力と変換

たいがいのドラマでは、愛や友情が何らかの「ちから」に変換され、うまいこといく。
この、現代版錬金術とも言うべき構図は、もっと他のところでも起きているのではないだろうか。
例えば、もうすぐ見たいドラマがやるのに買い物が終わらないことは、どんくさいおばちゃんが並んでいるレジには並ぶまいという洞察力に変換される。
釣れないと夕食がないことは、魚を盗んでも捕まらない瞬発力を、あるいはいつ釣ったのかわからないような腐りかけの魚を食べても腹を壊さない消化力に変換される。
一人の青少年が病気をなおすための手術を怖がることは、野球のホームラン一本を打つための力に変換される。
これらは一見、当たり前のような変換である。
しかし実際の錬金術が失敗ばかりであったことを考えると、気づかないだけで実は誤った変換が起きていることもあるやもしれない。
一人の青少年が病気をなおすための手術を怖がることが、知らない人の、女装癖があることを公言する勇気に変換。
本のページをめくることが、あるボクサーの腕のリーチを伸ばす力に変換。
泣きじゃくる赤ん坊をあやすことが、核使用の抑止力に変換。
そう。
誤った変換であったとしても、それはそれで必要。
それはCOP10の意義のひとつみたいなものであり、誤っているかどうかもわからないところが、みそであるが。

三羽がらす

三羽がらすの意味がわからないから、褒めてるのかどうかがわからない。
それは芸能界など、ある分野で有望視されている上位3人を示す言葉だったか。
しかし現在、その言い回し自体が聞かれず、しかもからすがそれほど良い印象を持っているわけではないことも手伝ってか。
たとえ「彼らが歌謡曲界での三羽がらすです」と聞いたとしても、電線にからすが3羽とまっている感じくらいしかとらえられないのだ。
確か、じゃんけん娘というのがあった。
これは三羽がらすと同じ意味で、当時ぐいぐい言っていた娘3人をまとめてそう呼んだのだろう。
本人たちはいやだったのではないだろうか。
愛称とはいえ、あまりにぞんざいだからだ。
三羽がらすだってそうだ。
何かわからないが、からす3羽でまとめられてしまったと思うだろう。
考えてみると、3でどうこうというのは昔からある。
三銃士。
北欧の神話には運命を司る3姉妹がいる。
妖怪としてのかまいたちは、突撃するやつと傷をつけるやつ、そして薬を塗るやつと、3人が一組だ。
どうも3というのはひとまとまりの最小単位のようなイメージが、昔のヒトにはあったようだ。
考えようによっては、三銃士は別に八銃士であってもよくて、策士や八兵衛枠も取り入れるとなかなか頼もしい連中になったはずだが、三銃士たる役割を果たせる最小単位は3人だったのだ。
かまいたちだって、他に「かまを研ぐやつ」「女形」「ムードメーカー」「トリックスター」などがいてもよさそうだが、かまいたちの機能を最小人数でやりくりすると3匹になるわけだ。
そして最小単位であるが故、そのひとつひとつの密度は濃い。
そんななかでの三羽がらす。
濃いからすって何だ。
せめてからす、わし、すずめとかなら一長一短があってドラマチックだったのかもしれないが、とにかく1?3までからすである。
有望視される3人がからす×3で表現できてしまうのは、ずいぶん寂しい感じのするわけで。

適切説明

「あれは、どんな調理法ですか?」
いいえ。あれは調理ではなく、サウナです。
「あれは、鬼太郎の指鉄砲の痕跡ですか?」
いいえ。あれは指鉄砲の痕跡ではなく、指サックです。
「あれは、キッチンドランカーですか?」
いいえ。あれはキッチンドランカーではなく、味見です。
「あれは、忍者ですか?」
いいえ。あれは忍者ではなく、催し物です。
「あれは、侍ですか?」
いいえ。あれは侍ではなく、長七郎江戸日記です。
「あれは、以心伝心ですか?」
いいえ。あれは以心伝心ではなく、様子見です。
「あれは、択捉島ですか?」
いいえ。あれは択捉島ではなく、水戸泉です。
「あれは、サボタージュですか?」
いいえ。あれはサボタージュではなく、療養です。
「あれは、つなみですか?」
いいえ。あれもつなみではなく、水戸泉です。

