かれるような未知の食べ物については、私はより期待しちゃうようになったと思うわ。
あれ、ベネディクトエッグね。
まだ食べたことないんだけど、あれも見た目は最高よね。
あれは、くだんのスルメの件があるから、期待しちゃうわ、ほんと。
夢でない分、その期待は是か非かの結果に変わるんだけどね。
え、エッグベネディクト?。
「ベネディクトエッグ」じゃないの?。
ふーん、そうなんだ。
なんか、私は「ベネディクトエッグ」よりも「エッグベネディクト」のほうがいいな。
だって、「エピオンガンダム」よりは「ガンダムエピオン」だし、「ビッグボディキン肉マン」よりは「キン肉マンビッグボディ」だもの。
でもさ、仕事で「管轄外だから、これ以上はやらない」なんて決め事しているやつができるのは、「これ未満」のことだけなんだよね。

君の名は

某駅のホームで電車を待っていると、目の前に「シティーハンター30周年」的な看板があった。
熱狂的なファンというわけではないが、何度かアニメを見たことがあるし、エンディング曲は確かTMネットワークだったし、キン肉マンの声の人だったし。
思い出がないわけではない。
その看板で気になったのが、人物横に添えられた名前である。
どの人物も見たことあるのだが、触れざるを得ない人物が「ファルコン(海坊主)」と添えられたサングラスの人物である。
もちろん、「結局本名は何なんだ」という疑問が生じる。
知っている人は知っているのだろうが、それほど市民権を得ていないぞ、ファルコンの本名。
しかしそれより気になるのが、「ファルコン」と「海坊主」の優先度である。
僕は今まで、こういう状況でのかっこ、”( )”の使い方は、その中により詳細な、あるいは分かりやすい表現を書く、というのが普通だと思っていた。
グラタン(マカロニ入り火傷発生食品)
詳細である。
アタック(洗剤)
分かりやすい。
そこにきて、これである。
ファルコン(海坊主)
詳細でもないし、分かりやすくもない。
かろうじて人外であることがくみ取れそうだが、残念なことに彼は確か人間である。
と、ここで気づかねばならないのは、以下で納得できる「熱狂的ではないが結構知っているファンの層」についてである。
「えっ、ファルコンって?。やだなあ、海坊主のことだよ」
これで「あー」と言える層がいるわけである。
おそらくマーケティングか何かを行い、「ファルコンより、海坊主のほうが知名度高い」と結論が出たのだろう。
だから「ファルコン(海坊主)」。
だったら「海坊主」だけでいいのに。
ちなみに、先ほどの「あー」層の実態はこう。
95%・・・海坊主=ファルコン
3%・・・海坊主=はやぶさ
2%・・・海坊主=ネバーエンディングストーリーの変な竜

デビル

結構昔から気にしていることに「タスマニアデビルは言うほどデビルではないのではないか」というものがある。
「タスマニアデビル」は確か、オーストラリアだかニュージーランド付近の「タスマニア島」に生息する有袋類で、ちょっと大きい猫くらいの大きさ。
しかし、体表の黒い毛と一部入るハイライトの白線は、ちょうどツキノワグマっぽい。
テレビではともかく獰猛な感じがよく出ていて、調べてみると噛む力も相当すごいらしい。
大人しくしていればかわいいのに、という幼馴染が関与するアニメでありそうな設定を地で行く。
それにしても「デビル」はないんじゃないだろうか。
幼心にそう思っていた。
デビルってもう、悪の権化みたいなイメージがあって、もちろんある部分が人間とは相いれないのだとしても、デビル呼ばわりはどうなんだ。
どうにか「デビル」のいいところを見繕っている「デビルマン」「ひょうきん族のブラックデビル」をもってしても、どうにもデビルは悪すぎる。
しかし、考え方を変えると、実は「デビル」はそれほど悪い意味じゃない、という可能性もある。
せいぜい「黒いやつ」とか「ちょいちょい見かける」くらいの意味だったのではないだろうか、少なくとも「タスマニアデビル」発見当時。
それなら仕方ない。
「タスマニアでちょいちょい見かける」。
その通りだ。
それにしても、今モンスターズユニバーシティがテレビでやっているのだが、「マイクのそら豆感」と言ったら、なんだ。
完全にそら豆じゃないか。
そうなると、デビルとか豆とか出てきたからどうしても「デビルをターゲットにした節分」を考えなくてはならない。
「ならない」ってこともないですが。

