もはや蠱毒の様相

じゃんけんにはメンバーが3つあって、グー、チョキ、パーとして、均等な勢力を維持している。
3すくみの関係というものは海外を含めると様々な種類があって楽しい。
日本で有名なのは虫拳で、何か序盤のボスが使ってきそうな名前だが、ほぼじゃんけん。
手で表現するのは「へび」、「かえる」と「なめくじ」で、実際には厳しいが考え方としては「へび、かえるに強い」「かえる、なめくじに強い」「なめくじ、へびに強い」である。
ここで、じゃんけんにおける「グーとチョキとパーの長所をすべて備え、無敵だとされる型「グーチョッパー」について説明すると、それ以上の説明はない。
親指から中指までは広げ、薬指と小指は曲げる。
これで「グーもチョキもパーも兼ねる」型であり、それは反則的無敵か反則である。
この「グーチョッパー」の虫拳版はどうしようか。
それが今日、言いたかったことである。
wikiを見てみると、虫拳は平安時代からあるという。
すごいことだが、当時でも議論はあったのではないか。
すべてを負かす虫が。
それはおそらく接待用に必要だったに違いない。
「いやあ、それを出されては。かないませぬな!!」
こんな感じ。
それはどんな虫だったのだろう。
普通に考えると、「グーチョッパー」のような、すべての特徴を兼ね備える、合成。
虫拳では「蛇と蛙と蛞蝓」のキメラになるだろう。
今、漢字で書いてみたが、みんな虫へんだ。
「蛇と蛙と蛞蝓のキメラ」というのは何だ。
強いのか?。
蛇はまだいい。
本家のキメラだって、しっぽは蛇です、という例があるくらいだから、強さに貢献できる何かがある。
蛙は怪しい。
跳躍力と伸びる舌が、長所である判明、なんとなく雑魚っぽさを醸し出す。
蛞蝓は厳しい。
表立って目立つ特徴は気持ち悪いことだ。それ以外、いいやつなのか悪いやつなのかすら分からない。
と、強さについて考えていたことに、僕は勘違いしていたことに気づく。
「蛇と蛙と蛞蝓のキメラ」は、あくまで「蛇と蛙と蛞蝓の中で最強」であれば、じゃんけんにおける「グーチョッパー」になるのだ。
「グーチョッパー」はじゃんけんのなかでは無敵だが、もちろんそれで喧嘩の仲裁をできるわけではないし、プロレスに勝てるわけでもない。
昔、スタン・ハンセンというプロレスラーが決めポーズとして「グーチョッパー」風のフィンガーサインをやっていた(※)が、彼が強いのはそのサインのせいではないのである。
だから、虫拳における「グーチョッパー」だって、虫拳の中で最強であればいいのだ。
となると、「蛇と蛙と蛞蝓のキメラ」。
蛇にも蛙にも蛞蝓にも勝てるかというと、ちょっとね。
※どちらかというと「きつね」のサインっぽい。

言霊供養

僕はそれほどモノマネのレパートリーがないと思っていたが、結構な頻度で「スーパーファミコンのスターフォックスのカエル」のモノマネをしていることに気づいた。
誰もいないところで。
さらにいうと「グラディウス3のラスボス」のモノマネもしている。
誰にも知られないところで。
誰にも公表しないモノマネというのは、悲しい。
モノマネである以上、オリジナルは決して越えはしない運命であるから、せめて誰かに知ってもらうということが、その供養になるというのに。
ということで、あまりモノマネをしないようにしたいところなのだが、今日は「何かの中国映画のオープニングで流れていた曲」のモノマネだ。
これは、後ろを歩いていたおじさんに聞かれてしまったから、供養済みである。

イヤホンジャックについて

幸運にも携帯電話を落としたことはない。
だが、それを失った時のめんどくささはなんとなくわかるため、ストラップをつけて首から吊り下げるようにしている。
これで落とさない。
しかし、不安の種はさらに上を行く予想を僕にさせ、すなわちストラップのリング金具部分、合わさっている部分から奇跡的に離脱。
落としてしまうかもしれない。
そこで僕は長さの短いイヤホンを購入し、音楽を聴く体で過ごすようにしている。
イヤホンが、ストラップと同じ安全性まで保持しているとは思わない。
ただ、ある程度は携帯電話落下の危険性を下げてくれるだろうし、もう落下させてしまった場合、「あれ、志ん生の落語が聞こえない」などの異常でそれを察知させてくれるかもしれない。
ところで、今カバンの中を見てみたら、外れたイヤホンが入っている。
携帯電話がない。
家の充電器につけっぱなしだ。
最初に「携帯電話を落としたことがない」としたが、危ないところは何度もあったのかもしれない。
気をつけなければ。
それにしても、カバンの中のイヤホン。
昨今、最新のやつはイヤホンジャックがなくなるかどうかの話題があるようだ。
これでiphoneの落とし物率がダウンするのなら、新しいイヤホン差し込みのところが固いと言え、今のイヤホンは3DS用になる。
一方、アップするのなら、差し込みのところが緩い。
アダプタを介して今のイヤホンを使用しても、結局アダプタと携帯間が緩いため、緩い以上の性能アップは別のルートを考えるしかない。
そしてイヤホンは3DS用になり、差し込みが緩いのは、スタンダードになる。
どちらにせよ、今のイヤホンは3DS用になるが、それは悪いことではないし、まだわからない。
買い替える予定がないから。

