ちょっと大きめの小豆かな?。
もう完全に人と小豆を馬鹿にしている、ごきぶりの卵である。
クロレッツのハードミント的な味のやつかな?。
そんなものが家にあったら、それは確実にごきぶりの卵である。
何をそんなに、クロレッツに似せる必要があるのかと問いただしたくなる。
それにして、どれもこれも食べられちゃうものに似せている。
どうしろというんだ。
今日のそばがらの枕、粒子粗くない?。
これなら悪夢を見ろ!!で分かるのだが。
投稿者: nimbus7942
準備中その2
昨日から。
【あらすじ】
ある駅で「準備中」のシールだけが貼られた無地の看板を見つけた。
たぶん準備してないと思うが、どんな感じなら「準備中」っぽくなるのだろうか。
=====
例えば、下書きっぽい絵の上に準備中の貼り紙をしていたらどうだろうか。
下書きの存在によって、今後必ず新しい看板ができあがるのだ。
その準備をしているのだから、準備中なのだ、と。
しかしこれは難しいところだ。
下書きがあるということは、これは準備中というよりはもはや絶賛進行中である。
そもそも、準備というものは水面下あるいはそれに準ずる感じで行われるものである。
表立って進行が進んでは、準備中ではない。
これは、例えば準備中の看板にはしごをかけていたとか、看板近くにハロゲンヒーターがついていたとか、生活のあとがあったとか、お弁当がまだあたたかかったとか、交通整理の警備員さんがいたとか、頑丈な柵で囲まれていたとか。
先日の「お店における準備中」では何となく準備中だったんだ、という感じの物でも、看板の話になると、どうも全てが、進行中の範疇に入ってしまう気がする。
これは、お店の準備中が、準備中という静的な状態のままでも問題ない事もある点と、看板ではかならず動的(描かなくてはならない事)な状態になるという点の違いだろう。
なに書いてんのか分からなくなってきた。
では、これはどうだろう。
「両側の看板の更新度が非常に高いなかの、真ん中の準備中」
これは結構いいと思う。
両側の更新の頻繁さを考えると、この一帯の広告パワーは優れているようだ。
そのなかでひとつ、準備中となった看板。
これとて人気のはず。
準備中となっているからには、そりゃ準備してるんでしょうよという感じである。
最後。
昨日まで貼られていた「準備中」の貼り紙がはがされている。
一番「準備中」な気がする。
となると「準備中」の貼り紙ははがされる瞬間から「準備中」になりえるのであって、その貼り紙はなかなか美しい事になっているみたいだ。
知らなかった。
準備中その1
ある駅で「準備中」のシールだけが貼られた無地の看板を見つけた。
僕が合っていると思うのだが、おそらく何も準備していないだろう。
無地の状態が何となくしのびないから、とりあえず準備中ステータスにしたのだ。
飲食店でもよく見られる、この「準備中」。
どうも我々は「特に何もしていません」ということに罪悪感を持つらしく、たとえ何もしていなかったとしても「準備中」としたがる傾向にあるようだ。
「準備中」の札がかけられたドアの向こうで、人気が全くないというそば屋は、まさにそれにあたる。
このことは、タイミングによっては利用客の怒りをかうことにすらなる。
そばが食べたかった人が、札の前で憎らしげに言うのだ。
「準備なんかしてねえじゃんか」
例えばこれが、「準備中の札出し + 店内の椅子が全て店外に出されている」だったとしたら、ああ準備中なんだねと納得もできる。
「準備中の札出し + 店内で店員が整列して立っている」。
これも納得だ。
「準備中の札出し + 段ボールいっぱい」。
「準備中の札出し + 調理道具がぶつかり合う金属音」。
「準備中の札出し + クラウチングスタートの構え」。
どれもこれも、納得博覧会だ。
と、このように受け手側としては「準備中」には準備中たるもう一手が必要と考えていることもあるわけだ。
そこで駅の看板の「準備中」。
「準備中ではないのではないか」。
違和感を感じた僕に対して、本来どんな一手が必要なのだろう。
明日。
ありをつぶしたことある指で
先日、知人の買ったスマートフォンを見せてもらった。
なんだかかっこいい。
いろいろな機能があったのだが、そのなかでもGPS機能は便利そうだ。
僕は道によく迷うので、手元に相対的な現在位置の分かる手段があるのは魅力的だ。
GPS機能の詳細は知らず、どのようにして場所を割り出しているのかも分からない。
しかしその精度は高く見え、ロイヤルホストで何シーズン目かのカレーを食べている僕らのことを、ロイヤルホストにいるらしいことまで、現在位置を示すプロットは表していた。
近い将来、食べているカレーの種類も分かってしまうなんてことがあったりして。
「そんな冗談を思ったりもしてたんですよ」
まあ、そこまで行かなくてもこう、左手で持っていたケータイを右手に持ち替えただけで、プロットもちゃんと移動する。
