「中学1年生は、ほぼ小学7年生である」
小中一貫のところであってもそうは言わないかもしれないが、一方で「小学7年生」というニュアンスのものは例外的なものからちゃんとした理由のものなど、けっこうあるようす。
しかしここでは、もう単純に「少々落ち着きのない中学新入生を揶揄した」ものと考えよう。
「中二病」や「もう中学生」という言葉があるように、「中学生」というものは他のフェーズから見ても特異性を孕んでいると思われがちである。
「一人前としての認識」「妄想的な考え」「肉体的、精神的な発達、あるいは発達途上」。
もちろん、それが中学生という数値的な範囲に限ったことではないことは明白である。
しかし、一方で「人間関係の拡大」「成績」など、初めて意識することもすこぶる多く、そりゃあ大変。
これも経験則として明白だろう。
おそらく「子供から大人への過渡期にあたる時期っぽい」ということが特異性を生む、もしくは生んでそうと思われる原因にちがいない。
そう考えると、冒頭の「小学7年生」というのが、ややばかにした感じであることは認識しやすい。
ただ、一方で「いろいろ物事を考える、あるいは影響を受けやすい中でも、子供のような自由な発想、行動を行う」という点で鑑みると、そんな悪い気はしないのも事実で、年食うとなおさら。
しかしこれはどうだろう。
「大学1年生は、ほぼ小学13年生である」
別に昨今の風刺を混じえようとしているわけではないが、とりあえず過渡期とか何かとかは抜きにして、「おい大丈夫か」という気になる13年生である。
もちろん、生理的に「13」が気に食わないという向きもあるだろうが、それどころじゃない。
ばかにされている。
「今年でうちの息子、大学生になったのよ」
「あら、たかしくんもう小学13年生なのね」
大学生の息子を持つ年齢にして、ママ間プライド戦争勃発である。
これは、敵意が恐ろしい。
確かに、たかしくんは小学生の称号に「ふさわしい」大学生、なのかもしれない。
それにしてもこれは、復旧不可能なレベルである。
皆さんも人間関係や善行を心がけ、とにかく「小学XX年生」と後ろ指指されないように生きていかねばならないだろう。
ところで、今回の方向性は、小学生の方にとっては少々よろしくないと思われたかと思う。
子供と同義で扱っているし。
しかし安心してもらいたい。
次回
「たかしくん、保育園の年長さんになったのね」
月: 2016年6月
通り過ぎちゃって。その2
前回からのつづき。
【あらすじ】
無限希釈っていうのがある。
放屁をかましたところで、例えば地球規模で考えると、屁はその圧倒的な溶媒(大気)に無限に希釈されてしまう。
これってなんか、ホメオパシーの考えと同じじゃない?。
=====
で、実はホメオパシーについてはあまりよく知らない。
知らないながらも説明してみると、こんな感じ。
=====
娘
「おかあさーん。机に置いといたんだけど、チュッパチャップス知らない?なめかけの」
母
「あら、もう捨てちゃったわ」
娘
「えーうそ!。あれ、山本センパイのなめかけだったのに!。まだゴミ箱の中にある?」
母
「ちょっと!。すごいわねあなた!。いや、それもそうだけど、そもそもあれ、ほぼ棒だったわよ。しかもガジガジしてある」
娘
「そこがいいのに!。もう、どうしてくれんのよ!」
母
「落ち着いて。もしかしたらそこらへんにチュッパチャップスの香料だか何かの形で、数分子くらいは漂っているかも知れないわよ」
娘
「スーパーバキュームモード、チェンジ!!」
=====
ごめん、上のあんましホメオパシー関係ないかも。
ホメオパシーは「同種療法」とも呼ばれ、「ある症状を引き起こすものは、実はその症状を抑える要因でもあるから、むしろそれ、与えちゃえ」という感じの、よくわからないやつだ。
しかし歴史は長いらしく、ググるといっぱい引っかかる。
ここではその効果の是非を考えるつもりは全くないが、「無限希釈」と絡めたいのが、この「むしろそれ、与えちゃえ」の部分。
ホメオパシーの考えでは、「与えちゃう量が、すこぶる少ないことが必要」らしいのだ。