しんにゅう

やっぱり「遊ぶ」という漢字の、「しんにょう」のところには乗りすぎな気がする。
「測」など、横並びに多いやつもあるが、乗ってない。
「遊」は横並びも多くて、しかも一番左のやつにみんな乗っているというのがポイント。
ときには骨が降りることもあるが(髄)、「しんにょう」の懐の深さを感じる。
そして通り名が複数あり(しんにょう、しんにゅう)、その漢字内位置から全体のバランスをとるのが難しく、小学生の時にチラシの裏で誰もが練習しただろうこと。
「しんにょう」はかなり特殊な部首と言える。
調べてみると、本来の正しい形は「迄」などに見られる点が2つある型(こちらは4画)らしく、もうどっちでもいいじゃんというくらい、独特。
仲間っぽいのに「延」などにいる「えんにょう」は「えんにょう、しんにょう」と呼ぶらしく、この換算方法を使えば「しんにょう」も「しんにょう、しんにゅう、えんにょう、えんにゅう」と夢の4通り名になり、もう1年くらい、「しんにょう」ってひらがなを見たくない感じ。

背比べ

近所で「たけのこの里」と「きのこの山」(おなじみサイズ箱のやつ)が、100円で売られることがあるため、両方を比較しやすい環境に、僕は住んでいる。
で、知ったことには「たけのこの里」のほうが少し内容量が少ない、ということで、たぶん知っている人は知っているだろう。
なんせ「たけのこの里」と「きのこの山」の話なわけであるから、それは「盛り上がる」。
たけのこ、きのこだけに。
ともかく、内容量は少しきのこの山に分があるんである。
これを「きのこの山の強み」とみるのか、「たけのこの里の高価さ」とみるのかは人によるだろう。
僕はどちらも好きだから、ありがちだが甲乙つけがたいところ。
ただ、「きのこの山」「たけのこの里」どちらも、開封後数分ですべて平らげてしまう。
それは明記しておこうと思う。
なお、私的には以下のようなメリット、デメリットがこれらのお菓子には存在する。
■たけのこの里
・メリット:おいしい、クッキー部分が粉ふいてて面白い
・デメリット:チョコとクッキー部分が分離しにくい
■きのこの山
・メリット:おいしい、チョコ部分を取り除いたクッキー(ビスケット?)が大腿骨みたいで楽しい
・デメリット:割れて石づきだけ、傘だけになっているものがある(ただし、これは最後にひときのこと複数の石づきを食べることによる「チョコ割合の低いきのこの山」という別風味を楽しむ」メリットでもある)

時間モザイク

最近は撮影機材の進歩も著しいのだろう。
鮮明なスロー映像がよくバラエティ番組や教育番組で流れている。
風船の破裂する瞬間や、素早い動物の映像。
もっとすごいものになると回転が分かるくらい、スローな状態で弾丸がこんにゃくみたいなものに突き刺さっていく映像など。
これらの何が面白いのかというと、やはり「いつもは早いのに、ゆっくり見える」という点だろう。
今まで早くて気づかなかった動きや細かな点など、人間の目にも認識できるくらいのスピードで見えるから。
また、ゆっくりとした動き自体が面白いというのもあるだろう。
しかし僕としてはもう一つ、面白さがあることを付け加えたい。
それは「スローになっているものに触ったらどうなるか」という好奇心をぐりぐりする疑問であり、そう思っている人も多いに違いない。
例えば前者の弾丸。
いつもの環境ならぎゅーんいってこんにゃくに突き刺さるわけだが、スロー映像では今にも触れそうだ。
目の前を流れる回転ずしよりも遅いくらいで、簡単に箸でつまめる。
もちろん、弾丸がそんなスピードで「飛行」することは、それ自体に動力がなくて難しいだろうから、それだけで非日常的で楽しい。
また、ゆっくりなこと自体もかわいくて楽しい。
ハエなんかがそのくらいのスピードでしか飛べなかったとしたら、そのトロさがかわいく見え、もっと人類と鳥類に人気が出る。
そして触ったらどうなるか。
弾丸の横っ腹をつついたら、どれほど軌道が逸れるものなのか。
こんにゃくに当たる前に指を先端に当てたら、指が破壊されるのか。
要は弾丸の持つエネルギーが、スロー状態ではどうなるのかということになる。
ゲームの世界では「敵をスロー状態にして、動きをトロくする」というのがよくあるが、実は攻撃力も下がるんじゃない?ということでもある。
さらに、「時間の流れが違うものに触れる」という、様々なSFやホラー、漫画で扱われている事象も興味深い。
特に何もジレンマに陥るようなことはないのか。
触れたところだけが、触れたものの時間の流れに相当するのか。
SFの醍醐味を考えると、「弾丸とその周囲10cmくらいだけ時間の流れが遅い」という感じのが面白い。
特殊相対性理論では「早いものは時間の流れが遅い」となっているらしいが、どういうわけか、とにかく「弾丸とその周囲10cmくらいだけ時間の流れが遅い」ということで、これでは弾丸に触れようとした右手だけにウラシマ効果が発動。
末永く手タレとして活動できて、よろしい。
クワガタムシなどの昆虫に「雌雄モザイク」という、左半分がオス、もう一方はメスみたいな、いったいどうしたんだという個体が存在する。
遺伝学的に異なる性質の細胞が両在している状態を指しているわけだが、先ほどの右手はいわば「時間モザイク」の状態と言え、例えば例の弾丸を大きくして、その上にまたがっていれば、足:20歳で足以外:50歳の時間モザイク個体が完成。
末永く足タレとして活動できて、これはもういいか。
また、そんなことを考え出すと次は「老化」というものも無視はできず、確か一部器官のみ老化が著しく進行するという病気があったはず。
もちろんそれは、時間の流れどうこうというよりも遺伝工学の世界の話だろうが、例えばその病気の特効薬が開発。
その名前が「光の弾丸」だったりすると中2っぽくてかっこよい。
ところで、難しいことは分からないが「早いものは時間の流れが遅い」ということは、相対的に「静止しているものが一番時間の流れが速い」ということでいいのだろうか。
そうなると時間の流れが、より遅くなる分には余裕がありそうだが、より早くなることは難しそうである。
時間の流れをより早くすることは、「より静止」しなくてはならないから、これは少なくとも僕には難しい。
まずは外出をやめることと、静止する旨を通知しなくてはならない。
それから冬のように布団から出なくなり、あとはもう身じろぎせず、「固くなる」ことを絶やさないくらいしかできないだろう。
トランセルか俺は。