そのくらい精度が上がるかもしれない。
さらに精度が上がると、ほら、こうするだけで。
「そう言いながら、ケータイを少し振っただけなんです」
「ケータイを振ると、現在地点もそれに合わせて微動する」
「そんなことを冗談めかしていただけなんです」
「その行為が、局所的な大地震を起こすきっかけになるなんて・・・」
変化
寒い季節になってきて、朝がつらい。
やっと外気にさらされる事のない建物のなかに入り込めたと思ったら、なんだかそこには落ち葉が。
たくさんではないが点々。
それが階段でも見られ、最終的にある部屋へと続いていた。
風も雨もあったから、誰かの靴にでも付いてきたのだろう。
しかし、これを「完全にたぬきのスパイが侵入している」と考えていくとちょっとおもしろい。
一枚だけ拾った落ち葉を眺めながら考えていた。
人間の建物の奥の部屋まで来られるという事は、確実にそのたぬきは化けている。
でも、その術の何らかの副作用で、歩くたびに落ち葉が落ちてしまうのだ。
そのリスクを考えると、長い間はいられまい。
早足で建物から去る者がたぬきのスパイだ。
たぶん尻にしっぽも残っているだろう。
あるいは、斥候のようなやつが先に侵入。
自分の侵入経路を次の侵入者に伝えるべく、落ち葉を落としていったのだ。
木の葉舞うこの季節を侵入時期に選んだ事を考えると、策士である。
そして入り口でたむろするやつらが本隊か。
恰幅もいい。
いや、もしかしたら術の有効時間が決まっていて、タイムリミットがせまったときにすぐ再術を施すために必要な落ち葉を手に入れるため、前もって要所要所に落ち葉を置いたのだとも考えられる。
おそらく額に落ち葉をあてると、再術が可能になるのだろう。
それなら、ずっと落ち葉を見ていようか。
なにげなくそれに近づいたり、手に持ったりするやつが、タイムリミット間近のやつだ。
俺だ。
録画機能
ドアホンのカメラ機能について、「録画機能もついて、さらにお得!!」みたいな感じのCMがやっていた。
この録画機能でお得な事と言ったら、なんか犯罪的なことしか思いつかない。
強盗に入ってきた犯人や悪質な業者などの映像は、時として裁判沙汰なところでは決定的な証拠になりそうで、その点お得と言えなくもないが、その前にかなり嫌な事象を経験しているわけで、なんともお得かどうかは難しい。
ということで、防犯を目的としての「ドアホンのカメラに録画機能があります」はその機能よりも、CMを流していること自体が重要なのだろう。
ドアホン間で話した内容が町内放送に流れます
ドアホンは取り外し可能となっていますが、取り外した物を自宅から数メートル離すと爆発します
ドアホンの向こうから猛犬が吠えます
ドアホンのボタンがそのまま110番にもつながります
まずドアホンの下に設置されている手錠をはめないと、ドアホンが使えません
女性でも、ドアホン越しの声が男性みたくなります
これはCMのいらない例。
最後のはアリかも知れないけど。
死神
ひとりでに開いた(ように見えた)自動ドアの近くでうどんを食べていた僕は、同じくうどんをすすっている先輩に「死神が来ましたよ。このうどん屋の誰かが、死ぬ」と告げた。
彼は、またこいつおかしなことを、という感じで聞き流し、いったんしまった自動ドアがまた開き、子供を先頭にした親子が入ってきた。
死神どうこうなんて、一見なんだそりゃという感じをもたれるかもしれないが、僕としては「自動ドアだけを開けるいたずらのようなもの」のほうがよっぽどだ。
「もっとやりようが、あるでしょう」
ともなると死神云々でも持ち出さない限り、僕がやられてしまうのである。
もちろん自動ドアが勝手に開いたからといって、そんなものが入ってきたとは信じていない。
自動ドアが開いたのでそちらを見ると、何もいない。
しかし傘立てに、さっきまでなかった鎌が立てかけられていた。
これくらいなら信じてもいいが、単にうどんを食いに来たともとれるため、うどん屋は難しい。
自動ドアが開いたときから、ドアに近い人順に死んでいく。
これくらいなら信じてもいいが、その存在、ありようを誰かに伝える事ができなさそうで、生きることは難しい。
そもそも、条件付けにも左右されるが、まず「自動ドアが開いたので死んだ人」というのは考えにくい。
もしいたとしても、それは「自動ドアは開いたが、特に何もなかった人」の数にかき消されてしまうだろう。
それに、例えば「自動ドアは開いたが、特に何もなかった人」の調査しているなかで、実は「自動ドアが開き、尿意をもよおした人」の数がすごく多いことが判明してしまった場合。
尿意は音も立てずやってくるが、センサーには反応する。
そんなことをうどん屋では考えたくなく、僕が死神とあらわしたのはなおさら賢明と言えるわけだ。
休日
いまのところ、ギャンブルに興味がない。