目は口ほどに

ものを言う、っていうことわざがある。
これがよくあてはまるのは「犬猫」だろう。
まず、このことわざを数式で表すと、ものを言うことについては「目≧口」になり、犬猫は「口=0」だから、「目<0」にでもならない限り、必ず「目≧口」が成り立つ。
もう、このことわざの代名詞といっても過言ではない。
※ここでの0は、「ものを言うことがゼロ。あるいはものを言わない」ということになる。
今、「口≧口」が顔っぽいなと思ったが、それはさておき気になるのは「目<0」はどういったことなんだ、ということである。
申し訳ないのだが失礼を承知で言えば、視力が著しく低い場合や失明というものが浮かぶ。
だが、それは目の能力を視力としてとらえる場合で、一方でこのことわざは視力のことを言っているわけではない。
おそらく、形なのである。
目と、その周辺の様相、表情が「ものを言う」わけで、「目<0」は、「表情<ものを言わない」と言い換えられる。
さて、やっと「目<0」というものは、「ものを表現しようとしていない表情」で収まった、と考えるのはちと早い。
それでは「「表情=ものを言わない」であって、「表情<ものを言わない」ではない。
負の「ものを言う」は、日本語に直すとどうなるのか。
普通に考えると「ものを言ってもらう」になるか。
それは「ものを言ってもらいたそうな表情」ということで、それはいきなりありそうすぎる。
しかし再考してみると「それがもの言ってるじゃん」という気もし、もう全然わかんない。
「ものを言う」ことを出力と考えると、入力がそれにあたるか。
「ものを取り入れる表情」
「感化されやすい表情」
「師匠の講演を真剣に見つめるまなざし」
とりあえず、今回の内容はばかっぽい感じがいつもよりすごい。
疲れた。
ただ、メガネを普段かけている人の目が言っているのはわかりやすいから書いておく。
33だ。
33としか言っていない。
追記
このことわざって、「口よりも目の方がものを言う」ってわけでもないか。。。

だまし絵の悲劇

だまし絵は唐突である。
「はい。これまで、だまし絵の歴史についていろいろ考えてきました。それでは実際に見てみましょう」
このような、だまし絵にとって幸運な流れはなかなかお目にかかれない。
「この中に猫は何匹隠れているでしょうか」
いきなりこう来る。
それまで猫なんか探していなかったのに。
あるいはこう来る。
「この絵の人は若い女性に見えますか、それとも老婆に見えますか」
それまで中野のおいしいラーメン特集だったのに。
そして、だまし絵は沈黙である。
「よく見たら骸骨でした」
「よく見たら別の人物が描かれていました」
「よく見たらありえない交差をしていました」
だまし絵は絵だから動く能力に乏しく、いわば出落ちなところがある。
その瞬間から、結果が見えている状態なのだが、その結果は基本的に隠れている。
そしてその隠れた結果を探す。
この一連の流れは、かなり静かだ。
「どうだ?隠れていただろう!?」
だまし絵としてはそう言いたいのかもしれないが、そうであったとしてもこちらは「うん、そうだね」以上のものはなく、会話が成り立ちにくい。
「うっひゃあーだまされたー!!やったー!!」
だまし絵冥利に尽きるだろうこのようなセリフを吐く人を、僕は見たことがない。
最後に、だまし絵というものは「生まれが卑しい」。
もちろん、たまたま描いていた絵の中に、他の人の顔のように見える部分ができました。
ありえなくはないだろうが、大抵のだまし絵は、書かれているときから、もうだます気で書かれている。
生まれながらにしての詐欺師である。
なぜいきなりだまし絵のことを考えてしまったのかというと、「だまし絵の芸術的価値」が気になったからだ。
おそらく、芸術というものに、生まれの質は影響しないだろう。
僕はよく知らないが、だまし絵に属するような絵でも、芸術的価値が見いだされることも存分にあるだろう。
しかしだまし絵からしてみれば、そんな価値はその存在を否定されるようなものかもしれない。
「ここのタッチが素晴らしい、大胆だがそれでも緻密で、女性の若さゆえの危うさが表現できている。で、ここがだましているところで。」
これではだまし絵がかわいそう。
そんなこんなで、だまし絵には芸術的価値は似合わない。
だが、これなら少しは救われるかも。
「ここのタッチが素晴らしい、大胆だがそれでも緻密で、女性の若さゆえの危うさが表現できている。で、ここが老婆ゆえの危うさのところで。」