手動

手動車というものはあるのだろうか。
もちろんこれは「自動車」がわざわざ「自動ですよ」を主張しているからである。
少し考えるだけでも、手動車はたくさん思い浮かぶ。
リヤカーや手押し車はもちろん、チョロQもそう。
「普通手動車」だ。
「車」を広義的な視野でとらえれば、滑車が含まれた理科の実験のほとんども手動車となるだろう。
自転車も、その「自」が「自動車」と通ずるのなら、「自転車って、俺らが回転させてんだろ!」と怒っていいかもしれない。
正直、自動車に対しての「手動車」なんてものには全く興味がない。
「今日は寒いから、すいとんにしましょう」
「やったー、かぼちゃ入れようよ」
「手動車、手動車、手動車!!」
「豚肉は細切れがいいな」
この会話だけで、ちゃんとすいとんができる。
間に挿入された手動車は、聞こえていたとしても自動的に雑音として消されている。
このくらい興味ない。
ただ少しだけ気になったのが「電気手動車」の存在だ。
「何かしらの作用で電気は帯びるが、車の運用には特に使用しない」
なかなか美しいじゃないですか。

何かの漫画だかエッセイだかで読んだ「具が入ってない」というセンテンスが、思いのほか面白いことがわかってきたところだ。
コーヒーを一口飲んでから「具が入ってない」と言えば、喫茶店のマスターは生きたここちがしないのではないだろうか。
あるいはキスのあと、少し納得いかないような表情をしての「具が入ってない」。
目の前には、心変わりがばれたのかと驚く相手がいるかもしれない。
けっこうスリリングなのは、マラカスを手にしたとき。
具が入ってないと聞いた周りの人は、いろいろと夢広がる事だろう。
・・・あれ、今回の内容、具は?。

自由性

昨日「拘束衣」なんて言葉を使っていたら、思いついた。
音楽は拘束具。
意味ありげなコピーができました。
無難なところだとワイヤレスイヤホンや外耳装着型のプレイヤーの売り文句としていいかもしれない。
まあ、今日は特に何もないってことっすよ。

タブレット

なぜかは分からないが、この日と11月の29日。
何も書いてなかった。
今が2011年の9月だから、一見この日へさかのぼって何か書くというのは意味をなさない。
その一見、正解。
うちにはタブレットがあるのだが、これほど置き場所に困るものはあまりないのではないだろうか。
薄いが広々としている。
結構重い。
そして上に物を置いてはいけなそうだから、仕方なく机の横に立てかけているのだが、これも正解かは不明。
いつか、タッチペンも当ててないのに「たすけて」というイメージを、レイヤー2あたりに出力されやしまいかと戦々恐々である。
紙は、ものを末永く伝えるために開発された。
ほぼ同じ機能を持つだろうタブレットとそれが決定的に違うのは、ソフトとハードということだけではない。
同じものをどのくらい繰り返し使えるか。
これもだいぶ違う。
例えば紙は、消しゴムなどを用いて繰り返し使うことができる。
だが、その耐久性から考えると、限界というものがある。
それに繰り返しとは言っても、伝えられる情報の上限もある。
一方タブレットは、だいぶ繰り返せる。
紙をたくさん使わなくていいし、パソコンなどをよく使う人にとっては紙より都合もいい。
ただ、手軽さについては紙にも分がある。
ぱっと手渡しできたりするから。
タブレットでそれを実現しようとすると、ちょっとコストパフォーマンスがたいへん。
そしてもはや、それはタブレットではない。
人は、それを彫刻と呼ぶだろう。

レメゲトン・サレオス

古の悪魔達は、今はまた別の力を獲得した、かも。
その、別の力とは!!。
※「レメゲトン」カテゴリのスタンスについて
【サレオスさんのソロモン時代】
猛々しく武装した兵士の格好をして、ワニに乗って召還者の前に現れる。
男女の間に愛情を芽生えさせる能力を持つとされ、その能力を目的に召還される。
【現在のサレオスさん(予想)】
バンジージャンプをやるとき、命綱となる金具を装着してくれる人がすべてサレオスである。
様々な場所で、様々な人として出現しているが、実際はサレオスが悪魔的な力を駆使して、ひとりでやりくりし、バンジージャンプをする人々に金具をつけるのである。
一見、なんとも悪魔的ではないと思われる行動。
仕事もまじめにこなすし、何よりもお客さんとのスキンシップがずば抜けている。
雇い主の共通した意見だ。
しかし実は、サレオスはソロモン時代での自分の悪魔的役割を今でも全うしようとしているため、この行動を行っている。
すなわち、生理的な認知要因を利用して男女間に恋愛感情を持たせようとしているのである。
バンジージャンプするときの人はどきどきしている。
そのどきどきを、魅力的な異性にであったときのどきどきと勘違いさせようと考えているわけだ。
このとき、バンジージャンプの金具をつける仕事についていないと、せっかくどきどきしている者のそばにいることはできない。
だから金具をつける人に、サレオスはなったのである。
既に経験のある人もいるかと思うが、バンジージャンプの金具をつける人すなわちサレオスだが、装着準備中にたいがい同じ台詞を言うのである。
「これが外れることなんてありませんから。ほらあそこにいる人もこれやったんですよ」
このとき指さすのが体験者にとって異性となる存在だ。
このとき愛が生み出されるのを期待している訳だ。
言い換えると、サレオス自身は既に悪魔的な能力を持っていない。
自分を瞬間移動させることしかできない。
よって、サレオスを召還する意味は薄い。
そもそも彼自身が出てしまっているため、彼を求める魔術師はきわめて少ない。
しかし現代、はからずもサレオスを目的に行動する人々が増えている。
例のどきどきを、バンジージャンプ自体が好きなのだということで勘違いした人である。
それをサレオス自身は、体験者とバンジージャンプ間の愛情が男女間の愛情ではないことにひどく悩んでいる。
ソロモン時代では男女間を取り持つ能力でやっていたのに、その拡張でバンジージャンプも守備範囲に入れていいものか。
それとも男女間のやつを貫くのか、を。
バンジージャンプ。
金具をつけてくれる人が思いのほか魅力的に感じたとき、それはサレオスがひとつの結論を出していたときなのである。

