断列夜景

特に怒る事柄があったわけではないが、何となくこんなことを言いたくなってきた。
お前は夜景のジグソーパズルでも作ってろ。
世の中には多くの「夜景のジグソーパズル」があり、その点申し訳ないのだが、やはりこう言われたらすごくショックな気がする。
要は「おまえは役に立たない」と言っている様子であるため、いかに「夜景のジグソーパズル」がなんだかなあというものか。
ひどいものである。
しかしジグソーパズルの存在意義は完成物を飾ることだけではない。
いや、むしろこちらだろう。
それは作製作業だ。
ジグソーパズルは完成へ向けた意識というか、作業を楽しむものなのである。
そうなれば冒頭の発言は思いのほか効力を失う。
少なくとも、そう思っている人に対してパズル作ってろと怒っても、え、いいんですかという感じになる。
そんな人に対して類似のもので怒りたいときはどうすればよいか。
ラッセンのジグソーパズルでも作ってろ。
ラッセンの、光るジグソーパズルでも作ってろ。
これで「えーラッセンの??」となってくれればいいのだが。

立ち止まりアカデミー

人が行き交い混雑する駅構内で、ふと立ち止まったらちょっと迷惑だと思う。
端に寄るなど止まるなりの礼儀はありそうだが、どうもそれに気づかないくらい、唐突に何かに気づいたのである。
しかしその気づき。
向かうホームを間違えたくらいの気づきだったりもする。
間違いは仕方ないのだが、どうせならこのくらいの驚きをもって、立ち止まってもらいたい。
「今日休みだ!!」
「俺パジャマだ!!」
「なんかわからないけど、俺血まみれだ!!」
「朝俺の家にいた人、全然知らない人だ!!」
「すっげー帯踏まれてる!!」
「首脳会談出るの忘れた!!」
一方、立ち止まりたくなるようなことが起きても、平然と方向を変えない、もちろん立ち止まりもしない人もいる。
それは先ほどの「立ち止まる人」より迷惑じゃない感じもするが、本人はどきどきしている。
そして本来の目的じゃないことが達成された頃「あそこで方向転換していれば!」と歎くのである。
基本的に、この手の人は気にしいで、誰かに「あの人道間違えたわ」と思われるのがいやなのである。
でもまずおまえは注目されていないからそんなことはいい、というものだ。
もう、全然注目されていない。
むしろ見えてない。
米軍がその技術を採用したがるくらい見えてない。
この場合で、注目されないこととは「どこかに向かって歩いている」だけで必要十分である。
となると、注目されるというのは「立ち止まる」ということであって、それなら帯くらいはだれておかないと、礼儀に反するよね。
朝の特快にて。

鳥丼

先日、お昼ご飯に鳥丼というものを注文した。
旨味がありとてもおいしかったのだが、とにかくすごいのが歯ごたえだった。
ごりごりごり。
ゴムなのである。
あごが疲れるのである。
もちろん本当にゴムなのだったら、無味もしくは不味であるため、歯ごたえを感じる前に心ごたえを感じるはずだ。
結果、吐き出してしまえばよい。
しかしそのゴムは、やたらといい味を出力してくる。
困ったものである。
いよいよ口を開けるのも辛くなってきた頃、ようやく食べ終えた。
地鶏というものがどういったものかは知らないが、なんかとにかく元気だったんだなと感じる。
それをこう、おいしくいただき、しあわせだなあ、と。
あれ、さらにデザートが出てくるんですかそうですか。
それにしても食事というのは、噛むことだということをあらためて認識させられた気がするな。
・・・
お昼休みが超オーバーである。

にじ

死骸とはいえ、たまむしを見つけた。
森が多い場所とはいえ、都内にもいるらしいのである。
こいつはたしか幼虫時代を木の中で過ごす。
その期間は結構長かったはずだ。
そして成虫になっても高いところばかりにいるらしい。
なかなか出会わないものだから、まじまじとながめてしまった。
しかしぼくは出かける途中だったのだ。
その殻を持っておく場所がない。
通り道の塀に置いておくことにした。
帰り、どうやら雨が降ったのか、路面は湿っていた。
たまむしの死骸はどこかに行ってしまったのか、塀の上にはなにもない。
持って行けばよかったか。
しかし、かばんの中でこなごなになったりでもしたら、その昆虫性ふしぶしパーツのせいで二度とそのかばんを使うことはなかっただろう。
それに、雨の日に虹を捕まえておくというのも、あじけないわけで。

