※当方咽頭炎の為、驚異的な手抜きを観測。
○精彩:生き生きとした感じ。活気ある姿・ようす
精彩という言葉を使う以上、使われたものはそもそも精彩を持っているもしくはウリでないといけない。
「あのママチャリ、精彩を欠いているな」
ここでの「精彩」が、「前輪だけ異様にでかい」「多脚」「サドルとハンドルが直線上に存在」を指摘しているとしたら、ママチャリに精彩は必要ではなく、そもそも精彩という言葉をあてがっていいものでもなくなる。
一方、「精彩」が「かご」「異様にサドルが低く、がにまた走行」「サドルにスーパーの袋がかぶせてある」についてのものであるなら、そのママチャリは確かにママチャリとしての「精彩」を欠いているのではあるが、改善可能でもある。
かごがないのならつければいいし、足が届かないのでガードレールがある地点でしか停車できないのならサドルを下げればいい。袋もかぶせればいい。
ただし、冒頭の精彩ということばの本来の意味を鑑みると、ママチャリ自体が、どうもいけない。
では、しびんではどうだろう。
「あのしびん、精彩を欠いているな」
こう聞いたら、どのように感じるだろう。
多くの人は「もう、しびんとしての機能を果たさないのではないか」と感じるのではないだろうか。
しびんは、その機能がシンプルであるがゆえ、何かが欠損したとなるともう役にたたなくなってしまうのでは、と考えられてしまうのである。
じゃああればいいのかというと。
「あのしびんは精彩に富んでいる」
少なくとも、僕にはぐねっぐねの、「なんとかの森美術館」で野ざらしにされそうなフォルムのものしか思いつかない。
これでは、しびんの「機能美」が失われる。
すなわち、見た目悪いし、使い心地悪い。
どうやらしびんも、精彩をどうこう言ってはいけなさそうなものなのである。