昨日からの続き
【あらすじ】
常套句を仕込むのも、「ここがこの文章のおもろいところですよー」というのを仕込むのもハズい。
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例えば昨日の「バケツをひっくり返したような大雨」というのを考えてみる。
これを「大雨」のことだけをとにかく伝えたいというのであれば、このままで問題ない。
ただ、「バケツをひっくり返した」を「すごい」に置き換えても全く遜色ないが、妙に聞き慣れない独特なものに置き換えてしまったら、伝えたいことがうまく伝わらなくなる可能性がある。
一方、この短い文章で何かしらおもろいことを目指すというのなら、仕方がない。
「バケツをひっくり返したような」が置換のターゲットとなる。
もちろんここで「大雨」のことを変えてしまえという方もおられると思うが、そうなるともう冒頭の定義は去り、そこにいるのは自由人だけである。
自由人は「きけ 和田摘みのこえ」「平成仮面ライダーくちべらしの傾向と対策」など、よくわからないがなんかおもろそうなやつを今後考えていって、できれば教えてもらいたい。
さて「バケツをひっくり返したような」の置換だが、これは「意味を鑑みた方法」と「鑑みない方法」。
方法が大きく二つに分けられると思う。
前者は「天使たちがかなしさのあまり、一斉に泣き出したような」という気持ちの悪いものから「街の風景をかき消そうとする意思のような」という気持ちの悪いもの。
「雨粒を避けようとする小虫も落とさんとするような」という気持ちの悪いものがある。
あくまで「バケツをひっくり返した」の、「水たくさん」の部分を失わないような変化である。
それに対して後者。
僕はどちらかというと好きだ。
「コメツキガニが近づく人の気配に気づき一斉に潜りだすような大雨」
「たくさん」の感じを残しつつ、「水」をなくしてみた。
しかしなんか分かるという感じ。
ただしこのコメツキガニのくだりで「鑑みない方法」を表現するのには注意を要する。
「コメツキガニが一斉に潜りだすような大雨」
こうしてしまうと、とらえようによっては「水たくさん」意味となってしまう。
どうかコメツキガニでは「人の気配」ということを忘れないでいただきたい。
ほとんどの人間にとって重要なのは、コメツキガニはその姿や生態ではなく「人の気配でわーっと潜る」なのである。
「ダルガン星で洗濯物を夜に干したような大雨」
そして「水」も「たくさん」もなくしてみた。
これはよく分からない。
「ダルガン星で初めての王位継承が行われていたときも、こんな大雨だった」
多くのものを失いつつ、哀愁を付加してみた。
「あのとき、雨があまりにひどかったから君の顔が見えなかったって言ってたわよね」
多くのものを失いつつ、進展ポイントを付加してみた。
「眼球が溶けたからね」
進展は終結を迎え、ダルガン星の雨がダルガン星人の眼球へ腐食性を示すことが分かった。
そう、もう飽きているのである。
ただ、仕込むのハズいとか考えていたが今はむしろ、けっこうすがすがしい気分だ。