水面を見上げる。

スキューバダイビングができるとしたら、「海底から空を見上げる」ことをしてみたい。
地上から空を見上げることに比べて、海底からだとひとつ余分なもの(海水)が間にある分、何かおもしろいのではないかと考えている。
ディズニーランドに行けるとしたら、「ミッキーと握手する」ことをしてみたい。
中の人と握手することに比べて、ミッキーごしだとひとつ余分なもの(ミッキー)が間にある分、何かおもしろいのではないかと考えている。
スカイダイビングができるとしても、「海底を着陸地点とする」ことはしてみたくない。
地上を着陸地点にすることに比べて、海底だとひとつ余分なもの(海水)が間にある分、何か危険なのではないかと考えている。
また、妙なルール(着水後にパラシュートを開く等)ができたりしている可能性もある分、何か危険なのではないかと考えている。
人は、上に行くか下に行くかで、結構対処法が違う。

模倣犯

「ごみ拾い模倣犯」という言葉があるとするならば、まず気になるのが「ごみ拾いって悪い事だっけ?」という点だ。
悪いのなら模倣することもいけないわけで、そこはパイオニアと模倣、あわせて検挙していかなくてはならない。
しかし一般的には、ごみ拾いは悪い事ではなく、むしろいい。
度が過ぎると探偵か変質者か偽善者になってしまうだろうが、ほどほどならいい。
だからそれを模倣するらしい「ごみ拾い模倣犯」もいいのである。
となると冒頭の違和感は「犯人」という言葉に起因すると考えて差し支えない。
犯人。
悪いやつのことを指している事が多いから。
だから「ごみ拾い模倣さん」とかが本当なのだろう。
僕が考えてみたところ、おそらく「ごみ拾い模倣さん」は「あいさつ模倣さん」でもあり、「道ゆずり模倣さん」でもある。
「えがお模倣さん」でもあるだろうし、「さわやか模倣さん」でもあって、とにかくいい人という印象だ。
しかしすぐに気づいた。
模倣の由来元がいることを考えると、とたんに彼は気味悪い存在になるのである。
「ごみ拾いさん」に対して「ごみ拾い模倣さん」。
もっと自発的にいこうよ、という感じがする。
他のもそうだ。
「さわやか模倣さん」よりは「さわやかさん」のほうがNHKっぽい。
模倣さんは、そのパイオニアよりは劣る。
それを模倣しようと懸命なのだから、気味悪いのだろう。
「ごみ拾いさん」
「さわやかさん」
由来がパーフェクトだと、なおさら。

図鑑

あるエッセイストがこんなことを書いていた。
「昔、お気に入りの魚の図鑑があった。それには魚の体長や性質とともに「おいしさ」「まずさ」が書かれていて、想像をかき立てられるのだった」
先日apple storeで購入した魚の図鑑に「かわいい」という文言を見つけ、なんとなくそれを思い出した。
かわいいかどうかは、おれがきめるから。
僕もどちらかというと、よく図鑑を見る子供だったと思う。
昆虫の図鑑はらくがきでいっぱいだし、魚の図鑑はぼろぼろだ。
海に住む無脊椎動物の図鑑は、魚のそれよりもさらにぼろぼろで、鉱物のはらくがきでいっぱいだ。
図鑑、よく見てなかった。
らくがきばっかりしていた。
動物の図鑑を見てみると、とにかく「マヌルネコ」に幼少の頃の僕はくぎづけになっていたようだ。
その図鑑の「マヌルネコ」の写真は、どうしたことか切り貼り面がよく目立ち、しかも小さい。
かなり悲惨な待遇だった。
しかし、色鉛筆で書かれた多くの丸がそれを囲んでいる。
気に入ってるのだった。
それは「マヌルネコ」という、なんとも愛らしいまるっこい名前もさることながら、写真からかろうじてわかる「すごくもこもこしている」こと、これが気に入った原因らしかった。
子供ながらに、もこもこしているものはかわいいものであることを認識していたようで、その点偉いと思う。
先日、鮮明な「マヌルネコ」の写真を見た。
もこもこしていたが、眼光鋭く「お前ちょっとよそ見たら、殺しにいくから」みたいな顔つきだった。
僕は鮮明な「マヌルネコ」が見られて満足だった。