ヒユ プリミティブ2

【昨年のあらすじ】
比喩の例えは、自然物の方がいいのか、人工物の方がいいのか。
=====
本来、比喩で用いる「例え」の方に、自然のものか人工物かなんてことを気にする必要はなく、よほど「一般的にうまいこと言えているか」の方が重要だ。
「こないだの忘年会、吉田さんの一発芸が面白かった。さるまっぺくらいに。」
このとき、いくら一部の人間にとって抱腹絶倒の比喩だったとしても、さるまっぺは著しく市民権を得ていない。
その時点で、この比喩は成功していない。
調べてみると比喩というのは修辞学における技法の一つに数えられるそうで、それは言い換えると弁論に用いる技術。
相手がさるまっぺを知らないとなると、弁論以前の、ちょっとそこはどうにかしておいてよ、という問題になってしまうわけである。
しかし、それでも考えてみることにする。
「光陰矢の如し」
ことわざだったと思うが、これは月日、時間の流れは「矢」のように早いよ、ということである。
おそらく当時、矢以上の速さのものは光陰以外知られていなかったのだろう。
早いよね、光陰。
ところで、ここでの例え、「矢」は人工物である。
あの、弓でびゅっとやる、あるいは破魔の力のある、あるいは先端に吸盤がくっついている、あるいはモンハンで長い敵に貫通させると気持ちいい。
光陰という自然の現象に対して、人工物の例え。
全く問題ないが、もし無理にでも問題を生じさせるとすると、こんなことは思いつかないだろうか。
「例える相手が自然の現象ならば、その例えに用いるものも自然現象の方がいいのではないか」
国際的に何かルールがあります、とかは知らないのだが、個人的には全然そうは思わない。
今回は「速さ」に注目していることであるから、むしろ「自然現象と人工物」で性質的にも相対した方が「すごい感」が出ていいのではないかとすら思う。
もちろん、「矢」が発明される前は自然物が「光陰」と比喩関係にあったこともあるだろうし、今では矢よりも早いものはいくつも存在する。
でも、どうしても我々西暦っ子は、「光陰矢の如し」で来てしまった。
「光陰」の「光」そのものの正体が反映したにもかかわらず、「矢」で来てしまった。
こうなると「自然物の方がいいのではないですか」という質問をする者に対しては、「実はここで使っている矢、海に生息するイモガイが放つ毒針のことなんです」と新しい矢の概念を持ち出すくらいしかない。
しかし、これで一安心とはおそらくいかず、質問者は次に「その矢は貝工物だから、自然物ではありません」などとくるかもしれない。
これではもはや自然物と人工物なのか、さらには生物由来なのかと定義付けがそれぞれに必要となり、いや人類を含めた生物すべては自然のものだしなどと、もうゴッドガンダムの世界であり、まさに神のみぞ知るというところだろう。
冒頭にあるように、比喩の例えは自然物であろうが人工物であろうが、比喩として完成されているならば問題ではないだろう。
強いて言えば、比喩を使用してきた相手に対して「なんくせ」をつけるには案外いいかも知れない。