未定

どこの国だかでアイドルの低年齢化がどうこうらしい。
確かに、すごく大人びた子供がいますしね。
とはいえ、今のところアイドル自体にあまり興味はないのですが。
「先月デビューしたユミです。スリーサイズは未定です☆」
こうこられたら。
お、うまいなという感じで気になるだろう。
これを言えるのは、整形外科的な何かを考慮しなければ、子供である。
大人アイドルだと「お前はいつまで育つつもりだ」などと言われてしまう。
その点低年齢キャラの特権である。
なんか、新鮮である。
ただ、思いのほかぐいぐい未成熟に食いつく人もいるかもしれない。
それが困るところである。
まあこの流れを続けるとなると、必然的に出てくる「俺タクヤ。血液型は未定です」「さやかです。趣味は未定です」。
おそらく前者は地球外生命体アイドルかもしれないし、骨髄移植の予定があるのかもしれない。
どちらにせよ、早めに決まった方がいい。
後者は自然に決まる物でも、かつ急いで決まる物でもないので、その点未定でもそんなにこちらが不安になる事はない。
あせらず自分なりの趣味を見つけてもらいたい。
「僕、名前未定です」
新加勢大周か何かだろうか。
「私ミカ。命日未定」
いやあ奇遇ですな。実は僕も。

とてもシーケンシャルな星空をみはじめ

?、?だと、やっぱり次は皿ですね。
ね。
?、?、皿。
ポップなお菊ですね。
まあこれはいいとして、この法則があったとき、?が田中だったら、どうなるでしょう。
田中、高橋、皿。
いいですね。
不条理な方向で投げ放っている感じが、いいですね。
放った割には「わかるやつにはわかる」みたいな風で、いやらしいですね。
僕はぜんぜんわかんないんですけどね。
僕には田中が3人、高橋が2人いて、合わせると6人でした。
そのうちの高橋の2人は川へダッシュ、1人の田中は山にスナーク狩りに行きました。
僕と田中2人、あわせて皿人は田中僕田中になりました。
僕はぜんぜんわかんないんですけどね。
ただ、僕はどんなにか田中が女の子だったらいいのにと思ったでしょう。
宮沢賢治が何かを思ったくらい、思ったよ。
全然関係ないけど、ワードとかのオートコンプリートっぽく、何か商品名を入れようとするとそれに紐づいたURLが出てくる機能、めんどくさそうよね。
もりな
ここまで入力すると、ふきだしにずらっとお菓子サイトへのユーガットメール、いやURLが出てくるんだ。
いいですね。
疲れにまかせて堂々とした感じが、いいですね。
ちなみに「ユーガットメール」のところは「ボーイミーツガール」とどちらにしようか迷ったよ。
僕はぜんぜんわかんないんですけどね。
田中ミーツ田中になるには、田中のミーツを僕が引き受けて、質を落とす事なくしかも田中のミーツであることを相手に理解してもらえるように、田中にミーツしなくちゃいけないんだ。
僕がミーツになれれば、問題なく田中ミーツ田中になるんだけど、ちょっとミーツは。
ミーツは年中、ふくらはぎの穴から樹液が出ている人しかなれないらしくて。
「樹液って、蜜のことじゃあないですよ」
ミーツは、こう言われるのが一番嫌いなんだって。
そんなことはわかってる、わかってるよって。
別にかけたわけじゃないんだよって。
ミーツになるには蜜が出てるとかって、しかもそれを樹液と取り間違えたって。
そんなことないんだって、怒るんだ。
むしろ順番が逆らしいんだ。
ミーツと蜜と樹液の順が。
今まではミーツ、蜜、樹液というのが定説だったんだけど、実はそうでなくて、ミーツ、蜜、樹液なんだって。
一見ぜんぜん変わってないんだけど、量がすごく変わるんだって。
量で順番が変わるくらいなら、この世の中いろいろ変えられる事があるのにね。
僕はぜんぜんわかんないんですけどね。