確かに「こいつはやられた!!。やられちゃったみょーん!!」と喜びのあまり叫び練り歩きたくなるようないいものもある。
そして「なぜだ!!。なぜなんだ!!」と気を紛らわせるため夜の川原まで走っていきたくなるようなものもある。
特に後者のは本ブログにて思い当たるフシありすぎで、それはもう細工に向かないんでいらないよ、と言われそうな竹くらいある。
ここでは主に作品批評となるのだろうが「批評」というのはなんだかむずかしい。
それは、上記の歩くもしくは走ることに代表されるような「いいわるい」をどう評価するかという点ではない。
体が誤っていない限り、なんであれまっとうな評価はされてなんぼだろうから。
僕が難しいなと感じているのは「批評どうこうって時点で、それ自体がパラドクスになっている」ような気のする点だ。
だからそもそもどう体系づくられているものなのかも、よく分からない。
批評対象と批評者それぞれの批評。
出力したいものがわからない批評。
出口の分からない迷路。
出口のない海。
正直4番目は関係なかったが、1番目はスルー、3番目のはなんとなく思いつくことがあった。
映画の「シャイニング」の後半では、シャイニングな男の子が、ラストでお地蔵さんみたいになるジャックに迷路中を追われるという、ぎりぎりネタバレになっているようななっていないような文で表現してみたが、そんなシーンがある。
ただでさえ迷路なのに、そこで追われるというのは、とてもかわいそうだ。
さらに追っ手が出口から来ていることなんかを考えると、迷路の最大目的である「出ること」もかなわないため、なおさらだ。
そんなものを批評、特に辛辣な批判に偏った批評に感じる。
迷子の批評。
どうしたんだ。
どんな他意が隠されているの。
そんな風に思う。
さらに思うと、仕事生業ならともかく、そうでない批評というものは基本的に超満点以外はありえないのではないだろうか。
悪いと思うのなら、評価の場に出なければいいのだ。
一方で超満点の批評内容は、差はあれど確実にこうでなければならない。
「自分によいと思うものがひとつ増えました。この作品です。いいでしょ?」
これ以上はどうにも「批評 + 仲間探し」になってしまう、気がする。
問題ないことなのだが、なんとなく他意を感じずにはいられない。
ただ僕も、この瞬間にも多分にこのきらいがあるのが、困ったもんである。
しかししかし、今回の話については焦点を絞ったつもりと言えども、考えるべきことはまだいくらでもある。
例えば「迷子の批評」と作品との関係が非常に根強かった場合だ。
「俺は夜の川原まで走っていきたくなる衝動と引き換えとして、この批評をせざるを得なかったのだ」
い、言い返せない・・・。
言い返せない僕。
ショッピングサイトで商品評価に購買意欲をなびかされまくる僕。
個人差というものを完全には許容できていないらしい僕。
困ったもんである。