もはや蠱毒の様相

じゃんけんにはメンバーが3つあって、グー、チョキ、パーとして、均等な勢力を維持している。
3すくみの関係というものは海外を含めると様々な種類があって楽しい。
日本で有名なのは虫拳で、何か序盤のボスが使ってきそうな名前だが、ほぼじゃんけん。
手で表現するのは「へび」、「かえる」と「なめくじ」で、実際には厳しいが考え方としては「へび、かえるに強い」「かえる、なめくじに強い」「なめくじ、へびに強い」である。
ここで、じゃんけんにおける「グーとチョキとパーの長所をすべて備え、無敵だとされる型「グーチョッパー」について説明すると、それ以上の説明はない。
親指から中指までは広げ、薬指と小指は曲げる。
これで「グーもチョキもパーも兼ねる」型であり、それは反則的無敵か反則である。
この「グーチョッパー」の虫拳版はどうしようか。
それが今日、言いたかったことである。
wikiを見てみると、虫拳は平安時代からあるという。
すごいことだが、当時でも議論はあったのではないか。
すべてを負かす虫が。
それはおそらく接待用に必要だったに違いない。
「いやあ、それを出されては。かないませぬな!!」
こんな感じ。
それはどんな虫だったのだろう。
普通に考えると、「グーチョッパー」のような、すべての特徴を兼ね備える、合成。
虫拳では「蛇と蛙と蛞蝓」のキメラになるだろう。
今、漢字で書いてみたが、みんな虫へんだ。
「蛇と蛙と蛞蝓のキメラ」というのは何だ。
強いのか?。
蛇はまだいい。
本家のキメラだって、しっぽは蛇です、という例があるくらいだから、強さに貢献できる何かがある。
蛙は怪しい。
跳躍力と伸びる舌が、長所である判明、なんとなく雑魚っぽさを醸し出す。
蛞蝓は厳しい。
表立って目立つ特徴は気持ち悪いことだ。それ以外、いいやつなのか悪いやつなのかすら分からない。
と、強さについて考えていたことに、僕は勘違いしていたことに気づく。
「蛇と蛙と蛞蝓のキメラ」は、あくまで「蛇と蛙と蛞蝓の中で最強」であれば、じゃんけんにおける「グーチョッパー」になるのだ。
「グーチョッパー」はじゃんけんのなかでは無敵だが、もちろんそれで喧嘩の仲裁をできるわけではないし、プロレスに勝てるわけでもない。
昔、スタン・ハンセンというプロレスラーが決めポーズとして「グーチョッパー」風のフィンガーサインをやっていた(※)が、彼が強いのはそのサインのせいではないのである。
だから、虫拳における「グーチョッパー」だって、虫拳の中で最強であればいいのだ。
となると、「蛇と蛙と蛞蝓のキメラ」。
蛇にも蛙にも蛞蝓にも勝てるかというと、ちょっとね。
※どちらかというと「きつね」のサインっぽい。