例えば「殺してしまったたまごっちへの懺悔の念で熱が出る」病気があるとする。
したがって、この人はたまごを食べると、たまごっちレセプターがたまごを捉え、発熱する。
ここでホメオパシーの考えを用いると、「たまごを粉砕し、溶媒に溶かし、さらにその一滴を溶媒に溶かし。」
これを繰り返して「ほぼ溶媒だが、1分子くらいはたまごが入っているかもしれないもの」を作成する。
これは、「無限希釈されたたまご」と言えるだろうが、これが効くというのだ。
効くというのは「目の前にたまごっちが落ちていたのを見て発熱した人に対して服用させる」。
「常に服用し、いざたまごっちが飛んできても発熱がゆるやか、あるいは抑えられる」。
どちらかはよく分からないのだが、とにかく効くらしい。
「無限希釈」というのは、少なくとも前回のバルサンのくだりでは、「希釈されてまくって効果がなくなる」のに対し、ホメオパシーでは「希釈されまくって効果が出る」。
もちろん気になるのが「我が家で無限希釈をもくろんだバルサン、実はホメオパシーとして世界中の昆虫に効いてしまう」。
あるいは「娘、常時きゅんきゅん」。
あるいは放屁による、どこか誰かへの影響。
そういえば去年の今日の放屁。
それが誰かに与える、何か。
ホメオパシーの考えはSF的にも、もちろん効果があればあったで、なかなか楽しいものだ。
しかし、無限希釈とはどうしても相反するものである。
無限希釈で助かっていることも多い。屁とか。
もちろん、いい具合にばらけるかもしれない、「たまご粉砕溶媒は効果があるが、屁は薄れゆくばかりだ」。
あるいは「効果があるのとなくなるの。ちょうどの境界線が、実はある」とか。
ともあれ双方、粒子の流れやカオス理論、時間を含めると、もっと深く考えることができるだろう。
けど、もうそれは、僕は全然わからない。
どのくらい分からないかというと、今回の内容で出てきた「たまご1分子」くらい分からない。
なんなんだ「たまご1分子」。
そぼろ丼を食べているとき、甘いスクランブルエッグみたいなのが少し残っているとうれしいが、それとは関係ないか。
通り過ぎちゃって。その1
ドアの目張りをはがしたあとは、気をつけるのは床に点在する死骸くらいなのだ。
猫がいるものだから、よくカリカリ(猫えさ)を置きっぱなしにしてしまう。
ゆえにごきぶりが繁殖し、結果的には見かけても「また歩いてるわ」くらいのインパクトしか与えない。
そんな状況になっていたのだ、我が家は。
「バルサン」の効用により、部屋は「密室殺G」の様相。
大きく息を吸い込んで、死骸を踏まないようにしながら窓を開放しに向かう。
「バルサン」の取扱説明書に「使用後は窓を開放し、十分に換気する」とある。
「換気する」を「歓喜する」と考えると、どれほど殺虫できたんだとその撃墜数が気になるが、気になるのはそっちではない「換気」の方だ。
「窓を開放し、十分に換気する」というのは、「無限希釈」の考えが根底にあるから実行できるものだ。
ここで言う「無限希釈」というのは、「世界、すごく広いから。うちでやったバルサンを全て掃き出しても、薄まりまくって。結果、バルサン掃き出してないことと同じなんだなぁ。みつを」ということ。
言い換えれば、例えば我が家の居間が地球の大気の50パーセントくらいを保有するキャパシティーを持つ、掃除が大変な部屋だったとする。
そこで「その空間に有効なバルサン」を炊いたあと、換気のために窓を開放すると、これは「無限希釈」にはなり得ない。
双方の差があまりないため、希釈しまくってほぼなかったことにするのが難しいからだ。
窓を開放するとき、僕は「我が家のバルサンが世界の昆虫に与えるダメージ」を考えないわけではないが、感覚的にも「ダメージゼロ」だとも思う。
ただし、「バルサンの無限希釈」にはグラデーションがあり、例えば我が家で飼っているカブトムシの幼虫ケースは、開け放った窓の目の前に存在する。
もしカブトムシの成虫がそこにいるときにバルサン開放を行うとすると、「バルサンは無限に希釈される前にカブトムシに出会ってしまう」ことになる。
