かかっ

サザエさんだって「おさかなくわえて町まで 出かけたら」とやれば、それは陽気などらねこ目線での日曜劇であり、現代版我輩は猫であるのようになりかねない。
いや、現代版ならば「わたし、猫だから」くらいにしなくてはならないかも知れず、聞いてもいないのにそう垂れる90年代の香りのするレデーのようだ。
我々にとって90年代とは何か。
それはノストラダムスに怯えた日々である。
どんな人でも、その片すみには崩壊への戦慄と、最後に食べるものという決意を持っていたはずだ。
しかしながらノストラダムスも、今では一発変換されないまでに、市民権を剥奪されている。
実は、彼は一部の人々にとっては救世主であったにもかかわらず。
それは破壊衝動に駆られたような特異な人ではなく、もっぱら普通目な人。
だが、散漫で惰性のひどい生活に対し、蒙昧だが「なにか、こうさあ」と感じていた人々であった。
残念ながら、それをノストラダムスはなんら解決しなかった。
解決するような問題の形も体していなかった訳だが、とにかく人々はその分、惰性が余計に感じられただろう。
(重要なおしらせ)
どうにか「はだしでかける」というオチを目指して書いてきましたが、全然まとまりません。
ケータイの電池もきれかかっ

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です