絶えず正解を選択し続けていきたいとは僕の口癖のようなもので、イメージではそれに成功し続けていればもう資産家で7人の妻がいてトイレが黄金でできているはず。
今そうなっていないのは少なからず正解を逃してきたからなのだろうがこの「正解」。
それは周りにとっての、自分にとっての。
常に2つ存在している事に、遅ればせながら気づいてきた。
例えば僕は、周りにあまり話題がなさそうだと判断すると、恐ろしく喋るのだが、これは少なくとも僕としては「周りに対する正解」を目指している。
この喋りで何か話が転がれば、多少の傷はご褒美のようなものである。
しかし一方で、この状態は自分にとっての正解と言えるのか。
そんなことを考え出すと不安になってしまう。
正直、恐ろしく喋りはするが、その内容は充実しているとは言えない。
それは複数人に対する話題であるから、あまり立ち入った話であるとかローカルものは汎用的でないと判断しているからであるが、それにしてもあーた、僕のそういう話は虚空過ぎていて。
多分叩いたら結構いい音する。
もしかしたら、「周りに対する正解」を求める事が多くなりすぎて、自分の正解が分からなくなってしまったのか。
そう思わないでもない。
そこにきてこの「自分に対する正解」というのは恐ろしい事に、羞恥心や鈍感さなど、自分のせいによって邪魔されてしまうことが多い。
それに気づいた時、取り留めのない、取り返しのつかない気持ちを胸に秘めて眠るしかないわけだが、これまた恐ろしい事に、今「僕に対する正解」というのはその「寝る」ということに他ならず、それは最近帰る時間がおそ過ぎで睡眠時間が4時間ほどしかないことと、そんな地獄のミサワのセリフのようなことを吐いてどうするん?というこれまた恐ろしいもうひとつの正解もどうにか回収しようとする欲張りな僕。