通り過ぎちゃって。その1

ドアの目張りをはがしたあとは、気をつけるのは床に点在する死骸くらいなのだ。
猫がいるものだから、よくカリカリ(猫えさ)を置きっぱなしにしてしまう。
ゆえにごきぶりが繁殖し、結果的には見かけても「また歩いてるわ」くらいのインパクトしか与えない。
そんな状況になっていたのだ、我が家は。
「バルサン」の効用により、部屋は「密室殺G」の様相。
大きく息を吸い込んで、死骸を踏まないようにしながら窓を開放しに向かう。
「バルサン」の取扱説明書に「使用後は窓を開放し、十分に換気する」とある。
「換気する」を「歓喜する」と考えると、どれほど殺虫できたんだとその撃墜数が気になるが、気になるのはそっちではない「換気」の方だ。
「窓を開放し、十分に換気する」というのは、「無限希釈」の考えが根底にあるから実行できるものだ。
ここで言う「無限希釈」というのは、「世界、すごく広いから。うちでやったバルサンを全て掃き出しても、薄まりまくって。結果、バルサン掃き出してないことと同じなんだなぁ。みつを」ということ。
言い換えれば、例えば我が家の居間が地球の大気の50パーセントくらいを保有するキャパシティーを持つ、掃除が大変な部屋だったとする。
そこで「その空間に有効なバルサン」を炊いたあと、換気のために窓を開放すると、これは「無限希釈」にはなり得ない。
双方の差があまりないため、希釈しまくってほぼなかったことにするのが難しいからだ。
窓を開放するとき、僕は「我が家のバルサンが世界の昆虫に与えるダメージ」を考えないわけではないが、感覚的にも「ダメージゼロ」だとも思う。
ただし、「バルサンの無限希釈」にはグラデーションがあり、例えば我が家で飼っているカブトムシの幼虫ケースは、開け放った窓の目の前に存在する。
もしカブトムシの成虫がそこにいるときにバルサン開放を行うとすると、「バルサンは無限に希釈される前にカブトムシに出会ってしまう」ことになる。
ブラジルにいるカブトムシが我が家のバルサンに出会う確率はゼロであるから「ブラジルのカブトムシ聞こえますか」とアッコにおまかせで通知を試みる必要はない。
しかし、無限希釈の考えを持ってしても、局所に目を向ければ、例えばうちのカブトムシはヤバいのである。
幸いなことに、カブトムシは幼虫である。
念のため少し遠ざけておいたから、もう文句なく窓を開け放つ。
これから拭き掃除、食器を洗ったりしなくてはならない。
人間というのは物を飲み食いするが、そのとき食べたものが様々な形で体に取り込まれる。
これは言い換えれば「それまで使っていたやつと交換になる」ということで、そのくだりは毎日、みんな食卓と便所でその様を経験している。
人間を構成するほとんどの物質は、確か数日で交換されていた気がする。
もちろんほぼ交換しない部分もあるが、例えば一週間前に体を構成していた物質は、その多くは今日、すでに交換されていて、その点、中二っぽく考えると「全然別の人」と言えなくもない。
僕はこの考え方と「無限希釈」というものが絡むと結構面白い話ができるんじゃないかとかねてより考えていたが、もう何か誰かやってる気もするし、やってたらもうやっちゃってやっちゃって、という感じである。
しかし今回はそっちではなく、「無限希釈」と合わせて考えてみたいのは「ホメオパシー」。
「同種療法」とも言う、どちらにしても何それ、というちょっと怪しい医療学についてである。
次回へ。

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