ブラジルにいるカブトムシが我が家のバルサンに出会う確率はゼロであるから「ブラジルのカブトムシ聞こえますか」とアッコにおまかせで通知を試みる必要はない。
しかし、無限希釈の考えを持ってしても、局所に目を向ければ、例えばうちのカブトムシはヤバいのである。
幸いなことに、カブトムシは幼虫である。
念のため少し遠ざけておいたから、もう文句なく窓を開け放つ。
これから拭き掃除、食器を洗ったりしなくてはならない。
人間というのは物を飲み食いするが、そのとき食べたものが様々な形で体に取り込まれる。
これは言い換えれば「それまで使っていたやつと交換になる」ということで、そのくだりは毎日、みんな食卓と便所でその様を経験している。
人間を構成するほとんどの物質は、確か数日で交換されていた気がする。
もちろんほぼ交換しない部分もあるが、例えば一週間前に体を構成していた物質は、その多くは今日、すでに交換されていて、その点、中二っぽく考えると「全然別の人」と言えなくもない。
僕はこの考え方と「無限希釈」というものが絡むと結構面白い話ができるんじゃないかとかねてより考えていたが、もう何か誰かやってる気もするし、やってたらもうやっちゃってやっちゃって、という感じである。
しかし今回はそっちではなく、「無限希釈」と合わせて考えてみたいのは「ホメオパシー」。
「同種療法」とも言う、どちらにしても何それ、というちょっと怪しい医療学についてである。
次回へ。
タイ料理について
どちらかというと、パッタイが好きである。
「パッタイ」はタイ風焼きそばのようなもので、その名に「タイ」と入っている点で日本人の言語事情に優しい。
味はというと、ちょっと不思議な甘さと幅の広い麺、ナッツの粉砕物が異国っぽく、大概入っているパクチーの雑草感も合う。
それと、タイ風チャーハンが好きである。
「タイ風チャーハン」はほぼチャーハンで、その名に「タイ」と入っている点で日本人の言語事情に優しい。
味はというと、ちょっと不思議な甘さと米、卵がチャーハンっぽく、大概入っているパクチーの「これがあればタイ料理」感も合う。
ということで、タイ料理屋に行くと、どうしても「パッタイとタイ風チャーハン」が食べたい。
もしそれがセットでなく、単発で一人前ずつの量だとしても、両方頼みたい。
たとえそれで懐事情が寂しくなり、その後白湯の日々が続くのだとしても、だ。
船頭多くして。
先日、いろいろ作業をやっていると「百人一首」という言葉が浮かんだ。
その字面を、この作業や本来持つ意味、それらを除外した状態で考えてみると、結構すごいことになっていると思った。
「百人のデュラハンたちが共有している頭」
まず思いついたイメージはこれだ。
ただ、デュラハンがいまいち汎用性に欠けることくらい、僕はわかるので、違うことを考えてみる。
「百人一首とは逆ヘカトンケイルのことである」
汎用性というのは難しい。
ところで、ここで考え込んでしまった。
「百人一首とは逆ヘカトンケイルのことである」
「ヘカトンケイルとは逆百人一首のことである」
どっちがいいのだろうか。
どちらにせよ困ってしまうのが「この人、百人一首の事知らない」という、日本人としては奇跡に近い状況が生まれなくてはならないという点。
そして「ヘカトンケイル」がどんなものなのかを、逆に少しは知っている。
なかなか難しいが、それらの条件がそろったとき、人は上記のいずれかを口にする。
ただ、人に「百人一首ってなに?」「ヘカトンケイルってなに?」。
どちらがより聞かれやすいかを考えると、おのずと「ヘカトンケイルとは逆百人一首のことである」が有用だと思わる。
ただし、これは質問者も「百人一首のことを、例えばデュラハン共有として認識している」超絶勘違いを発動している必要があり、もうおなか一杯。
作業に戻ろうかというとき、また。
「百人一首とは逆ダンタリアンのことである」
なんだこっちのほうが合ってるじゃないかと画像で確認しようとしてみたら、僕が知っているのと違うダンタリアン、美少女がたくさん出てきた。
誰なんだ彼女は。
ただ、それはある意味、ダンタリアンっぽい気もするのだが。