【昨年のあらすじ】
比喩の例えは、自然物の方がいいのか、人工物の方がいいのか。
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本来、比喩で用いる「例え」の方に、自然のものか人工物かなんてことを気にする必要はなく、よほど「一般的にうまいこと言えているか」の方が重要だ。
「こないだの忘年会、吉田さんの一発芸が面白かった。さるまっぺくらいに。」
このとき、いくら一部の人間にとって抱腹絶倒の比喩だったとしても、さるまっぺは著しく市民権を得ていない。
その時点で、この比喩は成功していない。
調べてみると比喩というのは修辞学における技法の一つに数えられるそうで、それは言い換えると弁論に用いる技術。
相手がさるまっぺを知らないとなると、弁論以前の、ちょっとそこはどうにかしておいてよ、という問題になってしまうわけである。
しかし、それでも考えてみることにする。
「光陰矢の如し」
ことわざだったと思うが、これは月日、時間の流れは「矢」のように早いよ、ということである。
おそらく当時、矢以上の速さのものは光陰以外知られていなかったのだろう。
早いよね、光陰。
ところで、ここでの例え、「矢」は人工物である。
あの、弓でびゅっとやる、あるいは破魔の力のある、あるいは先端に吸盤がくっついている、あるいはモンハンで長い敵に貫通させると気持ちいい。
光陰という自然の現象に対して、人工物の例え。
全く問題ないが、もし無理にでも問題を生じさせるとすると、こんなことは思いつかないだろうか。
「例える相手が自然の現象ならば、その例えに用いるものも自然現象の方がいいのではないか」
国際的に何かルールがあります、とかは知らないのだが、個人的には全然そうは思わない。
今回は「速さ」に注目していることであるから、むしろ「自然現象と人工物」で性質的にも相対した方が「すごい感」が出ていいのではないかとすら思う。
もちろん、「矢」が発明される前は自然物が「光陰」と比喩関係にあったこともあるだろうし、今では矢よりも早いものはいくつも存在する。
でも、どうしても我々西暦っ子は、「光陰矢の如し」で来てしまった。
「光陰」の「光」そのものの正体が反映したにもかかわらず、「矢」で来てしまった。
こうなると「自然物の方がいいのではないですか」という質問をする者に対しては、「実はここで使っている矢、海に生息するイモガイが放つ毒針のことなんです」と新しい矢の概念を持ち出すくらいしかない。
しかし、これで一安心とはおそらくいかず、質問者は次に「その矢は貝工物だから、自然物ではありません」などとくるかもしれない。
これではもはや自然物と人工物なのか、さらには生物由来なのかと定義付けがそれぞれに必要となり、いや人類を含めた生物すべては自然のものだしなどと、もうゴッドガンダムの世界であり、まさに神のみぞ知るというところだろう。
冒頭にあるように、比喩の例えは自然物であろうが人工物であろうが、比喩として完成されているならば問題ではないだろう。
強いて言えば、比喩を使用してきた相手に対して「なんくせ」をつけるには案外いいかも知れない。