思い起こしてみると、最近「焼き鳥を串のままで食べていない」ことに気づいた。
それはつまるところ「居酒屋で焼き鳥を注文すると、誰か、あるいは自分がばらしてしまう」ということだ。
まず一人では酒を飲まないので、例えば飲み屋で焼き鳥を一人食べながら飲む、というシチュエーションも経験がない。
ばらす行為自体に是非の議論がよくなされるが、僕としてはどちらでもよく、どちらも悪意はなく、ただ結果的にばらすばらされることが多い。
こないだ、「そんなに人いないのだから、別にばらさずに人数分頼めばいいじゃない」
そんなシーンがあった。
確かに4人で、例えば「二次会行くひとー」で15人くらいが手を挙げた時の絶望感を考えれば、4人というその人数は天使。
天使が串をばらさず食べて悪いことはない。
しかし、「いろんな種類をちょっとずつ食べたい」という乙女の小鉢理論が、ないわけでもない。
結局、ばらした。
僕が「最近串のままで焼き鳥を食べてないな」と思ったのは、先日まさに焼き鳥が人数分、横長皿に盛られてきたからだった。
ちょうどな人数だったので、ばらされることはなさそう。
「串のまま食べてない」旨を話しながら、僕はこれを串のまま食うイメージトレーニングを開始してみる。
すると、すぐにそこには「串を顔に対して串を横、水平に。あるいは縦、垂直に食べる」。
大きく分けて二通りの食い方があることに気づいた。
僕は水平のそれを「フルート食い」と言い、ただすぐに何かぎゅーんと考え、「ピッコロ食い」と言いあらためた。
フルートとピッコロの違いはよく知らないが、こういうときは「半濁音はちょっと面白い感じがする」という自己的ルールにのっとり、言いあらためたのである。
一方、垂直のほうはもちろん「リコーダー食い」で、まあお察し。
久しぶりに串状態の焼き鳥を食べるとき、その食い方もいろいろあるのだなと感慨深くなったのだが、この時の僕はもう違うことを考えていた。
「焼き鳥を笛に見立てた、見立ててしまったのならば、例えばドレミはモモ、皮、レバーなのか、あるいは違うのか」
こいつは汎用性が低いと思ったので、黙っといた。
しかし気になってしまう。
例に挙げたように、恐ろしいことに、焼き鳥は具を1つずつ串にぶっさす形状で、音階に見立てることが可能なのである。
やるとしたらどうなるんだ。
過去の推理ドラマなどで、焼き鳥の具を音階に見立てたトリックがあったのなら、ぜひ知りたい。
しかし、調べてもいないがちょっと存じ上げていないため、次回考える。
焼き鳥の音階について。