かかっ

サザエさんだって「おさかなくわえて町まで 出かけたら」とやれば、それは陽気などらねこ目線での日曜劇であり、現代版我輩は猫であるのようになりかねない。
いや、現代版ならば「わたし、猫だから」くらいにしなくてはならないかも知れず、聞いてもいないのにそう垂れる90年代の香りのするレデーのようだ。
我々にとって90年代とは何か。
それはノストラダムスに怯えた日々である。
どんな人でも、その片すみには崩壊への戦慄と、最後に食べるものという決意を持っていたはずだ。
しかしながらノストラダムスも、今では一発変換されないまでに、市民権を剥奪されている。
実は、彼は一部の人々にとっては救世主であったにもかかわらず。
それは破壊衝動に駆られたような特異な人ではなく、もっぱら普通目な人。
だが、散漫で惰性のひどい生活に対し、蒙昧だが「なにか、こうさあ」と感じていた人々であった。
残念ながら、それをノストラダムスはなんら解決しなかった。
解決するような問題の形も体していなかった訳だが、とにかく人々はその分、惰性が余計に感じられただろう。
(重要なおしらせ)
どうにか「はだしでかける」というオチを目指して書いてきましたが、全然まとまりません。
ケータイの電池もきれかかっ

風に飛んだよ

こないだ折り紙について書いたとき。
ベルヌーイの何かを利用して、紙飛行機を遠くに飛ばせるかを試したことを思い出した。
成功したかはさておき、僕らはいったいどれだけ紙飛行機というものを作り飛ばしてきたのだろうか。
書き損ね
ちらし
レシート
こう見ると、たいがいの紙は一度くらい紙飛行機になったことがあると言え、その点再生紙は経験者だ。
一方、折る側としては紙の経験どうこうはあまり気にならない。
それどころか、飛行機として重要な「よく飛ぶか」ということすら度外視する。
ある種の人々は、作った紙飛行機をおもいくそ投げ、目の前で一回転して足下に突き刺さることを美しいとする。
確かに、ゆったりと長く飛行する紙飛行機は情緒深く、望郷の念を抱かせる。
何かの広告を考える際、普通はないだろうが、そのイメージ画像に困ったとしたら、まず青空に紙飛行機で問題ない。
表紙は青空に紙飛行機で問題ない。
本人が出ていないカラオケの画面も、青空に紙飛行機で問題なく、極端に長い曲だと数100メートル飛んでくれて、やはり問題ない。
代々伝わる掛け軸に、放射状の折り目がついていてくれて問題ない。
話がずれたが、まあそのくらい「ゆっくり飛ぶ紙飛行機」はよい、ということだ。
しかし、「紙飛行機を長く飛ばすための努力」に何かしらの疑問を抱いた者は、その情緒を感じる事にちょい嫌悪を抱く。
何を、先っちょにひとくふう加えることがあるのか。
そう思った瞬間、むしろ紙飛行機の瞬間的な躍動に感動を覚える身になってしまうのである。
書き損ね
ちらし
レシート
そうした紙飛行機が幾つも突き刺さる光景は、なにげに本当に見た目いいかもという気がしてきた。

仮小屋

「やっぱり、アフターが更地だって選択肢もあると思うよ」
「いや、確かにぼろぼろの家だったけど、それはどうなんだろう。もっとちゃんと考えるべきだったよ」
「そんなことはない」
「そう強がっても、頭のなかじゃどこで泊めてもらうかばかり考えているんだろ」