と言うと、人生は日々ギャンブルだからそんな言い草はないだとか、そういう人に限ってハマるのだとか、とののしられそうだ。
ただ一つはっきりしているのは、興味のないことが、健全性や自己管理どうこうに紐づいているのではない、ということだ。
どうもめんどくさそうに見える。
競馬新聞のデータ量は、手練風の老人とすれ違っただけでも十分にわかる。
恐ろしい量だ。
しかもそれが、意味を持つ。
今後起こりうる結果を表すものとしても、直接的な損得を自分に与える情報としても。
それに比べて理科年表、辞書や格闘ゲームのフレーム表は情報は多いが、そういった職業でもない限り、上記のような息詰まるようなものはない。
気楽だ。
そういう理由で、ちょっとギャンブルは敷居が高い。
とか思っていたら、難しいことは省いて、お手軽に馬券の買えるシステムがあるという。
買ったことはないが、うまくいけば手間をかけずにお金が増えたり、かけひきを楽しめたりする点で、いいかもしれない。
しかし何となくこれには賛成できない。
休日に競馬新聞を持つ老人とすれ違えないのは、休日ではないからだ。
バックアタック
ガラスのコップに、急にお湯を入れると割れることがある。
だから先に水を入れてからお湯を入れる。
すると言われるのだ。
「それは死んだ人だから、だめ」と。
小さい頃にそう言われたため、今でもそうすることに何となく罪悪感を感じる。
それにしても「死んだ人だから」というのは、なんだ。
何か、仏壇まわりでの作法なのだろうか。
それともお葬式での決まりなのだろうか。
「さかさみず」というらしいが。
まあよくわからないが「何らかの形で、死者にぬるま湯は必要」ということは確かなのだろう。
それにしても「それは死んだ人だから」というのは、なかなか武力のある言葉だ。
それは特に子供に対してはてきめんで、相応の悪い環境がないかぎりは、子供は死を恐れるものである。
せっかく生まれたのだから、もうちょい生をエンジョイしたい。
それを終わらす死はかんべんね、そういう本能のようなものがあるのかもしれない。
だから、何か分からないが「それは死んだ人だから」という行為にすら、極力避けたいという気持ちがはたらくのだ。
「こないだ亡くなったお隣のおばあちゃん、こんぺいとうが好物でね」
このことを聞いた子供は、こんぺいとうを口にしなくなるだろう。
「そういえば、くしゃみを我慢すると体に悪いと言っていたわね」
このことを聞いた子供は、すこし考える。
おばあちゃんは「くしゃみを我慢すると体に悪い」と思っていたから、我慢していなかったはずだ。
しかし、我慢していなかったのに、亡くなった・・・?。
「くしゃみを我慢すると体に悪い」というおばあちゃんの知恵を信じるか、おばあちゃんの現在状態を信じるか。
子供には難しい問題だ。
「部屋で片付けをしていたら、昔のなつかしいレコードが出てきたらしくて。それを聴こうとプレーヤーを探していたら発作が起きて・・・」
子供はレコードに触れないだろうし、探し物をすることもしないだろう。
しかし探し物をするなんて、無意識のうちにすらやってしまうものだから、それが困ったところ。
何か別のこと、ちょうど日常生活ではしないような、逆さのことをして、それをごまかそうとするかもしれない。
なにか、「ムーたち」を思い出した。
多面体その2
昨日から。
【あらすじ】
「二兎追うものは一兎をも得ず」に、別の意味が見いだせるか。
=====
無理だ。
「二兎追うものは一兎をも得ず」だったんだもの。
まず、追う物がうさぎだってことが決まってしまっている。
これが「キリン」だったら、「2匹同時に追うからだめなんだよ」と「結局キリンなんて1匹もとれなくてよかったんだ」というように考える事もできる。
しかしうさぎだ。
食べる気まんまんであり、1匹も得られないことだけがクローズアップされてしまうのは仕方のないところだ。
そして詳細な内容。
「うさぎを2匹追って、どちらを追うのかを迷って、結果両方逃がしてしまいました」だ。
他の意味が介入する余地が見いだせない。
ただ、何かを付加する事で意味の転換は可能かもしれない。
「二兎追うものは一兎をも得ず、はつらつ」
これで一気にあきらめムードが一新。
これからだという感じになった。
「二兎追うものは一兎をも得ず」
ステンドグラスの光の下で。
場所を特定した事で、かなり様々な意味も付加できた。
「袖すり合うも他生の縁、かな 月しずく」
ここで僕は、すごいやつの存在を知る事になる。
「、かな」だ。
これを付ければ何でも複数の意味を持つようになる気がする。
今までのものに付けてみよう。
「馬の耳に念仏、かな」
「釈迦に説法、かな」
「鬼に金棒、かな」
「猫に小判、かな」
「たなからぼたもち、かな」
「二兎追うものは一兎をも得ず、かな」
付加(負荷)される意味が、どうも無常観だけっぽいのは、仕方のないところかな。